エロマンガ先生 妹と開かずの間
第一章
四月のある日。台所で夕食を作っていると、どん! と天井が揺れた。
「もうちょい待ってろって」
どんどんどんどん!
上の部屋に向かって応えたら、余計にひどい返事が来やがった。
「はいはいはいはい! わかったわかった!」
俺は十分に熱くなったフライパンを構え、片手でたまごを割り落とす。
じゅう、ぱちぱち……美味そうに焼けていくたまごを眺めながら、俺は「はぁ……」と溜息を吐く。
──どうしたもんかね。
何がどうしたもんかねなのかといえば、俺たち兄妹の現状についてである。
俺、
妹、和泉
諸事情あって二人暮らし。
俺にとってたった一人の家族である妹・紗霧は、ほとんど部屋から出てこない──いわゆる引きこもりというやつだった。もちろん学校にも行っていない。
そればかりか、兄であり、いまや両親代わりでもある俺とさえ会おうとしない徹底ぶりだ。ここまでかたくなな引きこもりは、そうそういないのではなかろうか。
綺麗好きなくせに、俺が外出しないと、きっと風呂にも入らないはずである。
唯一の兄妹交流が、さっきの床ドンだってんだから……
まさしく、どうしたもんかね、だ。
その他諸々問題だらけの我が家だが、実のところ俺が本当に嘆いているのは、たった一つだけ。
「よし、できた」
ターンオーバーの目玉焼きに、トマトとレタスのサラダ。調味料はほぼ使わず、少量の塩のみでささやかな味付け。俺にはまったく理解できない、妹好みの食事である。
「相変わらず朝飯みてーな夕食だな」
我ながらこの一年で、すっかり手際がよくなった。俺は食事を盆に載せて、妹の部屋へと運ぶ。空っぽの部屋ばかりの一階を通り過ぎ、階段を上る。
足を踏み出すたびにぎしぎしと音が鳴り、食事の到来を妹に知らせる。
二階建ての一軒家は、二人暮らしには広すぎるといつも思う。
俺が『開かずの間』と呼んでいる妹の部屋の扉には、ハートのネームプレートがかかっていて、綺麗な字で『sagiri』と書かれている。
軽くノックし、
「紗霧、メシ持って来たぞ」
待つ。
じっ、とそのまま一分ほど待ち続けてから、俺は盆を床に置いた。
「ここに置いとくから。ちゃんと食えよ」
こめかみを掌で叩き、溜息を一つ。そして、用意しておいた筆記用具で、メモを作る。
お盆の前、小さな編みぐるみにメモを持たせて、今日も妹にメッセージを伝える。
────部屋から出て来て、顔を見せてください。
それが俺の、たった一つの願いだった。
俺は一年前からずっと戦い続けている。もちろん比喩で、何とと問われれば、そうだな。
部屋から出てこない妹とか、めったに帰ってこない保護者とか、まだ高校生でしかない自分のはがゆさとか、まぁそういった諸々とだ。
俺たち兄妹は、血が繫がっていない。
お互いの両親が、連れ子付きの再婚同士だったからだ。
俺たちを残し、新婚旅行に向かう二人は、高校生カップルみたいに初々しく、幸せそうに見えたものだ。
その後の思い出したくもない事情は省略させてもらうが、いま、この家には俺たち兄妹しか住んでいない。それがすべてだ。
それから……俺のたった一人の家族である妹は、部屋に引きこもり、誰とも交流することがなくなった。
「なにやってんだかな」
その呟きは、妹に対してか、それともふがいない自分に対してか。
もしくは、その両方か。
食事を終えた俺は、一階の自室へと入り、机に座る。
「さぁてと」
B5サイズの可変型ノートパソコンを広げた。
俺は、小説家という職業についている。
俗称になるが、ライトノベル作家といえばわかりやすいだろう。
中学入学とほぼ同時に、ライトノベル新人賞の選考員奨励賞を受賞しデビュー。
以来三年間、学校に通いながら、兼業作家として活動している。中学生デビューというのは、かなり珍しいそうで、同レーベルに俺より年下の作家は、一人しかいないらしい。
初投稿でいきなりデビューしてしまったので、多くの作家志望者たちが悩むだろう苦労の道程を、俺は知らない。当時は『俺って天才かも』と増長しかけたこともある。が、そんな仮初めの自信は、得てしてすぐに打ち砕かれるものだ。
いまでは『俺って運がよかったんだな』と思っているよ。
