我が家に妹がやってきた日のことを、いつも思い出す。
三月上旬、暖かい気候が続く中、その日だけは朝から冷え込んでいて、一面まっしろな空が俺たちを見下ろしていた。
春にふった雪のように儚げなあいつは、母さんの後ろに隠れて、俯きがちに俺を見つめていたっけ。
今日からおまえの妹になるんだぞ。
この子をよろしくね。
両親の願いに、俺は笑って、はい、と答える。
母さんに促され、おずおずと俺の前に進み出たあいつは、俯いたまま頰を赤らめ、小さな声で囁いた。
「はじめまして、兄さん」
妹とは、それからずっと、会っていない。
四月のある日。台所で夕食を作っていると、どん! と天井が揺れた。
「もうちょい待ってろって」
どんどんどんどん!
上の部屋に向かって応えたら、余計にひどい返事が来やがった。
「はいはいはいはい! わかったわかった!」
俺は十分に熱くなったフライパンを構え、片手でたまごを割り落とす。
じゅう、ぱちぱち……美味そうに焼けていくたまごを眺めながら、俺は「はぁ……」と溜息を吐く。
──どうしたもんかね。
何がどうしたもんかねなのかといえば、俺たち兄妹の現状についてである。
俺、和泉正宗/十五歳/高一。
妹、和泉紗霧/十二歳/(年齢的には)中一。
諸事情あって二人暮らし。
俺にとってたった一人の家族である妹・紗霧は、ほとんど部屋から出てこない──いわゆる引きこもりというやつだった。もちろん学校にも行っていない。
そればかりか、兄であり、いまや両親代わりでもある俺とさえ会おうとしない徹底ぶりだ。ここまでかたくなな引きこもりは、そうそういないのではなかろうか。
綺麗好きなくせに、俺が外出しないと、きっと風呂にも入らないはずである。
唯一の兄妹交流が、さっきの床ドンだってんだから……
まさしく、どうしたもんかね、だ。
その他諸々問題だらけの我が家だが、実のところ俺が本当に嘆いているのは、たった一つだけ。
「よし、できた」
ターンオーバーの目玉焼きに、トマトとレタスのサラダ。調味料はほぼ使わず、少量の塩のみでささやかな味付け。俺にはまったく理解できない、妹好みの食事である。
「相変わらず朝飯みてーな夕食だな」
我ながらこの一年で、すっかり手際がよくなった。俺は食事を盆に載せて、妹の部屋へと運ぶ。空っぽの部屋ばかりの一階を通り過ぎ、階段を上る。
足を踏み出すたびにぎしぎしと音が鳴り、食事の到来を妹に知らせる。
二階建ての一軒家は、二人暮らしには広すぎるといつも思う。
俺が『開かずの間』と呼んでいる妹の部屋の扉には、ハートのネームプレートがかかっていて、綺麗な字で『sagiri』と書かれている。
軽くノックし、
「紗霧、メシ持って来たぞ」
待つ。
じっ、とそのまま一分ほど待ち続けてから、俺は盆を床に置いた。
「ここに置いとくから。ちゃんと食えよ」
こめかみを掌で叩き、溜息を一つ。そして、用意しておいた筆記用具で、メモを作る。
お盆の前、小さな編みぐるみにメモを持たせて、今日も妹にメッセージを伝える。
────部屋から出て来て、顔を見せてください。
それが俺の、たった一つの願いだった。
俺は一年前からずっと戦い続けている。もちろん比喩で、何とと問われれば、そうだな。
部屋から出てこない妹とか、めったに帰ってこない保護者とか、まだ高校生でしかない自分のはがゆさとか、まぁそういった諸々とだ。
俺たち兄妹は、血が繫がっていない。
お互いの両親が、連れ子付きの再婚同士だったからだ。
俺たちを残し、新婚旅行に向かう二人は、高校生カップルみたいに初々しく、幸せそうに見えたものだ。
その後の思い出したくもない事情は省略させてもらうが、いま、この家には俺たち兄妹しか住んでいない。それがすべてだ。
それから……俺のたった一人の家族である妹は、部屋に引きこもり、誰とも交流することがなくなった。
「なにやってんだかな」
その呟きは、妹に対してか、それともふがいない自分に対してか。
もしくは、その両方か。
食事を終えた俺は、一階の自室へと入り、机に座る。
「さぁてと」
B5サイズの可変型ノートパソコンを広げた。
俺は、小説家という職業についている。
俗称になるが、ライトノベル作家といえばわかりやすいだろう。
中学入学とほぼ同時に、ライトノベル新人賞の選考員奨励賞を受賞しデビュー。
以来三年間、学校に通いながら、兼業作家として活動している。中学生デビューというのは、かなり珍しいそうで、同レーベルに俺より年下の作家は、一人しかいないらしい。
初投稿でいきなりデビューしてしまったので、多くの作家志望者たちが悩むだろう苦労の道程を、俺は知らない。当時は『俺って天才かも』と増長しかけたこともある。が、そんな仮初めの自信は、得てしてすぐに打ち砕かれるものだ。
いまでは『俺って運がよかったんだな』と思っているよ。
ペンネームは、和泉マサムネ。ほぼ本名。
家族も含め、仕事関係者以外には内緒にしているので、俺が高校生作家だということは、クラスのやつらも知らない。
──いままでは。
「どうかな、ばれたかな」
どきどきしながら、呟く。
明かしてしまうと、昨日、初めてのサイン会を執り行ったばかりなのだ。
デビュー三年目にして、初のサイン会である。
クラスメイトにバレるのが恥ずかしいという理由で、いままでは一切顔出しをしてこなかったのだが、今回だけは特別だった。
先月、俺が書いていた学園異能バトルもののシリーズを、デビュー以来初めて、無事完結させることができたからだ。完結記念ということで、ずっと『和泉マサムネ』の顔出しをさせたがっていた担当編集に押し切られてしまったのだった。
で、昨日、会場である池袋サンシャインシティに行ってきたのだが。
サイン会は、とても楽しかった。
ファンと会うことにビビっていたのが、ばからしくなるほどに。
この仕事、売上の数字以外で自分の仕事の成果を見ることができる機会は、本当に少ない。
面白かった、とか、楽しかった、とか、このキャラが好きです、とか──。
直接言ってもらえるのはシンプルに嬉しかったし、強力なモチベーションにもつながった。
目からうろこが落ちるとはこのことで、おすすめしてくれた担当編集に、思わず感謝してしまうほどだった。
そこまではよかった。
サイン会が終わったあとで、気が付いた。
『和泉マサムネ』と会ったファンが、ネットで俺のことを書いているかもしれない。
サイン会は撮影禁止ではあったものの、俺が高校生であることは、ファンとの雑談で喋ってしまっていたし、ペンネームと本名がほぼ同じだから、『和泉マサムネ』の正体が区立四高に通う『和泉正宗』だと気付くやつが出てくるかもしれない。
そいつはまずい。実にまずい。
もしも学校で『和泉先生』なんて呼ばれたら、恥ずかしさで死んでしまう自信がある。
というわけで──
俺は、三年ぶりぐらいに、ネットで自分の名前を検索するという超危険行為にトライする。
「……っ……ふぅ~~……緊張するな」
額の汗を、手の甲で拭う。
デビュー作が発売した当時にエゴサーチをして、えらい目に遭って以来、俺は絶対に自分のペンネームや作品名でWEB検索するまいと誓ったのだ。
あのときのトラウマは、いまだに笑い飛ばせない思い出であるから、平気でエゴサーチできちゃう同業者の人たちのことは、マジでメンタル強えーなと感心する。