まだエルフと決別する前に、そんなことを言ったっけ。
あいにく、こいつはちっとも仕事なんてしてくれず、参考になることなどなかったのだが……。
エルフは言った。
『わたし……明日、仕事するから。よかったら、見にきなさい』
翌日の放課後、俺は神妙な面持ちで、クリスタルパレスの門前に立った。
あのエルフが。半月の間、俺の前で一度たりとも仕事をすることがなかった売れっ子作家さまが、今日、ついに仕事をするというのだ。緊張しないわけがない。こうしているだけで、冷や汗が噴き出てくる。
「……ごくっ」
いや、まぁ、小説家なんだから、仕事するのが当たり前なんだけどさ。
おかしいな……俺も少しばかり、あいつに毒されてしまっているのかもしれない。
ピンポーン。インターホンを押すと、すぐにやつの声が聞こえてきた。
おごそかな声色で、
『汝、証を示せ』
「沈黙せよ、光あれ」
『入りなさい……聖域は開かれた』
インターホンが切れ、門の先の扉がわずかに開く。もちろん不思議な力で開いたわけではなく、向こう側からエルフが押している。
……この茶番をやんないと、家に入れてくれないから困る。このくらいの手続きで、我が家の『開かずの間』が開くなら、いくらでもやってやるんだけどなあ。
顔を熱くしながら、扉の前まで進むと、さっきまでの神聖っぽいやり取りをぶちこわすかのように、勢いよく扉が開く。
そして、白いエプロン姿のエルフが現われた。
「来たわね! 待っていたわ!」
「……どうしたんだ、その格好?」
俺は目を剝いて聞いた。
「今日は……仕事をするところを見せてくれるんじゃ……なかったのか?」
そう思って来たのに、出てきたのは、派手なふりふりエプロンを着用した山田エルフ大先生だったのである。俺が仰天するのも無理はない。
一瞬、メイド喫茶にでも迷い込んでしまったのかと思った。
エルフは、エプロンを叩いて言った。
「見てのとおり、絶賛仕事中よ!」
「おまえの仕事って、小説家だよね?」
メイドじゃないよね?
「は? なにをわかりきったことを……」
「一瞬わからなくなってしまったから、聞いたんだ。小説家の仕事で、どうしてエプロンを装着する必要が?」
「エプロンを着けてやることなんて、料理しかないでしょう? さ、ついてきなさい」
? ?? な、なにを……言っているのだ?
俺の疑問はまったく解消されないまま、エルフに連れられリビングへ。
「適当に座って頂戴」と、いつもの台詞を言われたところで、ピンポーン、と、インターホンが鳴った。エルフは、リビング入口にあるインターホンの受話器を手にとって、
「汝、証を示せ。………………入りなさい……聖域は開かれた」
ガチャ。通話を切ったエルフは、俺を見て言った。
「クロネコヤマトだったわ」
「おまえ! 配送業者にもそれやらせてんのかよ!」
「当然でしょう? なんのための暗号だと思っているのよ。誰かれ構わず原稿を取りに来た敵だと判断するのはよくないって、あんたが言ったんじゃない」
「そりゃ、言ったけど……」
お届けもののたびにこの茶番をやらされる配送業者さんが、かわいそうでならない。
「ちょっと玄関に行ってくるわ。悪いけれど、あんたもきて。たぶんアレだから」
「はいはい。なんだかわかんねーが、とことんつきあってやるよ」
玄関で、エプロン姿のエルフが受け取った荷物がなんだったかというと。
「……食材か」
「そーよ。わたし、いつもネットスーパーで買い物をしているの」
インターネットで頼むと、食材やら何やらを届けてくれるというサービスである。
便利なのかもしれないが、やや割高なので、俺は利用したことがない。
「はい、そっち持って」
「はいはい」
二人で食材をキッチンまで運び、冷蔵庫に入れていく。もう、完全に料理をする流れになっているな。仕事をするところを見せてもらうつもりで来たってのに。
「……何を作るのかしらんけど、手伝うか?」
「いや、今日のはそういうシチュじゃないから、一人で作るわ。リビングで待っていて頂戴」
依然として、こいつの意図がわからない。そういうシチュじゃないってなに?
