第二章 奇術師は終焉を与える The_7th-Egde. ②

 だが、ドアはびくともしなかった。律儀にもこんな時まで上条は『不幸』らしく、足の親指の辺りでグキリと嫌な音が鳴り響いた……ような気がした。


「~~~ッ!!」

「はいはいはーい、対新聞屋さん用にドアだけ頑丈なんですー。今開けますよー?」


 素直に待ってりゃ良かった、と上条が涙目で思っていると、ドアががちゃりと開いて緑のぶかぶかパジャマを着た小萌先生が顔を出した。のんびりした顔を見ると、位置の関係でインデックスの背中の傷は見えていないようだった。


「うわ、上条ちゃん。新聞屋さんのアルバイト始めたんですか?」

「シスター背負って勧誘する新聞屋がどこにいる?」上条は不機嫌そうに、「ちょっと色々困ってるんで入りますね先生。はいごめんよー」

「ちょ、ちょちょちょちょっとーっ!」


 ぐいぐい横に押される小萌先生は慌てて上条の前に立ちふさがるように、


「せ、先生困ります、いきなり部屋に上がられるというのは。いえそのっ、部屋がすごい事になってるとか、ビールの空き缶が床に散らばってるとか灰皿の煙草たばこが山盛りになってるとか、そういう事ではなくてですね!」

「先生」

「はいー?」

「……おれが今背中に抱えるモノ見て同じギャグが言えるかどうか試してみろ」

「ぎゃ、ギャグではないんですー……って、ぎゃああ!?」

「今気づいたんかよ!」

かみじようちゃんの背中が大っきくてしてるって所まで見えなかったんです!」


 突然の血の色にあわあわ言ってるもえ先生をぐいぐい横に押して上条は勝手に部屋へ入る。

 なんていうか、競馬好きのオッサンが住んでそうな部屋だった。ボロボロのたたみの上にはビールの缶がいくつも転がり、銀色の灰皿には煙草たばこすいがらが山盛りにされている。一体何の冗談か、部屋の真ん中にはガンコ親父がひっくり返しそうなちゃぶ台まであった。


「……なんていうか。ギャグじゃなかったんですね、先生」

「こんな状況で言うの何ですけど、煙草を吸う女の人は嫌いなんですー?」


 そういう問題じゃねえと見た目十二歳の担任教師を眺めながら上条は床に散らばるビール缶を適当にばして場所を空ける。ボロボロの畳の上、というのは少し気が引けたが、いちいちとんを出している余裕もない。

 背中の傷が床に触れないように、上条はインデックスをうつ伏せに寝かせた。

 破れた服の布が邪魔で直接傷口が見える事はないが、赤黒い染みが重油のようにあふれている。


「き、救急車は呼ばなくって良いんですか? で、電話そこにあるですよ?」





 もえ先生がブルブルと震えながら部屋の隅を指差す。か黒いダイヤル式の電話だった。


「────出血に伴い、血液中にある生命力マナが流出しつつあります」


 ギクン、と。かみじようと小萌先生は反射的にインデックスの顔を見た。

 インデックスは相変わらずたたみの上に手足を投げ出して倒れたままだ。だが、倒れたまま、まるで壊れた人形みたいに顔を横倒しにしたまま、インデックスは静かに目を開けている。

 それはあおざめた月の光よりも冷たく、時を刻む時計の歯車よりも静かな。

 人間としてありえないほどかんぺきな、『冷静』なるひとみだった。


「──警告、第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を超えたため、強制的に『自動書記ヨハネのペン』でめます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の身体からだは必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」


 小萌先生はぎょっとしたようにインデックスの顔を見た。

 無理もないと上条は思う。これで二度目になるが、どうしてもこの声に慣れる事はできない。


「さて……、」


 上条は小萌先生の顔を見て考える。

 この状況でいきなり『魔法使ってください先生!』などと頼んだら『この非常事態に魔法少女ごっこですか上条ちゃん! 先生はそんなとしじゃありません!』とか言われるに決まってる。

