§8.【合格祝い】
カランカラン、と店のドアベルが鳴った。
「いらっしゃ──あ、アノスちゃん、おかえりなさい」
店番をしていた母さんが俺の方へ歩いてくる。
父さんはたぶん、工房でなにか作っているのだろう。
「……ど、どうだった?」
緊張した面持ちで母さんが訊いてくる。
「合格したよ」
そう口にすると、母さんがほっとしたように顔を綻ばせ、俺をぎゅっと抱きよせた。
「おめでとうっ! おめでとう、アノスちゃんっ! すごいわ! 一ヶ月で学院に合格しちゃうなんて、本当にどうしてそんなに賢いの、アノスちゃんはっ! 今夜はご馳走にするわねっ!!」
やれやれ。自分が合格したわけではないというのに、この喜びようはなんなのだ?
親というのはこのようなものか。いや、まったく理解できぬ。
理解はできないのだが……まあ、悪い気分ではないな。
「アノスちゃんはなにが食べたい?」
「そうだな。できれば、キノコのグラタンがいい」
二千年前から、俺の大好物である。
側近からはもっと贅沢なものや、魔王らしいものを食べるようにと口を酸っぱくして言われたものだが、好きなものは好きなのだから仕方がない。
大体、魔王らしいものはなにかと尋ねると『人間』とかいう恐ろしい答えが返ってきた。
人間が食えるわけないだろうが、馬鹿めが。
魔王がグラタンを食べていては示しがつかないだのなんだのとうるさかったが、くだらぬ。
魔王というのは己のわがままを通す力を持つ者の名だ。なればこそ、食べたいときに食べたいものを食べる。
俺はキノコのグラタンを食べる。
「ふふー、わかったわ。キノコのグラタン、アノスちゃん、大好きだものね。そう言うと思ってお母さん、ちゃーんと下ごしらえしてあるのよ」
さすが母さん、昔の配下とは違うな。
「ああ、それと母さん、客人がいるんだが」
「ん? お客さん? だあれ?」
振り向き、俺の背中に隠れるようにしていたミーシャを紹介する。
「ミーシャ・ネクロンだ。今日学院で知り合った」
ミーシャは一歩前へ出て、抑揚のない声で言う。
「よろしく」
ミーシャがぺこりと頭を下げる。
すると、なぜか母さんは驚いたような表情で、口元に手をやっていた。
「アノスちゃんが……アノスちゃんが……」
母さんは動転したように大声で口走った。
「わたしのアノスちゃんが、もうお嫁さんを連れてきちゃったよぉーーーーーーーーっっっ<外字>」
家中に響き渡る声。
ミーシャは小首をかしげた。
「……わたしのこと……?」
「いや、悪い。少々母さんは、早とちりなところがあってな」
いくらなんでも誤解しすぎではあるが。
「……そう……」
「いいの。いいのよ、アノスちゃん。アノスちゃんの幸せが、お母さんの幸せなんだからね。お母さん、反対しないわ……」
目尻を拭い、涙ながらに母さんが言う。
いったい、母さんの頭の中で、どんな妄想が駆け巡っているのか、ちょっと聞くのが恐ろしい。
「母さん。盛り上がってるところ悪いんだけど……」
バタンッと勢いよく工房のドアが開かれた。
「アノスッ! でかした。それでこそ、男だ!!」
く、父さんまでも。
二人とも、なんだってこんなにはしゃいでいるのだ?
