* 1章 二〇三×年十月二日 栃木県・桧山サーキット * 《1-2》

 要するに僕らは〝ピットイン・ピットアウトの人体版〟を受け持っているわけだ。

 全損したドライバーを復旧して、早期にレースに送り返す作業。本来、医療施設でやるべき〈復旧〉をサーキットで行い、競技の進行を円滑化する役割。

 莫大な保守費がかかるはずだが、全日本選手権クラスなら、たやすく支払えるのだろう。現実問題、高額なスポンサー料のかかった選手がリタイアしたら、宣伝効果は激減だ。デッドヒートを期待する客も悲しむ。緊張感のあるショーを保つためにも、僕らは復活の奇跡を起こし続けなければいけないのだ。

 理屈は分かる。

 分かってはいる。

 ただ、全能なる主だって人一人の復活に三日かけたのだ。数時間の間に何人も、それも期限に追われて奇跡を起こせば、疲労もたまる。

 午前のレースが終わり、ようやく休憩に入った頃には、僕らは指一本動かせないくらいくたびれ果てていた。中継画像がトップ選手のインタビューを流しているが、見る者もいない。

 それでも赤江だけは空気を切り替えるように立ち上がった。


「よぉし、食事にしよう。きちんと補給しないと午後までもたないからな。皆、食堂の飯でよければおごるぞ。どうする?」


 班員の何人かは弁当を買ってきているようで、やんわりと移動を断ってきた。

 僕は布崎をうかがう。彼女は作業が終わってから、特に動くこともなく天井を仰いでいた。ぼんやりとした横顔を眺めながら

「布崎」と呼んでみる。


「食堂に行くか? 赤江がおごってくれるみたいだけど」


 反応はびくりと電撃でも受けたような引きつりだった。彼女は不審も露わに僕を見返す。そして半ば予想済みの言葉を返してきた。


「結構です」

「そうか、じゃあいいよ」


 深くは食い下がらない。それがこの難しい後輩と半年絡んで得た教訓だ。だが、今回初顔合わせの赤江には不可解だったのだろう。

「おい」と脇腹を小突いてきた。


「なんだ、あれ。怒ってるのか? 俺がさっき濡れ衣着せたから。確かに謝らなきゃとは思っていたが」

「いや関係ないよ。多分」


 そんな単純な理由なら苦労はしない。


「僕に話しかけられること自体、嫌みたいなんだ。今日は答えてくれただけマシだよ」

「はぁ?」


 赤江の目がまたたかれる。


「だっておまえ、あいつのOJT担当だろう?」

「そうだよ。何度も組み合わせを変えてくれと上申してるけどね。今のところ聞き届けてもらえていない」

「意味が分からないな。おまえの接し方が悪いようにも思えないが」


 どころか、さっきのように何度か危機を救ってもいる。ただ彼女との距離は縮まるどころか、遠ざかる一方だった。理由はさっぱり分からない。分かろうとする努力も、事態を悪化させるだけなので諦めた。

 僕はもう一度、横目で布崎幾――一年下の新入社員で教育対象の後輩をうかがう。


「まぁ、慣れない部署合同作業で疲れているだろうしな。放っておいてくれと言うなら、希望は尊重するさ」

「大人だねぇ」


 おどけた調子で肩をすくめられる。


「ま、いいや。で、食堂に行くのはおまえだけか? なんだよ、結局、同期飯じゃないか」

「だからって奢らないとかはなしだぞ、班長殿。一度言ったことは守ってもらわないと」

「分かってる、分かってる。トラブルシュートの殊勲者には奮発するよ」


 居残りの班員に挨拶してピットガレージを出る。

 混雑し出した廊下を抜けて食堂へ。ランチの注文は赤江に任せて、席を確保した。

 着席。

 待っている間に、胸ポケットからケースを取り出す。空豆上の中身を二つ抜き取って、左右の耳に嵌めた。


「ハロー、ヴィーク(vIKU)」


 途端、世界が変わった。

 喧噪が止み、色彩が減る。五感に到達する情報が整理される。たとえるならアタリや中心線だらけの下書きが、瞬時にクリーンナップされた感じ。本当に知るべき情報、知りたい内容だけにフォーカスされる。


(あぁ)


 意識の靄が引き剥がされたようだった。今までどれだけ雑然とした情報にさらされていたか、脳のリソースを奪われていたか思い知らされる。濁った水からいきなり顔を出せば、おそらくこんな気分になるのだろう。全身の強ばりが溶けて、溜息が漏れる。

 ギズモの機能――ではない。スマートバッズのノイズキャンセラが不要な音や光を遮断しているのだ。事前のチューニングに基づき、五感へのインプットを最適化してくれる。細かな指示は不要だ。AIアシスタントのヴィークは十年来のつきあいで、やるべきことは完璧に理解してくれている。


