雪菜の動きが一瞬でも遅れていたら、確実に命を落としていた。真剣による本気の斬撃だ。
二体の大柄な鎧武者が、闇の中から溶け出すようにして現れる。
無骨な太刀を握った、顔のない武士。そして左右に弓を構えた、四本腕の武士。
彼らの存在は実体ではない。呪術によって生み出された式神だ。おそらくは御簾の向こうにいる三人の誰かの仕業なのだろう。しかしそれを理解する前に、雪菜は反撃に転じていた。
「響よ!」
口の中で短い呪言を唱えて掌に呪力を集中。それを式神の鎧越しに、内部へと直接叩きこむ。
鎧武者の姿は一瞬で霧散した。あとには握っていた太刀だけが残された。
式神を生み出す触媒として使われていたその太刀を、雪菜は空中でつかみ取った。二体目の鎧武者の攻撃を、奪った太刀で防御し、受け流す。そして矢を放ち終えた直後の相手を、横薙ぎに払った太刀で両断した。二体目の鎧武者も消滅する。
「これは……なんの真似ですか?」
軽く息を弾ませながら、雪菜は太刀を御簾のほうへと向けた。
これ以上、式神の相手をする気はなかった。戦闘が長引けば、力量の劣る雪菜に勝ち目はない。たとえ相手が獅子王機関の長老たちといえども、彼らが戯れを続けるつもりなら、術者を直接討たねばならない。そう判断したのだ。
まるでそれを待ちかねていたかのように、御簾の向こうから、まばらな拍手が響いた。
「ふはははは。よい判断であるな、姫柊雪菜。よく凌いだ」
満足げに笑う男の、低く野太い声が聞こえてくる。
続けて、年齢も性別もよくわからない声で、
「呪詛卜筮を不得手とするも、霊視、剣術においては抜きん出た才を持つ逸材……報告書のとおり、典型的な剣巫じゃな。まずは合格と言っておこうかの」
「合格……?」
御簾の向こうから聞こえてくる長老たちの声に、雪菜はムッと眉をひそめた。
「そう。あなたが剣巫の資格を得るためには、本来ならあと四カ月間の行を修めてもらわなければなりません。ですが、事情が変わりました──座りなさい、姫柊雪菜」
最初の女の声が言った。彼女の言葉に渋々と従って、雪菜は正座に戻った。溜息をついて、太刀を置く。
「さあ、本題に入りましょう」
「はい」
「良い返事です。まずは、これを」
その言葉とともに、御簾の隙間からなにかが現れた。それは一羽の蝶だった。
音もなく羽ばたいて雪菜の前に着地すると、蝶は一枚の写真へと変わる。
写っていたのは、高校の制服を着た一人の男子生徒。友人たちと談笑している姿を、誰かが隠し撮りしたものらしい。無防備で隙だらけの表情だ。
「この写真は?」
「暁古城というのが彼の名前です。知っていますか?」
「いえ」
雪菜は正直に首を振る。実際、初めて目にする顔だった。その答えを最初から予想していたのだろう。女は、なんの感慨もない口調でさらに訊いてくる。
「彼のことを、どう思いますか?」
「え?」
突然の質問に、雪菜は戸惑う。
「写真だけでは正確なことはわかりませんが、おそらく武術に関しては完全な素人か、初心者の域だと思われます。特に危険な呪物を身につけている様子もありませんし、撮影者の存在を察知している気配もありません」
「いえ、そういうことではなく、あなたが彼をどう思うかと訊いているのです。つまり、彼はあなたの好みですか?」
「は、はい? なにを……?」
「たとえば顔の良し悪しだとか、見た目の好き嫌いの話です。どうですか?」
「あの……わたしをからかってるんですか?」
不機嫌な口調で雪菜は訊き返す。長老たちの真意はわからないが、彼らの場違いな質問には悪意を感じる。床に置いた太刀に思わず手が伸びそうになる。
雪菜のそんな反応に、御簾の向こう側の女は落胆の息を吐き、
「では、第四真祖という言葉に聞き覚えは、姫柊雪菜?」