ペンネームは、和泉マサムネ。ほぼ本名。
家族も含め、仕事関係者以外には内緒にしているので、俺が高校生作家だということは、クラスのやつらも知らない。
──いままでは。
「どうかな、ばれたかな」
どきどきしながら、呟く。
明かしてしまうと、昨日、初めてのサイン会を執り行ったばかりなのだ。
デビュー三年目にして、初のサイン会である。
クラスメイトにバレるのが恥ずかしいという理由で、いままでは一切顔出しをしてこなかったのだが、今回だけは特別だった。
先月、俺が書いていた学園異能バトルもののシリーズを、デビュー以来初めて、無事完結させることができたからだ。完結記念ということで、ずっと『和泉マサムネ』の顔出しをさせたがっていた担当編集に押し切られてしまったのだった。
で、昨日、会場である池袋サンシャインシティに行ってきたのだが。
サイン会は、とても楽しかった。
ファンと会うことにビビっていたのが、ばからしくなるほどに。
この仕事、売上の数字以外で自分の仕事の成果を見ることができる機会は、本当に少ない。
面白かった、とか、楽しかった、とか、このキャラが好きです、とか──。
直接言ってもらえるのはシンプルに嬉しかったし、強力なモチベーションにもつながった。
目からうろこが落ちるとはこのことで、おすすめしてくれた担当編集に、思わず感謝してしまうほどだった。
そこまではよかった。
サイン会が終わったあとで、気が付いた。
『和泉マサムネ』と会ったファンが、ネットで俺のことを書いているかもしれない。
サイン会は撮影禁止ではあったものの、俺が高校生であることは、ファンとの雑談で喋ってしまっていたし、ペンネームと本名がほぼ同じだから、『和泉マサムネ』の正体が区立四高に通う『和泉正宗』だと気付くやつが出てくるかもしれない。
そいつはまずい。実にまずい。
もしも学校で『和泉先生』なんて呼ばれたら、恥ずかしさで死んでしまう自信がある。
というわけで──
俺は、三年ぶりぐらいに、ネットで自分の名前を検索するという超危険行為にトライする。
「……っ……ふぅ~~……緊張するな」
額の汗を、手の甲で拭う。
デビュー作が発売した当時にエゴサーチをして、えらい目に遭って以来、俺は絶対に自分のペンネームや作品名でWEB検索するまいと誓ったのだ。
あのときのトラウマは、いまだに笑い飛ばせない思い出であるから、平気でエゴサーチできちゃう同業者の人たちのことは、マジでメンタル強えーなと感心する。
ともあれ。
そんな危険を承知の上で、俺は昨日のサイン会について、ネットで調べ始めた。
「お」
すると、検索エンジンの表示結果に、ぽつぽつと感想を書いてくれている人のブログが出力されてきた。
「『和泉先生とお話しできて嬉しかった!』かぁ。……いやいや、こちらこそ、喜んでくれたみたいで、よかった。えーっとこっちは『和泉先生、噂どおりむちゃくちゃ若かった!』か。噂ってなんだ?」
──ふぅ……いまのところ大丈夫そうか?
胸をなで下ろしつつ、トラックバックを辿るなどして『サイン会』の感想を巡って行く。
幸い、俺の正体に繫がるような記事は見つからなかったのだが……。
無作為にクリックしたリンク先が、こんなタイトルの記事だった。
「うッ」
和泉マサムネ先生のサインの字が汚すぎるwww
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」
俺は、頭を抱えて絶叫した。
「あ……あぁ……あ……」
『先生、字ぃ汚ねええええええええええええええええええええ!』
『うわぁ……』『らくがきにしか見えない』『これはひどい』『どこの小学生が書いたの?』
「ぐッがあああああああああああああああああああああああああああッ!」
無情にもほどがある。初めてエゴサーチをしたとき以来の衝撃だった。
バンバンバンバンッ!
「なんだこのクソブログ! しょうがないだろ! サインの練習なんかしたことないんだから! 人が一生懸命、一枚一枚心を込めて書いたサインを……! 作家を芸能人かなんかと一緒にしてんじゃねーぞバーカ!」
キーボードをガタガタしながらブチキレる俺。
そしたら、
──どん!
