* 1章 二〇三×年十月二日 栃木県・桧山サーキット * 《1-1》
後輪が浮き上がった。
流線型のバイクが宙に舞う。
青と白に彩られたカウルが横倒しになり、独楽のごとく回転する。
火花が散り、次いで土煙が上がった。撥ね飛ばされたドライバーがアスファルトに叩きつけられて動かなくなる。粗い画像でも、首と左足がおかしな方向にねじ曲がっているのが分かった。
クラッシュだ。
レース中継を眺めていた僕らは一様に呻く。続く厄介ごとが容易に想像できたからだ。予想を裏づけるように、硬質なアナウンスが響き渡る。
『ドライバー27のバイタル停止を確認。三班、〈復元〉処理に入れ。分かっていると思うが優勝候補だぞ。SLA違反は大クレームだ。報告書対応で残業したくなかったら、気合いを入れろ』
ピットガレージがにわかに慌ただしくなる。ピットクルーはもちろん車体のレストアに、そして僕ら、オーパス・エンタープライズのフィールドエンジニアは持ちこんだ機材のセットアップにかかる。
機材――棺桶と産業ミシンを合わせたような外観だった。
インタフェースの類いがほとんどないのは、ギズモの網膜ディスプレイがその役目を担うからだ。僕らは音声コマンドとハンドジェスチャーで仮想コンソールを呼び出す。空間に展開されたダッシュボードが次々と情報を表示した。
「最後のメンタルバックアップは二分四十秒前。おおよそ二周から三周前の記憶が欠損しているはずだ。キャッチアップスクリプトは十秒尺で用意。クラフトセルは百二十キロ分をセット」
彫りの深い顔立ちの男性がてきぱきと指示を出す。柔和だが意志の強そうな眼差し、スポーツマンのように均整の取れた体格。チームリーダーの赤江だ。
棺桶ミシンが唸りを上げて動き出す。大量のクラフトセルを飲みこみ、同時にネットワーク経由で復元対象のデータを読みこみ始める。
バックアップイメージのプレビューが二種類、目の前に映った。
一つは先ほど赤江の言ったメンタルバックアップ。対象者の意識と記憶が一ファイルにまとまっている。
そして、もう一つのプレビューがクラフトセルを作って生み出される肉体――すなわちギズモだった。絶命したドライバーの全身像が3Dで映し出される。
僕――園晴壱は他班員と手分けして、必要な情報を読み上げた。
「氏名、バイタルID、バックアップタイム、全て一致。STLモデルに生命維持上の問題なし」
「メンタルデータのALOSバージョン、3・47a。ターゲットギズモのサポート範囲。ストレージ容量もクリア」
「BPステータス、全てグリーン。セルフチェック、問題なし」
「造形開始」
「OK、造形を開始する」
STARTボタンを押下、いくつもの確認プロンプトを経て、最終GOの判断を下す。棺桶ミシンの駆動音が高まった。嘴を思わせる射出成形ノズルが、クラフトセルを撃ち出す。棺桶の中に人型の染みを生み出していった。
たとえるならば人間の輪切りを逆再生するような眺めだった。肉が、骨が、血管が積み重なり厚みを増していく。棺桶ミシン――すなわち、3D│バイオプリンター《BP》の読みこんだバックアップデータをもとに、ドライバーの身体を再現していっているのだ。
もちろんまだサーキットには彼の死体が転がっているわけで、異様な光景であることは間違いない。だがそれをおかしいと言う者はこの場にいない。一世代下の人間なら、そもそも異様とさえ感じないだろう。精神と肉体は分離可能で、使えなくなった肉体は破棄すればよい。そんな認識が浸透しているからだ。実際、ピットクルーの大半は、僕らの〈復元〉を一顧だにしていなかった。
ガチャン。
ノズルが停まる。最後のクラフトセルがしたたると、成形された鼻の頭がぷるんとゼラチンのように震えた。わずかな間を置き、内側から膨れ上がるようにして肌の張りが、血色が改善していく。展開されたクラフトセルが仕事を始めているのだろう。あるものは血に、あるものは肉に、生物が活動するための条件を整えていく。
数秒後、棺桶に横たわる肉体は、プレビューのドライバーと相違ないものだった。僕は必要なステータスを確かめてからうなずいた。
「造形終了」
「終了確認。次、メンタルバックアックの復帰」
赤江の指示に基づいて、他班員が処理を進める。
クラウドからドライバーの意識や記憶のバックアップをダウンロード、復元した肉体に入れこんでいく。あわせて各種のメッセージングアプリやナビゲーションアプリもインストールしていった。
