しばらくの沈黙があって、
「……え、と……兄さんが聞きたいのは、そういうコトじゃ……ない?」
「いや」俺は首を振った。「そういうコトだ」
楽しかったから、絵を描いていた。動画を配信していた。
うん、いいじゃないか。じゅうぶん満足できる答えだった。
「そ、そう?」
「ああ。教えてくれるってんならもっと聞きたい。最初から、全部。俺はおまえのこと、ほとんど知らないから──」
情けない。一年間、一緒に暮らしていたってのに。
「…………」
紗霧は、かなり長く考え込んでいた。再びヘッドセットのマイクを口元に持っていって、
「イラストを描き始めたきっかけは……お母さんが、教えてくれたから」
「!」
「小さな頃から、自然と絵ばかり描いてて。すごく楽しくて……えと、い、いつの間にか……プロになってて……お母さんも、凄いねって、褒めてくれて……」
不自然に言い淀みながらも、紗霧は語る。
エロマンガ先生に絵を教えたのは『紗霧の母さん』だったのか。
「お母さんがいなくなってから……しばらく絵が描けなくなって……」
そういえば──
なかなかイラストが出来上がって来なかった時期が、あったな。
「どうしても部屋から出られなくて……どうしたらいいかわからなくて……そんなとき、他のイラストレーターさんが、動画を配信しているのを見つけたの」
エロマンガ先生とは、似ても似つかない下手な喋りを、俺は、一言一句聞き漏らすまいと集中した。
「その人は、みんなとお喋りしながら、すごく楽しそうに絵を描いてた。描いたその場で、感想をもらったり、してた。……見てて、羨ましかった。私も……そうなりたいって、思ったの」
「そっか」
「それでね。やってみたら…………すごく、面白くて。私の描いたイラストを見て、かわいいって褒めてくれるの。私が描くところを見て、すごいって、みんなが驚くの。もっと描いてくださいって、言ってくれる人が、いるの。部屋にいるのに、世界中の人と仲良くなって。友達みたいに遊んで、お喋りして。それって、すっごく、すっごく──────」
紗霧は、夢見る乙女のように頰を赤らめる。
「ときめくわ」
──ああ。
同じだ、って、思った。
「もっと上達したいって、思った。もっともっと描いて、たくさんの人に見せたいって、思った。そのうち、仕事をしてないときは、動画配信のことばかり考えるようになって……イラストだけじゃなくて、ゲームもみんなと一緒にやるようになって……いつの間にか、ハマっちゃった……へへ」
「そっか」
そういうもんだよなって、すごく納得できた。
「実は俺が小説家になったのも、インターネットで小説を公開している人たちが、楽しそうだったからなんだ」
「……そうなの?」
「ああ、デビューする前、まだまだヘタクソだった頃……WEB小説を書いていたこともあるんだぜ」
そして、初めてのファンメールを、もらった。
それが嬉しくて。とてもとても嬉しくて。
だからいま、俺はこうしてここにいる。
初めて感想をくれたあの人は、いまも俺の小説を、読んでくれているのだろうか。
「……そうなんだ……和泉先生も……」
「ん? 先生?」
「あっ! な、なんでもなっ!」
わたわたと手を振る紗霧。
「なにがなんでもないんだ?」
「い、いいからっ。兄さんがWEB小説書いてたことなんて、しってたしっ!」
「そ、そか。えーと、なら、あの動画で、声と口調を変えて男のふりをしてたのは、なんで?」
「だって……怖いし、恥ずかしいし……」
どういうことだろう。少し考えてみる。
仮に紗霧が男のふりをしなかったとしたら、どうなっていたか。
いまのような雰囲気の動画になっていたかというと、そうじゃないだろうな。
どうしても『女の子がやってる』という付加価値が付いてしまう。もちろん悪いことじゃないんだけど、ファンの中には変なやつもいるだろうし、十二歳の女の子にはちょっと怖い環境かもしれない。
「なるほどな。よくわかった」
ふっ、と笑みが漏れる。
「な、なにを笑っているのっ?」
「いや、まさか、おまえとこんなにふうに話せる日が来るなんてな、って」
「………………」
紗霧は、ぎゅっと正座の上で握り拳を作った。
何を考えているんだろうと思っていたら、
「ちょっと部屋に入れてあげたくらいで……調子に乗らないで」
なんて言い出した。
「私は、兄さんに心を開いてなんか、いないんだから」