妹が床ドンで『うるさい!』と抗議してきやがった。
妹の部屋は、俺の部屋の真上にあるのだ。
「……うぐぐ……うっ、うっ」
俺は、天井に意識を向けつつ、下唇を嚙みしめ震える。
これだから! これだからネットはイヤなんだ! ちょっと泣いちゃったよクソ!
匿名だからって、言っていいことと悪いことがあるんだぞっ!
覚えてろよ!
ぱたん。
俺は泣き泣き、ノートパソコンのフタを、そっと閉じるのだった。
現在午後七時。俺は、気晴らしも兼ねて、小説の新刊を買うため、個人でやってる本屋さん『たかさご書店』にやってきていた。二階建てで、そこまで広くはないものの、ライトノベルの品揃えの良い、明るい雰囲気のお店である。
「もぉ、大げさだなぁ、ムネくんは。そのくらいネットではよくあることだろ」
苦笑したのは、この書店の看板娘、
艶やかな黒髪のロングヘア、女の子らしい、柔らかそうな外見の少女である。
お店のエプロンを掛けた彼女は、俺のクラスメイトで、『和泉マサムネ』の正体を知る、数少ない人物である。
三年前、はじめて自分が書いた本が書店に並ぶ日、店内で不審な行動(隠れて誰か俺の本買わないかなってやってた)をしていたせいで、俺は智恵の親父さんにとっ捕まり、事情を聞かれたという恥ずかしい思い出があるのだが。
彼女とは、それ以来、友達付き合いをさせてもらっている。
いまは智恵の休憩時間中だ。お店のバックルームで、俺たちは会話している。
「よくあることなのか? こういうの」
「うん、芸能人とか作家さんとか、アニメ監督とか、業界人がよくやられてるじゃん。まぁ、今回のは、有名税みたいなもんだから、気にしなくていいんじゃない?」
「俺、別に有名じゃないんだけど……」
「…………あっ、そっかあ」
少しは否定してくれてもいいと思う。
哀しいことに事実である。
速筆だからなんとかやって行けているが、『和泉マサムネ』の評価は、三シリーズ目にして、ようやく中堅作家といったところじゃなかろうか。まがりなりにも、打ち切りにもならず一シリーズを完結させたわけだし、このくらい言ってもバチは当たらないはずだ。
本が予定以上に売れたときに、もう一度本を刷ってくれる重版という制度があるのだが、完結させたばかりの『銀狼』シリーズでは、デビュー以来はじめて重版がかかったりもした。
「言われてみれば不自然だね。ムネくんごときをディスったところで、ブログのアクセス数は増えないのに」
「記事よりオマエの方がひどいこと言ってるからな」
「あはは。というかさ……」
智恵は、スマホをしばし弄ってから、
「いま、ムネくんをディスってたブログを見てたんだけど、これってキミの小説のイラストを描いている先生のブログじゃない?」
「!」
俺は両目を見開いた。
「え!? マジで!?」
「ほんとほんと」
「ちょ、見せてくれ!」
「ほら、このペンネームってそうでしょ?」
智恵は、ブログのタイトルを見せてきた。
そこには『エロマンガのブログ』と書かれている。それだけなら、ああエッチなマンガを紹介したりするブログなんだなと思うところなのだが。
タイトルのすぐ下に、こんなコメントが書かれていた。
『イラストレーターをやってます。※島の名前が由来です。えっちな漫画とは関係ありません』
「………………マジだ……」
この〝エロマンガ〟というのが、俺が書いた小説のイラストを描いてくれている先生である。
デビュー作のときから、ずっと変わらずお世話になっていて、とても感謝していた。
三年間の付き合いでもあるし、個人的には『俺たちいいコンビだよね』なんて思っていたのだが──
「ええええええ! 何してんだこの人!」
俺のサインの悪口言ってた犯人、よりにもよってこいつかよ!
「ムネくんって、エロマンガ先生と会ったことあるの?」
「ないよ! 仕事はぜんぶ担当編集通してやってるし!」
男か女かもわからん。まぁ萌え系の絵柄からして、たぶん男だろうけどさ。
イラストレーターは、基本的に担当編集が決めるものだし、直接やり取りすることもないから、三年間一度たりとも会うことがなかったのだ。
「ふーん、じゃあなんでキラわれてるんだろうね?」
「えっ? 俺って、イラストレーターにキラわれてんの?」
「そうじゃない? なんか、キミのこと、妙にイキイキとディスってるし」
「うう……やっぱそうなのかな……」
でも、理由がわからん。なんか俺、エロマンガ先生に悪いことしたかな……?
