「俺はいつだって大マジだ! 行くぜ!」
俺は静止の声を打ち消して、走り出す。精神的にも物理的にも、勢いがついてしまっていて、止まれなかった。勢いのままに、ダンッと足を踏み出して──
飛んだ。
一瞬の浮遊感。
すぐに『あ、やばっ』と思った。
飛距離は申し分なかったのだが、ちょっとばかし飛びすぎた。
「向こうの窓にぶつかるでしょ! って、ああもう──!」
俺を止められないと判断したエルフは、俺が飛ぶ直前に、大声を張り上げていた。
「エロマンガ先生~~~~~~~~~~~~~~~~! いますぐ窓を開けないと、あんたのお兄ちゃんが死ぬことになるわよ~~~~~~~~~~~~~~!」
がらっ!
エルフの叫びが終わる前に、俺のジャンプの着地点にある『開かずの間』の窓が、勢いよく開いた。
そこから姿を現わしたのは、半月ぶりに見る、パジャマ姿の妹。
瞬間、時間が止まったように感じた。
「────」
体感では飛んでから窓が開いたように思えたが、あとから考えてみると、実際には、俺が飛んだのと、紗霧が窓を開けたのは、ほぼ同時だったのだろう。その前に、エルフが叫んでくれていたのだろう。そうじゃないと色々とおかしい。
おかしいのだが──
〝兄さん〟
たしかに、その声を聴いたのだ。妹の焦った顔が驚きの表情へと変わり……俺を呼ぶ、その唇の動きまで、つぶさに見て取れた。
「紗霧──いま、行くぞ」
そんな返事なんて、一瞬でできるわけないのだが、そう言ったという記憶がある。
いやはや、何事も体験してみるまでわからねぇもんだ。
バトル小説でよくある──『時が止まったような』『一瞬のうちにべらべら喋る』──描写も、誇張表現じゃなかったのかもしれない。
ともあれ、そんな長々とした思考を、なぜか一瞬のうちにたれ流した俺だったが──当然、物理現象を捻じ曲げられるわけがない。態勢を立て直す暇もなく、妹にぶつかった。
「! きゃ……!」
先に柵に当たったため、飛んだ勢いはかなり殺され、紗霧への衝撃はさほどでもなかったのが不幸中の幸いだろう。妹に怪我をさせるくらいなら、俺自身が窓に激突していた方がずっとましだから。
ぶつかる、というよりは、のしかかるような形で、俺は妹の身体に倒れこんだ。
「……っ、いて、て……」
柵にぶつかった脚が痛む一方で、顔面には柔らかな感触がある。
……な、なんだ……? 俺の顔は、いったいなにに触れている……?
ゆっくりと眼を開けた先にあったのは……
「なっ……」
妹の胸だった。
つまり……俺は、いま、紗霧の胸に、顔をうずめている、ということで……。
「……っ……な、なにっ」
そこで紗霧も、目を開ける。ぱちくりと瞬きして──
「な……!」
あまりのことに、事態を認識できず、固まってしまっている。
「…………………………」
「…………………………」
い、いかん……なにか……なにか言わなくては……!
「いや、これは、その……ええとっ!」
そ、そうだ! 俺は決めていたはずだ! 紗霧と顔を合わせたら、まずこう言うんだ、って!
