* プロローグ 追憶(二〇二×年四月五日) * 《P-3》
深呼吸して息を整える。パニックに陥りそうな意識を、可能な限りクリアに保つ。
「最初は……デバイス高速化のモジュールかなと思いました。だけど、条件分岐を一つ一つ確認していくと、どうにも他の処理と繋がらないんです。一見パラメータとして有効でも、他の条件分岐で殺されていたりして。なんというか、出口のない迷路を作っているようで」
「将来のアップデートに備えて、モジュールを先行追加したのかも? あるいはデバッグ用のモジュールが残ってしまったとか」
「だったら、他モジュールへの接続をもっと直接的に遮断しているはずです。極端な話、処理の先頭でEXITを書きこんでもいい。なのにわざわざ処理を走らせて、何も結果を返さずに終了させている。それもそうと分からないよう念入りに偽装して」
「……」
「もちろんバグの可能性はあります。だけど、どの分岐をたどってもシステムに大きな負荷を与えないようになっていました。これは実測で確かめています。要するに、この無駄は制御されているんです。ミスやハプニングの類いでは絶対にありえません」
「うん。うん、なるほど」
細い顎が引かれた。口元がわずかにほころんでいる。
彼女は人差し指を立てた。
「OK、質問に答えるわ。まず『あれは何か?』よね。答えはあなたの言った通り、『無意味』よ。あのモジュールはOSの機能になんの貢献もしていない」
ざわめきが広がった。
動揺と混乱。騒然とした会場の中で、ただ一人セピアだけが泰然としている。
「次の質問、『どうしてあんなコードを書いたのか?』、一言で言えば人材発掘のためね。そういう悪戯をたまにするのよ、私達。ダミーのコードを混ぜて、気づいた人に相応のポジションを与える。ほとんど社内の人が見つけちゃうんだけどね。これはちょっと難しくてそのまま外に出ちゃったの。以上、納得できた?」
「ええっ……と」
「あなたは優秀ね、って言っているの、ID×××さん。与えられた道具を道具として使うだけではなく、その仕組みをちゃんと理解しようとしている。疑問を疑問のままにしておけない、そういう貪欲な好奇心も持ち合わせている。ライトスタッフ。正しいエンジニアの資質よ」
どう答えてよいか分からなかった。自分はただ、降って湧いた機会を逃したくなかっただけだ。セピアに伝えたいこと、訊きたいことを手当たり次第にぶちまけた。それだけの話だ。なのにいつの間にか脚光を浴びている。きらびやかに照らし出されて、さぁ拍手をと言わんばかりの空気になっている。
周囲の様子も一変していた。
笑い声は収まり、固唾を呑むような沈黙が満ちている。カメラがオフになっていても、皆がこちらを見ているのは分かった。
一体目の前で何が始まったのか、これからどう推移していくのか、興味と困惑が伝わってくる。
セピアが壇上を歩く。
手を後ろで組み、考えるように顎をもたげながら。他のジ・オリジネーターズを振り返って、
「さぁ、どうしようかしら? ダミーの第一発見者にはポジションで報いる。それが原則だけど、今回はちょっと扱いが難しいわよね。労基に睨まれたくないし。彼もこのやりとりを周囲に知られたくないと思うから」
「……」
「そうだわ。こういうのはどうかしら? 私がプライベートであなたに会いに行くの。さっきファンって言っていたから、報酬としてはありじゃないかしら。どう?」
続いて起きたどよめきは、先ほどまでと比較にならなかった。
露出の少ないジ・オリジネーターズの中でも特に希少種のセピア。もっと言えば、メディアに直接姿を見せたことが皆無の彼女。
それが一ユーザーの前に現れる? プライベートで?
「セピア! いい加減にしろ、やりすぎだぞ!」
立ち上がったのは長髪のエンジニア、一畑だった。別のジ・オリジネーターズも顔を強ばらせている。口元が動いているのはバックヤードと交信しているからか。司会の馬木が慌て気味に観客席に手を振ってみせる。
「皆さん! 皆さん! カンファレンスの録画・録音は規約で禁止されています。また他の参加者を特定する行為は、個人情報保護規定の違反となります。即座に中止していただけない場合は、カンファレンスの進行を止めさせていただきます。皆さん――」
スタッフが壇上に出てくる。肩をすくめるセピアを連れて袖に向かっていく。
パシャリという音はスクリーンショットのものか。他参加者の視線を感じる。好奇の熱がスクラムを組んでぶつかってくる。
あれは誰だ。名前は、所属は、顔は。どこから繋いでいる? いつセピアと会う気だ? ダイレクトメッセージは開放している? もう裏でコンタクトを始めているかも。急いで話を聞かなければ。IDを検索して、使える連絡手段を確かめて――
バツン!
接続が切れた。画面が暗転した。
運営側が進行不可と判断したのだろう。接続ボタンを押しても反応がない。ややあって『お詫び』のメッセージが表示された。
『安全対策上の問題から、イベントの続行を中止させていただきます。今後の対応については、確定次第、ご登録のIDに送付させていただきます。または以下の特設サイトの最新情報をご覧ください』
肩の力を抜き、荒い息をつきながら座席にもたれかかる。
激しい動悸は、いつまでもおさまらなかった。
以上が僕の犯した罪の顛末だ。
言い訳の余地もない不正アクセス。一歩間違えば、威力業務妨害にもなりかねない行為。
とはいえ『子供のしでかしたこと』という免罪符は大きい。全てが露見して、親に知られたあとも、僕は拳骨を落とされるくらいの罰ですんだ
(代わりに父は、ID管理不行き届きで方々に謝罪して回ったらしい。まったくもって申し訳ない)
僕は頭の瘤と引き換えに、かけがえのない思い出を得た。オンラインでとは言え、憧れの人と声を交わすことができた。
そして?
いや、それだけだ。
カンファレンス終了後、オーパス社との関わりは一切なかった。事情聴取の類いもなく、翌日以降、僕の存在がネットニュースをにぎわすこともなかった。
どうやら大人達は全てを闇から闇へ葬ると決めたらしい。特設サイトの更新は途絶えて、非公開のカンファレンスは名実ともに『ここだけの話』となった。
まるで全てが夢だったかのように、仮想の出来事だったかのように、僕の生活は日常へ戻っていった。
あの時、交わした約束が果たされることはなく。
現実の荒島セピアが訪れてくることもなく。
緩慢な時間がカンファレンスの記憶を押し流していった。
そうこうしているうちに、スマートバッズの話題は人口に膾炙しなくなり、荒島セピアの名も表舞台から消えていった。
次にどんなデバイスが出るか、どういう機能が提供されるか、騒ぐ者はいなくなった。どころかスマートデバイスという言葉自体がまったく使われなくなっていった。
なぜかって?
簡単だ。
ギズモが生まれたから。
僕ら自身が〝スマート〟になってしまったから。
全てのスマートデバイスは過去の遺物になった。ここ十年の間に生まれた人達はスマートフォンもスマートバッズも知らない世代になった。
バッズは歴史の影に消えた。
荒島セピアの存在も忘れられた。
今となってはもう誰も覚えていない。
全てが夢幻だったかのように。
〝スマート〟な僕らは、そう、〝デバイス〟のない時代に生きている。