 さて、一体どう説得すれば良いものやら。


「ふむ。先生先生、非常事態なんで手短に言いますね。ちょろっと内緒話、こっちくる」

「はい?」


 こいこい、と上条が小犬を呼ぶように手を振ると、小萌先生は警戒心ゼロで近づいてくる。

 ごめん、と上条は一応口の中でインデックスに謝って、

 破れた布をめくって、隠されていた醜い傷口を一気にさらけ出した。


「ひぃっ!?」


 ビクンと小萌先生の体が震えたのも、無理はない。

 布をめくった上条自身がショックを受けるほどのひどい傷だった。腰の辺りから横一線に、まるで段ボールにじようを当ててカッターで切り込みを入れたような傷。赤黒い血の奥に、ピンク色の筋肉や黄色いぼう、果ては白く硬い────背骨のようなものまで見えた。

 傷口が真っ赤な口ならば、周囲の唇はプールの後みたいに真っ青に変色している。

 ぐっ……、と眩暈めまいを殺しつつ、上条は血にれた布を静かに下ろす。

 傷口に布が触れても、インデックスの氷のような瞳はピクリとも動かなかった。


「先生」

「へ? ひゃい!?」

「今から救急車、呼んできます。先生はその間、この子の話を聞いて、お願いを聞いて……とにかく絶対、意識が飛ばないように。この子、服装通り宗教やってるんで、よろしくです」


 気休め、なんて言葉を使えば『魔術』なんて『ありえないもの』も頭から否定しなくなるだろう。とにかくもえ先生にとって重要な事は『適切な傷の手当』ではなく、『無理矢理にでも会話を続ける事』にすり替えられたのだから。

 実際、小萌先生は顔面そうはくなまま、超真剣にこくこくうなずいている。

 ……唯一の問題は、かみじようが外で時間をつぶさなくてはならないという事だ。


『魔術』が終わる前に救急車を呼んでしまうと、その時点で『気休め』が中断されてしまう。つまり救急車は呼んではいけないのだ。

 けど、それは『外へ出なければならない』理由にはならない。何なら部屋の黒電話で一一七にでも電話して、自動音声相手に救急車でも呼ぶ演技をすれば良いだけなんだから。

 問題なのは、そこではない。


「なぁ、インデックス」上条は、倒れたままのインデックスにそっと話しかける。「なんか、おれにやれる事ってないのか?」

「───ありえません。この場における最良の選択肢は、あなたがここから立ち去る事です」


 あまりにも透明で真っぐな言葉に、上条は思わず右手のこぶしを痛くなるほど握り締めた。

 上条に、やれる事なんて何もない。

 この部屋にいれば、それだけで回復魔法を打ち消してしまう『右手』があるから。


「……じゃ、先生。俺、ちょっとそこの公衆電話まで走ってきます」

「て、……え? 上条ちゃん、電話ならそこに─────────」


 上条は小萌先生の言葉を無視してドアを開け、部屋を出て行く。

 自分自身に、思いっきり奥歯をみ締めながら。

 上条は夜の街を走る。

 神様の奇跡システムでも打ち消せるくせに、だれ一人守る事もできない右手を握り締めながら。


 上条とうが部屋を出て行くと、インデックスはあおざめた唇を小さく動かした。


「───現時刻は、日本標準時間で何時ですか? それと、日付もお願いします」

「七月二〇日の午後八時半ですけどー?」

「───……時計を見ていないようですが、その時刻は正確なのですか?」

「そもそも私の部屋に時計はないですよ? 先生の体内時計は秒刻みなので問題ないのです」

「───……」

「そんな疑うほどの事じゃないですけどねー。競馬の騎手ジヨツキーなんかは一〇分の一秒刻みの体内時計を保有しているという話だし、一定の食生活と運動のリズムで調節できるんですよ?」


 キョトンという感じで答える小萌先生は、能力者ではないもののやっぱり学園都市の人間だった。街の外の人間とは、どこか医学や科学面の常識の感覚がズレているのだ。

 インデックスはうつ伏せに倒れたまま、チラリと目だけ動かして窓の外を見る。

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