何度か頷きを繰り返し──後生大事に『星くず☆うぃっちメルル』を抱きかかえ、その場から走り去っていった。その光景が、何故だか俺に郷愁を抱かせる。ずっと昔、こんなことがあったような気もする。……もう忘れたけどな。
「……扉くらい閉めていけっての」
そうぼやいて、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
で──それから二日間は、何事もなくすぎた。俺と桐乃はいつもどおり、会話もなく、目も合わさず、他人の距離感を保ったまますごしていた。妹の意外な一面を垣間見た俺だったが、別段何をしようとも思わなかったし、さっさと忘れちまおうと割り切っていた。
そりゃ、なんでまた、あの妹があんなもんを……? という興味は湧いていたけどな。
だからといって、他人の秘密をほじくり返そうとは思わんさ。面倒くせえもの。
だが……
そんなある日の深夜。
安らかに眠っていた俺は、バチンと頰に強い痛みを感じた。
「っだ!?」
最悪の目覚め。どうやら頰を張り飛ばされたらしい。
な、なんだ!? 強盗か!? 仰天した俺は、慌てて目を開ける。
「っ」
まぶしい。部屋の電気はつけられているようだ。腹に重みを感じるが、手足を拘束されているようなことはない。強盗にしては中途半端な……って、おい!
「お、おまえっ」
襲撃者の姿を認めた俺は、目を見張ってしまう。いきなり夜襲をかけられたもんだから、心臓がばっくんばっくんいってやがる。
「…………静かにして」
なんと襲撃者の正体は、パジャマ姿の桐乃だった。ベッドで上体を起こした俺に、覆い被さるような体勢で四つん這いになっている。化粧をおとした妹の顔が、すぐ間近にある。
「……っこの、おまえな……!? なんのつもり……」
「…………静かにしろって言ってるでしょ……いま何時だと思ってんの?」
俺が非難の声を上げると、桐乃は小声で恫喝してきた。
いま何時だと思ってるってのは、この場合、俺の台詞だと思うんだがな。
……つーか、俺はいま……深夜、自室のベッドの上で、妹に覆い被さられて、至近距離で見つめ合っているわけだが……。このシチュエーションは……いったい? このシーンだけ切り取ってみりゃラブコメちっくだが、俺の心臓は違う意味で張り裂けそうだ。
「と……とりあえず、ベッドから下りろ……」
呼吸を整えながら言ってやると、桐乃は明らかにムッとした表情で、俺の言葉に従った。
これが他の女なら、俺だって(驚く以外の理由で)動揺しただろうが、妹に乗っかられても重いだけである。どんなに見てくれがよかろうと、こいつは異性のうちに入らない。
妹を持つ兄なら、みんなそう言うはずだ。
「はぁ」
俺はこめかみを指で押さえ、ため息をついてから聞いた。
「で? どういうつもりだ?」
「…………話があるから、ちょっと来て」
なんでおまえがキレ気味なんだよ……。いきなり頰を張り飛ばされたこっちの方が、よっぽどムカついてるっての。それでもちゃんと相手をしてやる俺は、ホント人間ができているよな。
「話だぁ? こんな時間にか?」
「そう」
「すげー、眠いんだけどな、俺。……明日じゃ駄目か?」
あからさまに嫌そうに言ったのだが、桐乃は首を縦に振らなかった。
むしろ『バカじゃん?』みたいな顔で返事をした。
「明日じゃダメ。いまじゃないと」
「どうして?」
「……どうしても」
はいはい。理由は言わない。主張も曲げない。どんだけわがままなんだよ、この女。
こんな妄言はうっちゃって眠りたいのが本音だったが……あいにく目が冴えてしまったので仕方ない。面倒くさいが返事をしてやる。
「……どこへ来いって?」
「……あたしの部屋」