「振り返れば、お前が生まれたのがつい先日のように思い出される」
父さんはなんだか気取ったポーズを決めて、窓に視線を注いでいる。
「いつか、父さんはこんな日が来るだろうと思っていたんだ。だけど、長いようで少し短かったな」
はは、と爽やかに父さんは笑った。
それは、一ヶ月だから短いだろう。
「いや、めでたい。イザベラ、今夜はご馳走だ。派手に祝うぞ」
「うん、わかってるわ、あなた。アノスちゃんの門出だものね」
満面の笑みを浮かべる父さんと、また涙ぐむ母さん。
二人は向かい合い、うんうんとうなずいている。
「……お父さんも、早とちり……?」
ミーシャが俺に視線を向けてくる。
「すまぬ。見ての通りだ……」
「よし、そうと決まれば、早速料理を作ろう。ほら、イザベラ、笑顔だ、笑顔」
「うん、そうね。アノスちゃんのおめでたい日に、お母さんが泣いてちゃだめよね。大丈夫、ちゃんと笑えるわ!」
呆然とする俺たちをそっちのけで、父さんと母さんは二人でどこまでも盛り上がっていく。
「あのさ、母さん、父さん」
「ああ、いいんだ、アノス。今日は手伝わなくても、父さんたちだけでやるから」
そんなこと言われても、俺は手伝ったことないぞ、父さん。
「ほらほら、ミーシャちゃんに部屋でも見せてやりな」
父さんに背中をぐいぐい押されるがまま、二階に上がり、俺の部屋までやってくる。
ドアを閉める直前、父さんはキリリと表情を引き締めた。
「いいか、アノス。料理には二時間かかる。ちょっとぐらい大きな声を出しても、母さんには聞こえないよう、うまくやっとくからな」
ふむ。父よ、あなたはなにを言っているのだ。
「あのさ、父さん」
「安心しろ。こういうことは父さんに任せとけ」
訂正する間もなく、父さんはドアを閉める。
その直前、なんだかいやらしい声で言ったのだ。
「ごゆっくり」
やれやれ、父さんたちには困ったものだ。
「すまぬな、ミーシャ。後で冷静になったときにでも話しておく」
「……ん……」
怖いものはない、というだけのことはあり、こんな状況でもミーシャは物怖じしない。父さんたちのことは気にせず、俺の部屋にぼーっと視線を巡らせている。
「……なにもない部屋……」
「引っ越してきたばかりだからな」
とはいえ、それほど物を増やすつもりもないが。
「気にしないのだな、ミーシャは」
「気にしない?」
「父さんと母さんが騒がしかったろ」
「……慣れてる……」
今朝、ミーシャの見送りに来ていた人間の男のことを思い出す。
「確かにミーシャの父さんも、似たようなところはあるか」
「……違う……」
「ああ、すまぬ。さすがにうちほどではないか」
ミーシャはまた首を左右に振った。
「お父さんじゃない……」
「今朝、見送りに来ていたのが父親ではないということか?」
ミーシャはうなずく。
「親代わり」
「なら、実の親はどうした?」
「……忙しい……」
ふむ。そういうこともあるか。転生前の俺などは親代わりさえいなかったわけだしな。
「……アノスは兄弟がいる……?」
「いないが、どうしてだ?」
「……兄弟仲良く」
「ゼペスとリオルグに言ったことか」
こくり、とミーシャはうなずく。
「優しい」
「俺がか?」
くはは、と思わず笑いが漏れた。
「……おかしかった……?」
「いや、そんなことを言われたのは初めてだからな」
ミーシャは小首をかしげる。
「なんて言われる……?」
「そうだな……」
俺はこれまでの人生で言われたことを振り返る。
「お前が生きてるとこの世のためにならないだの、世界のために死ねだの、鬼、悪魔、この外道、貴様の血は何色だ、というのはよく耳にしたな」
ミーシャはじーっと俺を見つめてきた。
「いじめられてた?」
「俺がか? まさか?」
必要に迫られてとはいえ、どちらかと言えば、俺がやったことの報いだろう。
言い訳をするつもりはない。
「原因は俺にある」
だが、きっぱり否定したというのにミーシャは言った。
「……いじめる方が悪い……アノスは悪くない……」
「いや、そうは言うがな」
ミーシャは背伸びをして、俺の頭にそっと触れる。
「よしよし」
ふむ。なにやら誤解されてしまったな。こそばゆいことをする。
「まあ、いじめられてた云々はおいとくとしてだ。優しいというのは、どうだろうな? あいつらにも余計な世話だったみたいだぞ」
ゼペスの奴、ものの見事に兄を消し炭にしていたしな。
「それは結果」
「そうか?」
ミーシャはうなずく。
「アノスは優しい」
そう言われるのは案外、悪くない気分だった。
「ミーシャは兄妹がいるのか?」
ほんの少し考えてから、ミーシャは言った。
「……お姉ちゃん……」
「仲がいいのか?」
すると、ミーシャは黙った。
「……わからない……」
わからない、というのは不思議な答えだな。
良いか悪いか、どちらかだろうに。なにか事情があるのだろうか?
「心配……?」
「そこそこな」
「優しい」
姉のことを話してくれるのかとも思ったが、ミーシャはほんの少し笑っただけだ。
その後、料理ができるまでの間しばらく、とりとめのない会話を交わしていた。