俺は、妹の胸にうずもれたまま、抱えていた茶封筒を掲げ──ずっと考えていた決め台詞を繰り出した。
「紗霧、新作の原稿ができたんだ。読んでくれ」
「!」
紗霧は、一瞬、俺の言葉を吟味するかのように硬直し──そして、
「~~~~~~~~~~~ッ」
ばちこーん! と、強力なビンタを俺の頰にお見舞いしたのである。
「……………………」
「……………………」
「………………………………………………その……すまん」
数分後……頰を腫らした俺は『開かずの間』の中で、自ら正座をし、縮こまっていた。
俺の目前では、腕で身体を抱いた紗霧が、恥じらいで赤くなった頰を、不機嫌にふくらませている。
「も、もういい……よくないけど…………………………で?」
ヘッドセットのマイク越しに、ぼそ、と、呟く。
相変わらず、これがないと声が小さすぎてまともな会話にならないらしい。
素の声……好きなんだけどな。
「なんで、あんな、あぶないことしたの」
「……いや、その……おまえが……あれからずっと……扉、開けてくれないから」
最近、紗霧はよくベランダの窓を閉め忘れていたし、開いているかも、と思ったのだ。
「俺……心配で……こんな方法しか思いつかなかったんだよ」
悪かったな、と、改めて詫びる。
「…………」
紗霧はうつむいて、俺の話を聞いていた。何を考えているのか、わからない。
「……紗霧……なんで、窓を開けてくれたんだ?」
「……えっ?」
「いま、自分から、開けてくれただろ? だから俺とぶつかっちゃったわけで────」
「──そんなの、どうでもいい」
俺の問いを、紗霧はぴしゃりとシャットアウトした。そして、
「…………これ」
ぶっきらぼうにタブレットを突き出し、画面を見せつけてくる。
「なんだ?」
「扉を開けなかった、理由」
原稿を読ませに来たのに、逆にこっちが見せられる側になるとは。
おかしな展開になってきたなと、そう思ったが……それを目撃した瞬間、俺は眼をむいた。
「なっ……!」
俺は、とっさになんと言っていいか、わからなかった。色々な感情が渦巻いていて、どれを取り出して示せばいいのやら……。
紗霧が見せてきたタブレットに描かれていたのは、完結した俺の前作『転生の銀狼』シリーズに登場するヒロインたちの姿だった。
完結記念イラストと、ほぼ同じオールスターメンバー。
ただし、以前と違っている点がひとつ。
『ヒロインたちが武器を持って、戦っている』シーンだということ。
──「お、おまえだって、戦闘シーンの挿絵描くのヘタクソじゃねーか!」
「おまえっ! これ……!」
「……戦闘シーン、描くの、うまくなった?」
「うまくなった、どころじゃない……ほとんど別物じゃないか」
かつて明らかに苦手だった武器──特に重火器の類の描写が、別人が描いたみたいにリアルで、引き込まれるものになっている。いや、リアル調のイラストになったって意味じゃなくて……なんというか、キャラクターたちが、まるで本当に『生きている』ように見えるのだ。
「…………そう」
ぼそりと頷いた紗霧は、どうでもよさそうな口調とは裏腹に……かすかに微笑んだ。
紗霧は……感情を隠し切れない──そんなときに見せる表情が、いちばんかわいらしい。
俺は、こんなときだってのに、頭が熱くなってきて、まともに妹の顔が見られなかった。
「いままでと……なにが違うんだ? なんでこんなにすごく見える?」
「……さあ?」
きょとん、と、首をかしげる。
「ちょ、自分でもわかってねーのかよ! こういう描き方してる、とか、そういうの、あるんじゃないの?」
「格闘技の試合動画、見たり……武器の資料とかも、たくさん読んだ」
研究の成果──って、ことか。
「でも、描き方、とか、じゃなくて……。うまく言えない」
このあたり、動画配信中のエロマンガ先生に聞けば、技術的なことを幾らでも面白く語ってくれそうなところだが──紗霧には無理だな、こりゃ。
「ただ……」
「ただ?」
「戦う人の気持ちは、ちょっとわかった……かも」
「……と、いうと?」
紗霧は『戦い』なんてガラじゃないような気がするが。
彼女は少し迷うような仕草をしてから、うつむいて、こう言った。
「……私、人が死んだり、怪我をしたりする話……あんまり好きじゃない」
「!」
いまの紗霧が言うと、深い意味がこもっているように聞こえる。
「前から、だから。勘違いしないで」