親の仇でも見るような目で言って、桐乃は俺の袖を引っ張った。
やれやれとかぶりを振って、俺は抵抗を諦める。
「行けばいいんだろ……行けば」
なんだってんだよ、本当。
妹の部屋は、俺の部屋のすぐとなりにある。一昨年の春、桐乃が中学に上がったので、親父があてがってやった部屋だ。ろくに使っていなかったボロ和室を、わざわざ洋室にリフォームした部屋で、俺自身は一度も入ったことがない。
今後もないだろうとばかり思っていたのだが……よりにもよって深夜に招かれることになろうとは。今朝までの俺なら、絶対に信じられないだろうな。なにせ、いまだって何かの冗談じゃないかと疑っているくらいなんだから。
「……いいよ、入っても」
「……おう」
先導していた桐乃に促され、俺は妹の部屋へと、初めて足を踏み入れた。特に感慨はないが。
妙に甘ったるいにおいがする。
……ふーん。俺の部屋より広いじゃねえか。
八畳くらいある。ベッドにクローゼット、勉強机、本棚、姿見、CDラック……等々。
内装自体は俺の部屋と、それほど代わり映えしない。全体的に赤っぽいカラーリングだ。
違うところといえば、パソコンデスクがあるくらいか。
個性には乏しいが、わりと今風で、俺が抱いている桐乃のイメージと一致する部屋だった。
「……なにジロジロ見てんの?」
「別に見てねえよ」
信じらんねえ。自分で連れてきたくせに、この言い草。
桐乃はベッドにちょこんと腰掛け、地べたを指差す。
「座って」
いたって自然に言うけどな。妹よ、それは奉行と罪人の立ち位置だぞ?
「……おい、せめて座布団をよこせよ」
「………………」
桐乃はすごく嫌そうに眉をひそめ、猫の座布団を投げてよこす。
俺はありがたく猫の顔面を尻に敷いて、あぐらをかいた。
……ほんっとこいつ、自分の持ち物に俺が触れるのが気に入らんらしいな。菌がつくとでも思ってんのかね? この年頃の女ってのは、みんなそうなのか? あー、やだやだ。
「で?」
俺は無造作にあごをしゃくった。桐乃はムスっとしたまま、落ち着きなく視線をさまよわせている。やがて、すぅはぁと深呼吸をしてから、こう呟いた。
「…………があるの」
「なに?」
声が小せえよ。聞こえねえっての。俺が問い返すと、桐乃の目付きが厳しくなった。
「……だ、だから、相談」
ずいぶん妙な台詞が聞こえたな? 聞き間違いかと思い、俺はもう一度問い返す。
「なんだって?」
「……人生相談が、あるの」
「……………………」
俺は、かなり長い間、呆然と沈黙してしまった。落ち着きなくまばたきを連射しながらだ。
だっておまえ……ねえ? よりにもよってこの妹が、ゴミ虫みてーに嫌ってる俺に向かって、なんつったと思う? 人生相談があるの、だぜ? どう考えても夢だろ。町にゴジラが攻めてきたっつわれても、こんなに驚かねえよ。
俺はカラカラに渇いたのどで、なんとか声を発した。
「人生……相談って……おまえが……俺にか?」
「うん」
桐乃ははっきりと頷いた。おいおい、マジかよ……。
「……この前、言ったじゃん?」
「なにが?」
「あ、あたしが、その、……ああいうの持ってても、おかしくないって、さ」
歯切れが悪い。落ち込んでいるような喋り方だ。
「ああいうのって…………もしかして、俺が捨てといてくれって頼んだアレのことか?」
「……うん」
何でここでその話が出てくるんだ?
俺はいぶかりつつ「ああ、言ったな」と答えた。
「それがどうした?」
「あの……ほんとに……バカにしない?」
本当に、こいつに話しても大丈夫かな──そう言いたそう。
この期におよんで疑惑の視線を向けてくる桐乃に、俺はこう言った。
「何度も同じこと言わせんな。絶対バカにしたりしねえって言ったろ」