デビューしたばっかの頃、『コイツなんでこんな卑猥なペンネームなんだよ』ってグチったのが、バレたとか……? いや、でも、あれは……著作の表紙に毎回『エロマンガ』って書かれる俺の気持ちもわかってくれよ。ちょっとくらいグチたっていいじゃない。
「キラわれてるんなら謝っておきたいが……どんな人なんだろうな」
「ボクに聞かれても困るってば」
と、智恵は肩をすくめる。
「むしろ、三年も一緒に仕事しているのに、相手のことをぜんぜん知らないってのがおかしいよね。担当編集経由で会う機会とかなかったの?」
「担当編集も、エロマンガ先生とは会ったことないんだって。仕事とか全部ネットを通してやってるらしいし、プロフィールを極秘にするのが契約の条件だったとかなんとか」
「へぇ、現代ならではの仕事スタイルもあったもんだ」
智恵は素直に感心している。このあたりは同感で、俺のような学生が仕事をしている状況もまた、現代ならではの現象といえよう。
「エロマンガ先生の名前でWEB検索してみたりは?」
「したよ。エッチなマンガのサイトしかでなかった」
当然の結果である。
「いやいや、ちょっとは頭使おうよ。キミのペンネームとか作品名を、スペースの後ろにくっつければいいだけじゃん」
「自分のペンネームと作品名で検索なんて、この俺がするわけないだろ?」
「……あ~、そういえばそういう主義なんだっけね、キミ」
「おう。ってわけで、俺の代わりにちょいと調べてくれると嬉しい」
「はいはい」
智恵は、スマホの画面に指を滑らせる。
「調べるっていうか、本人のブログを見ただけだけど、イラストだけじゃなくて、ネットで色々やってる人みたいだね」
「色々っていうと?」
「色々は色々だけど……主に動画配信?」
「動画配信? イラストレーターなのに?」
なんの動画を配信してるってんだ?
「うんとね……絵を描いているところを、生放送してみたり、公式許諾を得た上でゲームのプレイ実況を生放送してみたり……そういう活動をしているみたいだよ」
「ほぉ~。まぁ、実際見てみないことには、よくわからんな」
「あ、ほら、ムネくん、最新の記事を見てよ。エロマンガ先生、今日これから生放送をやるってさ。ちょうどいいし、一回、観てみたら?」
というわけで、俺は、『たかさご書店』で、ライトノベルの新刊を何冊か購入して帰宅した。ネットショップばかりに頼らず、なるべく近所の実店舗で本を買うというのが俺の主義で、このあたり色々言いたいことはあるのだが、いまはそれどころじゃあないな。
俺は玄関の扉を勢いよく開ける。
「ただいまー」
いつもどおり返事はない。けれど、構わず階段の上に向かって声をかける。
「紗霧~、メシ食い終わったら、部屋の前に出しておけよー」
一階の自室に戻った俺は、改めてノートパソコンを開く。
「動画サイトで生放送……ねぇ」
智恵と色々話したこともあって、ずっと一緒に仕事をしてきた『エロマンガ先生』に、改めて興味が湧いていた。三年前は、調べられずに、あっさりと諦めてしまったが……。
どんな顔をしていて、どんな声をしていて、どんな考え方をする人なんだろう。
俺や、俺の作品のことを、どう思ってくれているのだろう。
かち、かち、と、例のブログを閲覧する。
けっこう長くやっているのか、過去記事がメチャクチャ多い。
あと、俺のサインの字が汚い件についての記事が、すげーコメント伸びてて腹立つ。
「……ぐぬぬ」
俺はそれ以上の閲覧をやめて、動画サイトへのリンクをクリックした。
ちょうど動画の配信が始まるらしい。
サイトは、動画が映る画面とコメント欄がある、ベーシックな形式だ。
──この画面に、エロマンガ先生が映るってことだよな。
いま俺が見ている画面には、青い背景に赤字で『イラストを描きながらみんなとトーク⑯』という文字が書かれている。
『待機中』『わくわく』といったコメントが、右から左へと流れていった。
「始まったか。……さて……どんな人なんだ?」
俺は画面をじっと見つめる。