「隣の──あんたの家? あっ、ああ────あの娘」
エルフが、紗霧の姿を見てしまった。
一秒、二秒、三秒…………何かを言わねばならんのに、なにひとつ言葉が浮かんでこない。
その間もエルフは、アホ丸出しではしゃぐ俺の妹の姿を、じぃ……と意味ありげに凝視している。額から冷や汗が垂れた。すでにノーパソの画面には、エロマンガ先生によるお絵かき生配信動画が映っている。このままでは、なにかの拍子に、妹の正体がバレてしまいかねない。
かつて、俺が妹の正体に気付いた、あのときのように。
ヤバイ……ヤバイ……ヤバイヤバイヤバイ────
「ぷっ」
えっ? と、音の方を見る。
硬直する俺の目の前で、エルフが面白そうに噴き出していた。
「ぷふっ……アハハ、なにあれ。あんたの妹、おっかし……くくく」
「…………」
あれ? なんか、予想した展開と違うな。俺はちらりとノーパソを見る。
画面では、エロマンガ先生が、『うひょー』だの『きょあー』だの奇声を張り上げながら、えっちなイラストを描いている。本人の姿こそ映っていないが、ペン型のカーソルが、感情を反映したかのように、縦横無尽に跳ね回っていた。
一方で、現実の紗霧はといえば、ペンタブをダイナミックに振り回し、綺麗な銀髪を振り乱して大暴れしている。絵を描いているとは思えぬ比喩だが、他にたとえようがない。
画面の有様に気付かぬまま、エルフが、紗霧を、震える指でさして言う。
「妹、絵、描いてんの?」
「おう」
そう答えた。妹がイラストレーターだということを、隠したいはずなのに。
どうしてか、俺にもわからん。
「いつも、あんななの?」
「俺も、初めて見た」
「絵、描くの、好きなんだ?」
「らしい」
「もんのスゴク、はしゃいでる」
「ああ」
「楽しそう」
「ああ」
まったく。なにがそんなに、面白いんだかな。俺にはわからないけれど。
幸せな光景だった。それだけは、たしかなことだった。
エルフは依然として、くくく、と喉を鳴らしている。
表情は、いままでとは種類の違う、優しい笑顔。
「いいわね、アレ」
「だろう?」
「なんか、わかる」
「そうなのか?」
俺にはちっともわからないのに。おまえには、わかるのか?
「わかるわ」
自信たっぷりに口を広げて、彼女は言った。
「ああじゃなきゃね」
いまいち不明瞭なやりとりだった。彼女はわかっていて、俺はわかっていなかった。
俺が疑問を口にする前に、エルフは、確信を持った口調で断言した。
「すてきな絵ができるってことよ」
「…………」
「エロマンガ先生がいなかったら、一緒に仕事したいくらい」
「そうか」
本人なんだけどな。紗霧の絵を、見てもいないくせに、そこまで言うか。
一瞬だけ、明かしてしまおうか、とさえ思った。
かぶりを振って、すぐに踏みとどまったけれど。代わりにこう言った。
「ええと、山田先生?」
「はあ? なによその気持ち悪い呼び方──エルフでいいわ」
「じゃあ、エルフ」
俺は初めて、彼女の名前を呼んだ。
「はい、なに?」
「サンキューな」
「……なにについて?」
「いまの話。嬉しかった」
「ちょっと。あんた、ほんとに小説家? 喋るのヘタクソすぎじゃないかしら」
「小説を書くのと、喋るのは違う」
きわめて実感のこもった一言だった。
エルフも身に覚えがあったのか「……そうかもねぇ」と自嘲気味に呟く。
「思ったより、おまえはいいやつかもしれない」
「なにそれ。逆に、さっきまではどう思ってたってのよ」
ゴミ。
とは、言わない。代わりに、違う話を切り出す。
「エロマンガ先生の件。俺たち二人の新作を読んで決めてもらうってのはどうだ」
「えっ?」
「俺がなんとかして、おまえの原稿も読んでもらえるよう頼んでみるから。だから、個人特定とかもうしなくていいぞ」
「ほんとに? いいの?」
「任せろ。約束する」
断言した。
エルフは、立ち上がって、俺の目の前に移動する。
背伸びをして顔を近づけ……こちらの顔を間近で覗き込むようにして、
「あんたに勝ち目ないよ? エロマンガ先生、わたしが取っちゃうよ?」
「やってみなくちゃわからない。そうはさせない」
相手の目を見て、低い声で宣言する。
「勝負だ、って、言ったろ?」
「…………あっそ」
エルフは、俺の視線から目をそらし、俯いた。
俺たちの間に、しばし沈黙の時間が流れた。
どのくらいそうしていただろう……
「……あの、さ」
やがてエルフは、ぼそりとこう切り出した。
「……あんた、なんでわたしのファンになったの」
「なんだ、いきなり。言わなくちゃだめか?」
「ダメ。言って」
顔を上げ、背伸びをして、すぐ間近で、挑むように見つめてくる。
「…………」
好きな作家のサイン会でこんなこと聞かれたら、困っちゃうよなぁ。
どうしたもんかな。流せる雰囲気でもねぇし。……ううむ。
うんざりするほど長く考えてから、口を開いた。
「……はじめておまえの本を読んだとき、な」
「う、うん」
「ちっとも哀しくない、めちゃくちゃ笑えるシーンなのに、涙が出たんだ」
漫画でも、小説でも、アニメでも、本当に面白いラブコメって、そういうものかもしれない。
「それで、ファンになった」
「そ、そう」
エルフは頰を赤らめて、俯く。
お互いに、無言の時間が過ぎていく。
……なんだこりゃ。まるで告白シーンだ。なんか、すげー恥ずかしくなってきたぞ。
それでも、一度口にした言葉は、ゆっくりと最後まで吐き出される。
「その頃、俺、すっげー……きついことが、あってさ。どうしたらいいかわかんなくて、毎日落ち込んでたんだわ。もう人生でこれ以上辛いことないって思ったのに、そのすぐあとにまた、ひどいことがあって、打ちのめされてた。……でも、おまえのバカみたいな話読んで、笑って、泣いたら、ちょっと楽になったんだ」
「そっか……ってオイ、褒めてるのそれ!」
「褒めてる褒めてる。毎回毎回、ろくに話すすまねーくせに、よくまぁあんな面白い文章書けるもんだ」
「褒めてねぇー! 絶対バカにしてるでしょ!」
「してねーっての」
ぽかぽか殴りかかってくるチビ女を、片腕だけを伸ばして止める。
「どーして伝わんねーかなぁ。信じてもらえねーかもしんねーけどさ。あんとき俺、小説って人を救えるんだなって思ったよ。このタイミングで言うのもなんだけど、ありがとう」
「そりゃ、どーも。どういたしまして」
エルフは照れ隠しのように、腕を組んでそっぽを向く。
「でも、わたしだって、いまはまだ、読者全員を感動させられるわけじゃないのよ」
そりゃそうだ。『いまはまだ』が付いているのがこいつらしいけど。
「ま、天才だからねー。わたしは本を出すたびに、十万人くらい泣かせてると思うけれど」
一拍をあけて、高慢な彼女の口から飛び出した言葉は、とても真摯なものだった。
「あんただって、一回くらい、ひとりくらいは救っているんじゃない?」
俺は目を丸くして、それから笑ってこう答える。
「そうだといいな」
そのとき脳裏に浮かんだのは、初めて俺に感想をくれた、顔も知らないあの人のこと。
妹の笑い声が、ノートパソコンのスピーカーから、高らかに響いていた。