僕はちらりと時計に視線を落とした。順調に進めているつもりだが、大分押している。もともと無茶な
とはいえ一番手間のかかる物理対応はクリアした。あとはダイアログ通りに処理していくだけ。そう思っていたが、
「あれ?」
傍らでモニターしていた女性班員が声を上げる。眉間に皺が刻まれていた。
「どうした?」と赤江が駆け寄る。
「いくつかのアプリがデフォルト設定で起動しています。バックアップデータが引き継がれていません」
「なんだって?」
見れば確かに、初期設定画面が複数ポップアップしていた。『ダウンロード中』のまま固まっているアプリもある。円形のプログレスバーがぐるぐると回り続けていた。赤江の顔から血の気が引く。
「おい布崎、何をやってるんだ。復帰が失敗してるぞ」
無言で振り向いたのは、先ほどとは別の小柄な女性班員だった。和人形のような顔がこくりと傾ぐ。
「はい?」
「はいじゃない。おまえの担当だろう。何か手順の漏れがあるんじゃないか」
「マニュアル通りやっているだけですが」
「見せてみろ」
赤江がコンソールをのぞきこむ。視線を走らせて、ステータスを確認して、だが目立った問題のないことに気づいたのだろう、顔つきが険しくなる。
「本当に手順通りやったか? 一つ一つ結果を確認しながら進めたか? よく思い出せ、大事な話だ」
「ちゃんとやっています。ミスはありません。これでダメなら手順書が間違っているんじゃないですか」
「あのな」
「待った。待った、赤江」
気色ばむ彼を抑えて、布崎のコンソールを借り受ける。ログウィンドウを立ち上げて、操作履歴とイベントログを照会していった。
指を止める。
目当てのログを選択してハイライト。
「これ」
赤江に見えるように表示を拡大した。
「クラフトセルのネットワーク確立前に、アプリのインストールが試行されている。多分、他班のバイオプリンターが動いていて帯域が輻輳したんだ。バックアップの展開が失敗してから、アプリの再インストールが始まり、結果、初期設定が適用された」
「つまり?」
「手順を二つステップバックすれば、想定通りに動く」
「マジかよ」
赤江は目を剥いたが、質問で時間をロスすることはなかった。他班員にタスクを割り振って作業を進めていく。
ほどなくして全ての処置が完了、プロンプトの奔流が収まるのとほぼ同時に、ドライバーの目が開いた。やや混乱した様子で周囲を見渡す。
「ここは?」
僕は用意された説明スクリプトを読み上げた。
「全日本スーパーバイクグランプリのサーキットです。あなたは十二周目でクラッシュを起こして死亡しました。今丁度〈復元〉処理が終わったところです。レースに復帰されますか?」
「トップとのタイム差は?」
「復元補正を加味して三十四秒」
「くそったれ」
秘部にかけられたシーツを投げ捨てて、ドライバーはピットクルーに駆け寄る。レーシングスーツに袖を通しながら、マシンのコンディションを難詰していた。
分かっていたことだが、復活の驚きや畏敬の類いは――ない。
「悪い、助かった、晴壱」
赤江が背中を叩いてくる。額に浮かんだ汗が、かかっていた重圧の強さを示していた。肩を上下させつつ、目だけで時計を確認する。
「なんとかSLAクリアだ。おまえがトラブルの原因に気づいてくれなかったらやばかったよ。よく分かったな? ナレッジベースでも検索したのか?」
「いや、昔のスマートデバイスで似たトラブルがあったから、ひょっとしてと思っただけだ。最近は無線の帯域も潤沢だし滅多に起こらなくなっているけど、動作の仕組みが変わるわけじゃないから」
口笛を吹かれる。赤江は半笑いとともに首を振った。
「……おまえと同じ班でよかったよ。勘のよさで
「
「分かってる。なんなら今すぐやっておこうと思うが……ああ」
激しい衝突音が響く。
中継画像が多重クラッシュを映している。人体とマシンがもつれあいアスファルトに転がっていた。内耳を形成するクラフトセルが震えて、指揮所のアナウンスを伝える。
『ドライバー4、ドライバー12、ドライバー22のバイタル停止を確認。二班、三班、六班はただちに〈復元〉処理に入れ』
僕らは嘆息して作業に取りかかる。視界の端で、先ほど〈復元〉したドライバーの死体が回収車両に放りこまれているのが見えた。