じゃあな、と荷物をまとめて立ち上がる友人を、古城はぽかんと間の抜けた顔で見上げる。
どうやら矢瀬は、どさくさに紛れて、自分のぶんの宿題をちゃっかり写し終えていたらしい。
一方、古城のぶんの宿題は、ほとんどまるまる手つかずのままだ。追試の準備でそれどころではなかったのだから、当然といえば当然だが、見せつけられた圧倒的な格差は、すでに崖っぷちにいた古城の心を叩き折るのに十分だった。
「やる気なくすぜ……」
ファミレスに一人取り残されて、古城は再びテーブルに突っ伏した。
そういえば腹も減っていた。しかし今の古城の財布には、料理を追加注文するほどの余裕はない。ドリンクバーの炭酸水で空腹をごまかすのもそろそろ限界だ。
吸血鬼といえば、ワインやらトマトジュースやらだけ飲んでいればいいようなイメージがあるのだが、実際は普通に腹が減るしメシも喰う、というのは、なにやら騙されたような気分だった。とりあえず昼間でも眠いだけで普通に活動できるのは助かるが。
古城は、真っ白なままの問題集をぼんやりと眺める。
ふと、なにかの授業で聞かされた話を思い出す。様々な進化を遂げた生物の中で、生き残る可能性がもっとも高いのは生存環境に最適化した種族であり、したがって現在生き残っているものたちは、その最適者の子孫である──とかいう学説があるのだそうだ。
適者生存だの、自然選択だのと呼ばれているリクツである。
そんな単純でいいのかと思わなくもないが、なるほど、実によくわかる話だ。
逆に言えば、自然淘汰された生物とは、環境に適応できなかった種族ということになる。
遥かな古代、神のごとき力を手に入れた英雄、超人がいたとして、彼らのような異能の力を持った種族が生き残らなかったのも、同じ理屈で説明がつく。
彼らは、周囲の環境に適応できなかったのだ。
暁古城にはそれがよくわかる。
どれほど力が強くても、頑丈な肉体を備えていても、世界最強の吸血鬼と呼ばれていても、そんな能力は、現代社会においては役に立たない。
追試の試験範囲の、薄っぺらい問題集一冊も、終わらせることができないのだから──
「俺も帰るか……凪沙のやつが、メシの支度を忘れてないといいんだが」
古城はそう呟くと、教科書と問題集をカバンに放りこみ、伝票をつかんで立ち上がった。
レジで精算を済ませると、もとから残念な感じだった財布の中には、わずかな小銭しか残らなかった。このままでは明日からの昼食代にも事欠く始末である。
妹に金を貸してもらうためには、どういう言い訳をするべきか──そんなことを真剣に考えながら、古城は店の出口に向かった。そしてふと足を止めた。眩い夕陽に目を細める。
ファミレスの正面。交差点の向かい側。
逆光の中に一人の少女の姿があった。
黒いギターケースを背負った制服姿の女子生徒だ。
彼女は、太陽を背にして無言で立っていた。
まるで古城を待ち構えていたかのように、身じろぎもせずそこに立ち続けていた。
2
絃神島は、太平洋のド真ん中、東京の南方海上三百三十キロ付近に浮かぶ人工島だった。ギガフロートと呼ばれる超大型浮体式構造物を連結して造られた、完全な人工の都市である。
総面積は約百八十平方キロメートル。総人口は約五十六万人。行政区分上は東京都絃神市と呼ばれているが、実体は独立した政治系統を持つ特別行政区だ。
暖流の影響を受けた気候は穏やかで、真冬でも平均気温は二十度を超える。
熱帯に位置する、いわゆる常夏の島である。
だが、この島の主要産業は観光ではない。
それどころか島への出入りには厳重な審査があり、ただの観光客が訪れることはあり得ない。
絃神市は学究都市だ。製薬、精密機械、ハイテク素材産業などの、日本を代表する大企業、あるいは有名大学の研究機関が、この島にはひしめき合っている。
それは日本本土から遠く離れたこの人工島でだけ、ある分野の研究が認められているからだ。
魔族特区。
それが絃神市に与えられた、もうひとつの名前である。
獣人、精霊、半妖半魔、人工生命体、そして吸血鬼──この島では、自然破壊の影響や人類との戦いによって数を減らし、絶滅の危機に瀕した彼ら魔族の存在が公認され、保護されている。そして彼らの肉体組織や特殊能力を解析し、それを科学や産業分野の発展に利用する──絃神市はそのために造られた人工都市なのだ。