さらに唐突な彼女の質問に、雪菜は小さく息を呑んだ。まともな攻魔師ならほとんど誰もが、その名前を聞くだけで、しばし沈黙することになる。
「焰光の夜伯のことですか? 十二の眷獣を従える、四番目の真祖だと──」
「そのとおり。一切の血族同胞を持たない、唯一孤高にして最強の吸血鬼です」
冷静な女の声が拝殿に響く。
第四真祖〝焰光の夜伯〟──
魔族に関わりを持つ者であれば、その名を知らないということはあり得ない。
なぜならそれは、世界最強の吸血鬼の肩書きだからだ。
自らそう名乗っているわけではないが、少なくとも世間はそのように認識している。そして敵対しているはずの者たちでさえ、あえてそれを否定しようとはしない。第四真祖とはそのような存在だ。
「ですが、第四真祖は実在しないと聞いています。ただの都市伝説の類だと」
雪菜の言葉に、女が首を振る気配があった。
真祖とは、闇の血族を統べる帝王。もっとも古く、もっとも強大な魔力を備えた〝始まりの吸血鬼〟だ。彼らは、自らの同族である数千数万もの軍勢を従え、三つの大陸にそれぞれが、自治領である夜の帝国を築いている。
「たしかに、公に存在が認められている真祖は三名だけです。欧州を支配する〝忘却の戦王〟、西アジアの盟主〝滅びの瞳〟、そして南北アメリカを統べる〝混沌の皇女〟──それに対して第四真祖は、自らの血族を持たず、ゆえに領地も持たない」
「然様。だが、それだけでは第四真祖が存在しない、という証明にはならぬのである」
女の言葉を引き継いで、男が荒っぽい口調で告げる。続けて、もう一人の長老の声も。
「おぬし、今年の春に、京都で起きた爆発事故のことを覚えておるかえ?」
「……え?」
「四年前のローマの列車事故、それに中国での都市消失事件も。マンハッタンの海底トンネル爆破事件もあったの。古いところではシドニーの大火災も」
「まさか……それらすべてが第四真祖の仕業だと?」
雪菜が表情を引き攣らせた。長老が何気なく口にしたのは、それぞれ大量の死傷者を出した凶悪な大規模テロ事件だった。いずれも犯人は不明だと報道されている。だが、それらが真祖がらみの事件なのだとしたら、その程度の被害で済んだのは、むしろ幸運だったとさえいえる。
「あらゆる状況証拠が、四番目の真祖の実在を示しています」
青ざめる雪菜に、最初の女が告げる。
「彼らは歴史の転換点に必ず現れ、世界に虐殺と大破壊をもたらしてきました。しかし問題はそれだけではありません。第四真祖の存在は、この世界の秩序と安定を乱します。その理由は、わかりますね?」
「はい」
雪菜はぎこちなくうなずいた。
吸血という種族特性と、高い教養知性を備えた彼ら吸血鬼は、常に人類に敵対する存在とは限らない。彼らの多くは人間社会に溶けこんで暮らすことを好み、人類という種族全体を敵に回すことをこれまで慎重に避けてきた。
さらに各国政府と真祖たちの間には、無差別の吸血行為を禁止する条約が結ばれ、表向きは平和的な共存が実現しているようにも見える。だがそれは、三つの夜の帝国の力関係が、極めて微妙なバランスの上に成立しているからだ。
「真祖たちが聖域条約の締結に応じたのは、ここ数十年もの間、真祖同士が互いを牽制し合う三すくみの状態が続いていたからです。彼らは常に自分たち以外の真祖の存在に怯え、人類を敵に回す余裕がなかったのです」
「はい」
「ですが、もし彼らと同等の力を持つ四番目の真祖が出現したら、その均衡は呆気なく崩れてしまうでしょう。最悪、人類を巻きこんだ大規模な戦争にもなりかねません」
「第四真祖の居場所は、わかっているのですか?」
雪菜が緊張した声音で訊く。なぜか、ひどく嫌な予感がした。
「ええ。まだ確認はとれていませんが、ほぼ間違いないでしょう」
「彼は、どちらに?」