「……そうだろうな」
兄さんとは呼んでくれていても、まだまだちっとも兄妹じゃない。
しん、と場が静まりかえった。重い空気が漂っている。
「……いい機会だから……聞くけど……なんで私に構うの。放っておけばいいじゃない…………私なんか」
「迷惑か?」
「……め、迷惑」
そっか。やっぱ、そう思われてたか。……まぁ、仕方ないな。俺が、保護者にわがままを言わなければ、きっと今頃は、別々に暮らしていたのだろうから。
「ええっと、俺がなんでおまえに構うのか、だっけ?」
紗霧はこくんと頷く。
「知りてぇの?」
「……しりたい。私が兄さんの小説のイラストを描いているから、じゃ、ないよね。兄さんはいままで、そんなことを知らずに私の面倒を見続けて来たんだから……」
そうだな、そのとおりだ。
「そうか、しりたいか」
俺は得意げに、指を一本立ててみせた。
「なら、交換条件だ」
「えっ」
「交換条件。質問に答える代わりに、俺からも条件をひとつ出させてもらう」
「………………」
「………………」
しばし無言で見つめ合い、
「だめか?」
「な、内容次第」
「なぁに、たいしたことじゃねぇ」
「…………えっちなことはだめ」
「そんな要求しねえよ! なんで俺がえっちな要求をすることが前提みたいな反応なんだ!」
「だって、いつも私にえっちなイラストばかり描かせようとするから」
なかなか説得力のある理由だが、あれは仕事だし、相手が男だと思ってたんだよ!
こいつめ……えっちなイラストを描くのが大好きなくせに……。
「兄貴ってのはな、妹相手にえっちなことをしたりしないんだよ」
当然だろ?
「…………じゃあ、わ、私に何を要求するつもり?」
もちろん俺は、にこやかにこう言った。
「引きこもりをやめて、外に出てくれ」
「絶対いや」
「そうか、わかった」
「は?」
紗霧は、ぱちくりと目を瞬かせる。
「嫌なんだろ? 交換条件なしで教えてやるよ」
「え……い、いいの?」
「いいよ、無理矢理じゃ意味ないし」
「ふうん……いいんだ」
紗霧は、俯き、ぼそぼそと呟く。
「もちろん諦めたわけじゃねーけどな。……じゃあ言うぞ。えーと、俺がおまえに構うのは──」
言葉をさまよわせていると、紗霧が、きゅ、と居住まいを正した。
俺はこう答えた。
「おまえは俺の妹で……そんでもって母さんに、よろしくねって頼まれたからだよ」
「…………それが、理由?」
「んん……」
すぐに『そうだ』と答えられなかったのは、なんでだろうな。
顎に指をあてて、考える。
「一年前、家族がおまえだけになってから、母さんの言った『よろしくね』ってどういうことなのかなって、どーすりゃ『よろしくした』ことになんのかなって考えてた。でも、結局わかんなくてさ。わかんねーから、たぶんこうじゃねーかなってのをやってるんだ。それだけ」
「……ちっともわからない」
「だよなあ」
自分でも、なに言ってんのかわからんもん。
「笑いごとじゃない。ごまかさないで」
「あー、なんつーか、俺がおまえに構うのはさ。そっちの方がいいと思ったからだよ。いまみたいに同じ家で暮らしてんのに、ぜんぜん顔合わせないってのは、やっぱ寂しいもん。かわいい妹とは、一緒にメシとか喰いたいし、面倒だってみてやりてぇよ」
幸い、俺にはその手段があるのだから。
「……ほとんど話したこともないのに」
「ほとんど話したことがないなら、これから話せばいーじゃんって、思うけどな」
「……私じゃなくても、いいじゃない。寂しいなら、なにもこんなにめんどうくさい妹と仲良くしなくたって」
自覚はあったのね。
「いや、仲良くしたいよ」
「どうして?」
「家族だから」
「家族なの? 私たちは」
「そうだ」
断言した。
「こうして一緒に、暮らしてるんだからな」
「……そう。私はそう思ってない。一緒に暮らしていることを、家族とは言わないもの」
紗霧は、立ち上がり、扉を指差した。
「話は終わり。出て行って、兄さん」
「はいよ」
俺は物分かりよく、出口へと向かう。扉の前で振り返り、
「紗霧」
「なに?」
「完結記念イラスト、描いてくれてありがとう」
ずっと言いたかったことを、ようやく口にする。
「────」
俺の妹は、ぽかんと口を開け、けれどすぐに無表情になって、
「ばかみたい。あんなの、義理で描いてあげただけなのに」
とそっぽを向いた。