島の住民の大半は、研究員とその家族、および市が認めた特殊能力者である。
その中には、当然、研究の対象となる魔族たちも含まれる。特区の運営に協力する魔族には、その見返りとして市民権が与えられ、人類と同様に、学び、働き、暮らすことが許される。
絃神市は、いわば魔族と人類が共に生活するためのモデル都市──
あるいは、壮大な実験室の檻なのだった。
「──にしても、この暑いのだけは勘弁してくんねえかな、くそっ」
パーカーのフードを目深に被って、陽射しに精いっぱい抵抗しながら、古城は悪態をつく。
高温多湿のこの島では、温度計の数値以上に体感気温が高い。真夏の海面で温められた風は、ある意味、砂漠の熱風よりタチが悪い。吸血鬼が太陽に弱い、などという前に、普通の人間にとっても相当過酷な環境だ。
ファミレスから古城の自宅までは、市内を走るモノレールで十五分ほどの距離だった。だが、なけなしの小銭を消費しないためにも、古城には歩くという選択肢しか残されていない。じりじりと肌を焦がすような夕陽を浴びながら、彼は、海沿いのショッピングモールを歩いている。
そして何気ない仕草で背後を確認し、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「尾けられてる……んだよな?」
古城から十五メートルほど離れた後方を、一人の少女が歩いている。ファミレスから出てきたときに見かけた、ベースギターのギグケースを背負った少女である。
彼女が着ているのは、浅葱のものと同じ彩海学園の女子の制服だ。襟元がネクタイではなくリボンになっているということは、中等部の生徒なのだろう。
見覚えのない顔だった。綺麗な顔立ちをしているが、どことなく人に馴れない野生のネコに似た雰囲気がある。短いスカートに慣れていないのか、ときたま動きが無防備で危なっかしい。
彼女は古城から一定の距離を保ったまま、歩調を合わせて歩いていた。古城が立ち止まると彼女も足を止め、街路樹の後ろに隠れたりもする。かといって、声をかけてくる気配もない。明らかに尾行されている。しかも本人は古城に気づかれていないつもりらしい。
「……凪沙の知り合いか?」
いくつかの可能性を検討して、古城はそういう結論に達した。
暁凪沙は古城の一歳違いの妹で、彩海学園中等部の生徒でもある。見知らぬ中学生が古城になにか興味を持つとしたら、妹の関係者というセンが濃厚だ。
ただそれにしては少女が声をかけてこない理由がわからない。この炎天下での尾行ごっこは、決して楽ではないだろうに。
いや、正直に言えばもうひとつだけ、古城が見知らぬ人物に尾け回される理由がないこともなかった。だがそれは、あまり考えたくない可能性である。
「様子……見てみるかな」
そう言って古城は、たまたま目についたショッピングモールへと入っていった。目的地は、モールの入り口近くにあるゲームセンターだ。ギターケース少女がどういうつもりで尾けてくるのか知らないが、古城が店に入ってしまえば、なにかしらの動きがあるだろうと思ったのだ。
そして事実、少女は明らかに動揺した様子だった。自分の姿を隠すことも忘れて、途方に暮れたように店の前で動きを止めている。
古城の姿を見失うのは避けたいが、かといって店内に入ってしまえば、古城とばったり顔を合わせる可能性が高くて、それも困る。そのような葛藤の板挟みになっているのだろう。
いや、正確にはもっと単純に、ゲームセンターなどという得体の知れない店を警戒している。そんなふうにも見えた。
夕暮れ時、寂れたショッピングモールの前に一人立ち尽くす少女の姿は、ずいぶん儚げで頼りなく感じられる。クレーンゲームの筐体ごしにそれを観察しながら、古城は、自分がなにかひどいことをしているような罪悪感に襲われた。
「…………」
はあ、と長い溜息をついて、古城は仕方なく通路に出る。ずっと隠れてばかりもいられないだろうし、自分のほうから彼女に声をかけてみようと思ったのだ。