「なんだよ。また、そんな骨董品を持ってきてるのか」


 配膳トレイを持った赤江が呆れ顔で戻ってきている。侍の帯刀でも目にしたような表情だった。


「身一つでブラウジングもメールチェックもできる御時世に、なんでわざわざ外部デバイスをつけるんだか」

「前にも説明しただろう。カスタマイズの自由度が全然違うんだよ」


 バッズの設定画面を展開してみせる。


「視覚情報・聴覚情報の加工はもちろん、特定刺激をトリガーにした後続アプリの起動、条件分岐、ロギングが全部できる。ほら、これは最近作ったルーティンで、会話の内容をリアルタイムに解析して視覚化を――」

「あー、分かった分かった。とりあえず飯にしよう。ほら」


 頼んだ分の配膳トレイを押し出してくる。設定画面に唐揚げが突っこんでハレーションを起こした。

 仕方なく画面を閉じて食事にかかる。赤江は汁椀をすすりながら視線を上げてきた。


「だいたいさ、ギズモだって環境設定はできるだろう? 俺もメッセンジャーをサードベンダーのものにしているし」

「それは普段使う筆記用具をどうするかってレベルだろう? 僕が言っているのはもっと、人間の機能拡張的な話だ」

「機能拡張」

「感覚を研ぎ澄ませたり、見えないものを見えるようにしたり、生身じゃできないことを可能にする。道具ってのは本来そういうものだろう?」

「そりゃギズモに求める話じゃない。あれのコンセプトは〝自然なデジタル化〟だからな」


 │自然なデジタルオーガニック・デジタル

 もともと医療用に開発されたギズモが一貫して掲げるキーワードだ。

 元の人間を可能な限り正確に、愚直に再現する。足すことも引くこともしない。なぜなら人体のカスタマイズを可能にした途端、それは際限なしのドーピングや延命措置に繋がるからだ。人類の可能性を広げるよりも、既存の社会秩序を重視する。│生物災害バイオハザードを避ける。それがギズモ普及に課せられた条件だった。

 人体のギズモ化プロセス、それ自体も可能な限り違和感を与えないものになっている。というより多くの人々は、それをただの予防接種の一環ととらえているはずだった。

 全ての子供は六歳になったタイミングで、自治体からギズモ化の打診を受ける。インフルエンザやBCGと同じ要領で、最寄りのクリニックに赴き、人工細胞――クラフトセルを注射する。以上終了。

 もちろん、その時、体内で起こっている奇跡は信じがたいものだ。

 クラフトセルはまたたくまに身体中に広がり、既存の細胞組織をコピーする。あるものは無線アンテナと化し、クラウドにフィジカル・メンタルデータをバックアップし始める。身長が伸びればその値を、知識が増えればその内容を記録。かくして不慮の死は過去のものとなる。人の死因は老衰と病死だけになる。だが、その事実に気づくのは、まさしく事故に遭う時だけだ。

 要するに、ギズモの本質は救命手段であり、ネットアクセス機能はおまけにすぎないわけだ。である以上、野放図なカスタマイズが許されるわけもない。設定項目は極限まで減らされて、お仕着せのアプリだけが使用可能になっていた。


「バッズを捨てるというのは」


 フォークに刺した食材をかざす。


「僕にとって今まで作ってきた何百ものルーティン、設定ファイルをゴミ箱行きにするってことだ。それがどれだけ恐ろしいことか、同じ技術屋なら分かるだろう?」

「俺は道具に身体を合わせるタイプだからな。ギズモがこう使えというなら、それを尊重するまでさ。デフォルトが一番だよ」

「信じられない。エンジニアの発言とは思えない」

「エンジニアになりたくてオーパスに入ったわけじゃないからなぁ。大事なのは金と安定だよ、あと女向けのステータス」

「俗物」

「おうとも、俗で何が悪い」


 ふんと得意気に胸まで張ってくる。別に本気で腐す気はないが、その厚顔ぶりには舌を巻きたくなる。

 とはいえ、悪ぶった言い草と裏腹に、赤江は優秀だ。仕事は丁寧で効率的、同僚・上司の評判も高い。だからこそ若くして重要案件の班長にも抜擢されたのだろうし、他にも次世代データセンターの立ち上げに関わっていると聞いていた。

 一方で、仕事人間に特有のギラついた感じはない。一度、飲みの席で聞いたが、どうも病身の身内がいて、その経済的支援のために大企業のオーパスを受けたらしい。そういう他人本位なところも、同期の中で親しくする理由となっていた。


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