俺が一年間かかって開けられなかった妹の部屋の扉が、ゆっくりと開いていき──
「…………………………」
パジャマ姿の少女が、姿を現わした。
真白い肌に、わずかに乱れた白銀の長髪、青い瞳からは何の意志も読み取れない。
ちょっと目を離した瞬間に、溶けて消えてしまいそうなやつ。
それが俺の妹・和泉紗霧。
紗霧は、ぽかんと口を開けて見つめている俺に気付くと、小さな声で囁いた。
「ひさしぶり、兄さん」
妹との、一年ぶりの再会だった。
どのくらい硬直していただろう。気付けば、妹がすぐ目の前で、無表情に俺を見ていた。
会うのはこれで二度目だが、改めて可憐なやつだと思う。芸能人のような俗っぽい可愛さではなく、あくまで無垢な、自然物の美しさ。しかしまぁ、この状況で妹相手にまず脳裏に浮かんだのがそれなのだから、俺がどれほど混乱しているかがわかろうというものだ。
妹とまともに会ったのは、これで二度目──
「……………………」
「……………………」
お互いに何も言わない時間が続く。あいつが何を考えてそうしているのかは知らないが、こっちはあまりの急展開に脳がついて行けなくなっていたのだ。
というか……本当にこいつがあの動画を配信していたのか?
エロマンガなんていう、ぱっとみ卑猥なペンネームを名乗っているイラストレーター?
こうして本人を目の当たりにしてみると、あの言動とこの見た目がまったく一致しない。
やっぱり……何かの間違いじゃないのか?
やがてさらに一分ほどの時がたち、ようやく俺は口を開いた。
「……久しぶりだな。……一年ぶり……くらいか?」
「………………」
返事はなかったが、その代わり、紗霧は表情を微妙にむっとさせた。
な、なんだよ。なに怒ってんだ。
……まぁ、もしもこいつが無実なんだとしたら、いきなり扉をドンドン叩かれたわけだから、こういう反応もわかるけど。でも……。
俺はちらりとノーパソの画面を見る。すでに配信は終わり、暗い画面が映っていた。そのままゆっくりと視線を上げ、もう一度妹の顔を見る。
「なぁ……おまえが『エロマンガ先生』……なのか?」
「……………………」
相変わらず返事はなく、しかし。
……うわ、俯いてめっちゃ汗かいてる! めちゃくちゃ動揺してるだろ!
いまのやり取りだけで俺の心証は「あ、こいつクロだわ」になっていた。
これほどまでに感情が顔に出るやつも珍しいな。超無口で、無表情キャラっぽい見てくれのくせに。
「やっぱりおまえが、さっきの動画を配信して──」
「……っ!」
紗霧は無言のまま、ぶんぶんと首を横に振る。
「うおっ」
え? なんだこいつ?
「ち、違うってこと?」
「…………」
紗霧はこくこくと頷く。そして俯いたまま、なにやらボソボソ呟いている。
「えっ、なんだって?」
「…………」
「聞こえねーぞ」
俺は耳を妹の口元に近づける。するとようやく小さな小さな声を聞き取ることができた。
「……そんな恥ずかしい名前の人、しらない」
じゃあなんでそんなペンネームつけたんだよ。
こいつが『エロマンガ先生』本人だったなら、そう言ってやりたい。
「……」
紗霧はムスッとそっぽを向く。ふてぶてしい態度だった。
「うーん」
というかだな。否定すれば否定するほど、語るに落ちていると思うんだが。だって本当に誤解なんだとしたら、そもそもこういうリアクションになるわけがないし。
どうしたもんか、と、そう考えたときだ。
紗霧が無言のまま、すぅっと扉を閉めようとした。
「おおっと! そうはいくか!」
がちん。俺のつま先が、閉まりゆく扉に挟まった。
「!」
がちんがちんがちんがちん! 焦って扉を開け閉めする紗霧。
「痛い痛い痛い痛い!」
「……して」
たぶん『足をどかして』って言っているんだろうが──
「断る!」
ここで逃したら、この扉はもう二度と開かない気がした。
「おまえが、『転生の銀狼』のイラストを描いてた、エロマンガ先生なんだろ?」
「……ち、ちがっ……ちがっ……」
うっ……な、泣きそうな顔すんなよ。いじめてるみたいじゃないか。
ああくそっ、俺はそんなつもりじゃなくて──
「すげぇじゃん」
ただ、そう言いたかっただけなのに。
「………………」
俯いていた紗霧が、青い瞳を潤ませたままで、ほんのちょっぴりだけ俺を見た。
「!」
ふと目が合って、どきりとする。俺は一瞬言葉につまり、ごくりと喉を鳴らす。
「さっきの動画、めちゃくちゃ可愛いイラストだったじゃん。おまえのファンも、たくさん見てて……みんなすげー喜んでた」
目をそらして、ようやく声が出た。
「ずっと部屋ん中に閉じこもって、なにやってんのかなって気になってたんだけど……すげーことやってたんだな、おまえ」
「………………」
素直な気持ちを伝えたものの、妹の顔が見られない。
どんな表情で俺を見ているのか、わからない。あ、うわ、やば、焦る。パニくってる、俺。
せ、せっかく話せたんだから、もっと会話を続けねーと。
ええっと、話題、話題話題話題──
「おまえのイラストって、超えろいよな」
「!」
なに言ってんだ、俺!
妹に言うべきなのは、それじゃないだろ! めちゃくちゃ引かれてるじゃん!
「あ、あとっ! その……だな」
迷ったが……
「すげー……嬉しかった」
やっぱ、言うべきだよな。『俺の正体』を。
「……紗霧……実は、俺……」
嬉しかった理由を、ちゃんと伝えるために。
「俺は──」
「だめぇっ!」
告白を止めたのは、紗霧の大声。
「えっ?」
俺は耳を疑った。呆然と声の主に振り向く。
「……だ、だめって──なにが?」
うろたえながらもそう口にすると、
ゴスッ!
返事の代わりに、鼻っ柱に強烈な一撃が。
「……が……は……っ」
顔を押さえ、たまらず俺は一歩二歩とたたらを踏む。
バタン!
くらりと揺れる視界の先で、『開かずの間』が再び閉ざされるのが見えた。
極悪非道の不意討ちに使われた、凶器の正体もだ。
……紗霧のやつ…………兄をごついジョイパッドで殴りやがった。
妹との一年ぶりの再会は、こうして唐突に終わりを告げた。
残ったのはズキズキという鼻の痛みと、チャンスを生かせなかった後悔。
「……くそ、これからだ」
そして、久しぶりに妹と会えた、嬉しさだった。
翌日。
俺は都内にある出版社へと赴いた。新作の打ち合わせをするためにだ。
編集部内にある打ち合わせブースで待っていると、担当編集の神楽坂さんがやってきた。
「へーい、お待たせ!」
ショートカットにパンツスーツというキャリアウーマン風のファッションなのに、軽いノリと顔のせいで女子大生に見える。
俺は席を立ち、神楽坂さんを迎える。
「ども」
「ごめんね和泉先生~、前の打ち合わせが長引いちゃって」
神楽坂さんは、テーブル越し、俺の対面に座る。
「最近ほんと忙しくてー♪ たくさんヒット作をかかえちゃったから~。昨日もその前も二時間しか寝てないんですよぉー。いつものことだからラクショーですけどね!」
「はあ、大変ですね」
心底どうでもいいわ。そんなことより俺の作品をヒットさせようぜ。
よっぽどそう言ってやりたかったが、出会い頭に本音をぶちまけるわけにもいかない。