第一章 魔術師は塔に降り立つ FAIR,_Occasionally_GIRL. ⑮

 一秒すら待たずに取り付けられたスプリンクラーが台風のような人工の雨をき散らした。一応、消防隊を呼ぶと面倒臭い事になるので『魔女狩りの王イノケンテイウス』には警報装置セキユリテイセンサーに触れないように命令文を書いてある。となると、かみじようとうが火災報知器のボタンを押したんだろう。

 まさか、『魔女狩りの王』という炎の塊を消すために?


「……、」


 鹿馬鹿しくて笑いも起きないが、そんなつまらない理由でびしょれにされると思うと魔術師は頭の血管が切れるかと思った。

 ステイルは壁に取り付けられた、真っ赤な火災報知器をいまいましげににらみつける。

 ベルを鳴らすのは簡単だが、こちらから止める事はできないだろう。夏休みの学生寮という事でほとんどの住人は出払っているが、消防隊がやってくると面倒な事になるかもしれない。


「……、ふむ」


 ステイルはぐるりと辺りを見回し、それから手っ取り早くインデックスを拾って立ち去る事にした。目的はあくまでインデックスの回収で、上条を殺し尽くす事に夢中になる必要はない。どうせ消防隊がくるまでのタイムラグで、自動追尾の『魔女狩りの王イノケンテイウス』に抱き締められて真っ黒な炭か真っ白な灰にされているだろうし。


(……というか、エレベーターが止まっているなんて事はないだろうね)


 緊急事態にはエレベーターは停止するように作られているらしい、という話を聞いた事がある。ステイルとしてはそっちの方がゆううつだった。ここは七階だ。女の子とはいえ、ぐったりした人間を一人抱えて階段を下りるのは少し疲れる。

 だから、背後からキンコーン、と電子レンジみたいな音が聞こえた時、ステイルは正直ホッとしていた。

 それから、ふと我に返る。

 だれが? 誰がエレベーターに乗ってきた?

 夏休みの夕暮れという時間帯、生徒達は完全に出払っていて学生寮が無人状態である事は確認済みだ。ならば、一体どこの誰が、全体どうしてエレベーターなんかを動かす必要がある?

 がこがこ、と。ガラクタみたいなエレベーターの扉が開く音が鳴り響く。カツン、と。ただの一歩だけ、スプリンクラーに濡れた床を踏む足音が、通路に響く。

 ステイルは、ゆっくりと振り返る。

 一体どうして体の内側が小刻みに震えているのか、そんな理由も分からずに。


 かみじようとうが、そこにいた。



(……何だ? 自動追尾の『魔女狩りの王イノケンテイウス』は一体どうしたんだ?)


 ステイルの頭の中でぐるぐると思考が空回りする。『魔女狩りの王イノケンテイウス』は戦闘機に積んだ最新鋭のミサイルと同じようなものだ。一度でもロックしたら最後、絶対に逃げ切る事はできないし、どこへ逃げようが隠れようが、三〇〇〇度という炎の塊は壁や障害物──そう、鋼鉄さえ溶かして一直線に進んでくる。普通に建物を走り回るだけで振り切る事なんてできるはずがない。

 なのに、上条当麻はそこにいた。

 不敵に。無敵に素敵に宿敵に、そして何より天敵として─────立っていた。


「そーいや、ルーンってのは壁や床に『刻む』モンだったんだっけな」上条は冷たい人工の雨に打たれながら、「……ったく参ったぜ、アンタすげぇよ。正直、ホントにナイフ使って刻まれてたら勝ち目ゼロだったよ、こいつは周りに自慢したって構わねーぜ」


 言いながら、上条当麻は右腕を上げて、人差し指で自分の頭上を指差した。

 てんじよう。スプリンクラー。


「……、まさか。まさか! 三〇〇〇度もの炎の塊が、こんな程度で鎮火するものか!」

「ばーか。炎じゃねえよ、?」


 ステイルは思い出す。学生寮に何万枚と仕掛けた『ルーン』はコピー用紙だった事を。

 。幼稚園児でも分かる理屈だ。

 スプリンクラーを使って建物中を水浸しにしてしまえば、何万枚のルーン文字が仕掛けてあろうが問題ない。建物中を走り回る必要もなく、ボタン一つですべての紙切れを殺す事ができる。