「材料からすると、結構時間かかりそうだな。……家に戻ってちゃだめか? 仕事したい」
「ダメ。仕事したいなら、ここでしなさい。いいわね」
どうあっても逃がしてはくれないらしい。
……こいつ……なーに考えてんだかな。
エルフの考えはわからなかったが、仕事をやっていていいというなら、逃げ出す必要もない。
俺はエルフの仕事場に移動して、USBメモリに入れておいた原稿を印刷する。前にも何度か借りたことがあって、プリンターの使い方は把握していた。
エルフが使っているのは高級な業務用レーザープリンターで、凄まじく性能がいい。俺の部屋にはそんなものはなく、必要なときは学校の職員室やらネットカフェやらで印刷させてもらっていたから、羨ましいといつも思う。
静かな音で、軽快に紙を吐き出していくプリンターを眺めていると、
「あれ?」
急に止まってしまった。どうやら紙がなくなってしまったようだ。
「おーい、プリンターの紙ってどこにあるんだー?」
部屋の外に出て、階下に呼びかける。すると、ぱたぱたとエプロン姿のエルフが上ってきた。
「用紙がなくなったの? うそ? 前に補給してから、わたし、ぜんぜん印刷してないわよ? 仕事してないし」
「……………………」
俺はさりげなくエルフから視線をそらした。
「あんた! 人んちのプリンターで、大量に印刷したでしょ!」
もちろんすぐに、俺の犯行だとバレてしまった。俺はエルフを拝んで許しを請う。
「いや、すまん。どーももったいなくてプリンター買ってなかったんだけど……すぐ使える場所にあると、やっぱ便利でなあ」
「だからあんた、うちに来るたびプリンター使わせろって言ってきてたのね──もう自分で買いなさいよ! うわ! ほんとに部屋にストックしておいたA4用紙がぜんぶなくなってる! 印刷したのって、ほんとに原稿だけ? ウソでしょ? 半月でどんだけ書いたの?」
どんだけ書いたかって……うーん、そうだな。
「一週間で、三百ページくらいのを二作ずつ書いて送ってたから……半月で千二百ページくらい」
「せ……!」
エルフが、ネズミを目撃した猫型ロボットみたいな顔になった。
「せんにひゃく!? 千二百ページって言ったいま!?」
「お、おう。言ったぞ」
ちなみに一枚の紙に二ページぶんずつ印刷しているので、消費したA4用紙はその半分だ。つまり六百枚くらい印刷した……ということ。
「……そう怒るなよ、インク代と紙代くらい払うって」
「そうじゃないわよ! そうじゃなくて……一週間で三百ページを二作ずつ書いてた? つまり文庫本二冊分ってことよね──それが本当だとしたら、アレよ? 一月で……ええと、何冊になるのかしら?」
「八冊」
「そう! 八冊でしょ!? 二千……何百ページか! てことは……てことは……あくまで仮定だけど……書いた作品がぜんぶ発売されるとしたら……」
「年間で八十八冊も、本が発売できてしまうじゃない!」
「九十六冊じゃねーの?」
足し算かけ算あやしいぞ? 売れっ子作家のくせに大丈夫か?
「………………」
エルフは黙った。
ポッと頰を染め、けれど『別にたいしたことじゃないよ』みたいな顔で、
「そうね! 九十六冊ね! ちょっと間違えたわ!」
「…………八かける十二は、八を十二回足すんだぞ?」
「ばかにしないで頂戴! し、しし、しってるわよ! そのくらい!」
憤るエルフの顔は、ゆでだこみたいに火照っている。
人前で小学校レベルの問題を盛大に間違えるとか、凄まじい生き恥だものな。