 魔術師は思わず顔面の筋肉をけいれんさせて、


「──────『魔女狩りの王イノケンテイウス』!」


 ら───

 しゅうしゅう、と。炎の体に雨粒がぶつかるたびに獣の吐息のような蒸発音が響く。


「は、はは。あははははははは! すごいよ、君ってば戦闘センスの天才だね! だけど経験が足りないかな、コピー用紙ってのはトイレットペーパーじゃないんだよ。!」


 ギチギチと。両手を広げて爆発するように笑いながら、魔術師は『殺せ』と叫んだ。


魔女狩りの王イノケンテイウス』は、その腕をハンマーのように振り回して、


「邪魔だ」


 一言。かみじようとうは、振り返りすらしなかった。

 ずぼん、と。うらけん気味の上条の右手に触れた炎の巨神は、正直笑ってしまうほど間抜けな音を立てて爆発、四方八方へ吹き飛ばされた。


「な!?」


 その瞬間、ステイル=マグヌスの心臓は確かに一瞬だけ驚きで停止した。

 吹き飛ばされた『魔女狩りの王イノケンテイウス』が、復活しない。重油のように黒い肉片は辺り一面に飛び散ったまま、もぞもぞとうごめくのが精一杯のようだった。


「ば、か────な。なぜ、! 僕のコピー用紙ルーンはまだ死んでないのに……ッ!」

「インクは?」


 上条当麻の声がステイルの耳まで届くのに、五年はかかるかと思った。


「コピー用紙は破れなくっても、水にれりゃインクは落ちちまうんじゃねーか?」上条は、むしろのんびりした調子で、「……ま、それでも一つ残らずつぶす事はできなかったみてえだが」


 もぞもぞと動く『魔女狩りの王イノケンテイウス』の破片。

 スプリンクラーが生み出す人工の雨が降り注ぐたびに、黒い肉片が一つ、また一つと空気に溶けるように消えていく。まるで建物中にり付けたコピー用紙のインクが一つ一つ雨に溶けていき、どんどん力を失っていくように。

 一つ一つ肉片が消えていき……ついには最後の一つまで、溶けるように消えていく。


「い、のけんてぃうす……『魔女狩りの王イノケンテイウス』!」


 魔術師の言葉は、まるで一方的に切られた電話の受話器に叫ぶような声だった。


「さて、と」


 たった一言。上条の言葉に、魔術師は体全体をビクンと震わせた。

 上条当麻の足が一歩、ステイル=マグヌスの元へと踏み出される。


「い、の……けんてぃうす」


 魔術師は告げる。───けれど、世界は何も応答しない。

 上条当麻の足がさらに、ステイル=マグヌスの元へと歩き出す。


「いのけんてぃうす……イノケンティウス、魔女狩りの王イノケンテイウス!」


 魔術師は叫ぶ。────けれど、世界は何も変化しない。

 上条当麻の足がついに、ステイル=マグヌスの元へ弾丸のように駆け抜ける。


「ァ、─────灰は灰にAshToAsh塵は塵にDustToDust吸血殺しの紅十字SqueamishBloodyRood!」


 魔術師はついにえた。けれど、炎の巨神はおろか、炎の剣さえ生まれなかった。

 上条当麻の足はそして、ステイル=マグヌスの懐まで飛び込み、さらに奥へと突き進み、

 こぶしを、握る。

 何の変哲もない右手。相手が『異能の力』でない限り、何の役にも立たない右手。不良の一人も倒せず、テストの点も上がらず、女の子にモテたりする事もない、右手。

 だけど、右手はとても便利だ。

 何せ、目の前のクソ野郎を思う存分ぶん殴る事ができるんだから。


 かみじようこぶしが魔術師の顔面に突き刺さる。

 魔術師の体は、それこそ竹とんぼのように回転し、後頭部から金属の手すりへ激突した。

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