インデックスの両目が見開かれた。
その小さな唇は何かを呟こうと必死に動くが、言葉は何も出てこない。
「見くびってんじゃねえ、たかだか一〇万三〇〇〇冊を覚えた程度で気持ち悪いとか言うと思ってんのか! 魔術師が向こうからやってきたらテメェを見捨ててさっさと逃げ出すとでも考えてたのか? ざっけんなよ。んな程度の覚悟ならハナからテメェを拾ったりしてねーんだよ!」
上条は口に出しながら、ようやく自分が何にイラついているのかを理解した。
上条は単にインデックスの役に立ちたかった。インデックスがこれ以上傷つくのを見たくなかった、それだけだった。なのに、彼女は上条の身を庇おうとしても、決して上条に守ってもらおうとはしない。たったの一度さえ、上条は『助けてくれ』という言葉を聞いた事がない。
それは、悔しい。
とてもとても、悔しい。
「……ちったぁ俺を信用しやがれ。人を勝手に値踏みしてんじゃねーぞ」
たったそれだけの事。たとえ右手がなくても、ただの一般人でも、上条には退く理由がない。
そんなもの、あるはずがない。
インデックスはしばらく呆けたように上条の顔を見上げていたが、
ふぇ、と。いきなり、目元にじわりと涙が浮かんだ。
まるで氷が溶けたようだった。
嗚咽を殺そうと引き結んだ唇が耐えられないようにむずむず動いて、口元まで引き上げた布団にインデックスは小さく嚙み付いた。そうでもしなければ幼稚園児みたいに大声で泣き出すと思うほど、インデックスの目元に浮かんだ涙がみるみる巨大になっていく。
それはきっと、今この瞬間の言葉に対するモノだけではないだろう。
上条はそこまで自惚れていない。自分の言葉がそこまで響くとは思っていない。きっと、今の今まで溜め込んできた何かが、上条の言葉を引き金にして溢れ出してきただけなのだ。
今の今までそんな程度の言葉さえかけてもらえなかったのか、と痛ましく思うと同時に、それでもやっぱり上条はようやくインデックスの『弱さ』を見たような気がして、少し嬉しい。
だが、やっぱり上条は女の子の涙を見ていつまでも喜んでいられるほど変態でもない。
というか、超気まずい。
何も知らない小萌先生が今入ってきたら、迷わず断罪と言われる気がする。
「あ、あーっ、あれだ。ほら、俺ってば右手があるから魔術師なんざ敵じゃねーし!」
「……、けど、ひっく。夏休みの、補習があるって言った」
「…………言ったっけ?」
「絶対言った」
一〇万三〇〇〇冊を一字一句覚える女の子は記憶力が抜群だったらしい。
「んなモンで人様の日常引っ搔き回してゴメンなさいなんて思ってんじゃねーよ。いいんだよ補習なんて。学校側だって進んで退学者を出したい訳じゃねえ、夏休みの補習をサボりゃあ補習の補習が待ってるだけなんだ、いくらでも後回しにしてオッケーなんだってば」
小萌先生が聞いたらそれはそれで修羅場になりそうな言葉だが、まぁ今は放っておく。
「……、」
インデックスは目に涙を溜めたまま、黙って上条の顔を見上げた。
「……じゃあ、何だって早く補習に行かなきゃとか言ってたの?」
「…………………………………………………………………………………………………、あー」
上条は思い出す。そう言えば、あの時は彼女の修道服『歩く教会』を幻想殺しでぶっ壊して素っ裸にした直後で、密室エレベーター級の沈黙が支配していたから、それで……。
「……予定があるから、日常があると思ったから、邪魔しちゃ悪いなって気持ちもあったのに」
「……あ、あっ。あーっ………」
「私がいると……居心地、悪かったんだ」
「……、」
「悪かったんだ」
涙目でもう一度言われたとあってはごまかし切る事は到底不可能だった。
ごべんばばびっ! と上条当麻は勢い良く土下座モードへ移行。
インデックスは病人みたいに布団からのろのろ身を起こすと、両手で上条の左右の耳を摑んで、巨大なおにぎりにでもかぶりつくように頭のてっぺんに思いっきり嚙み付いた。
六〇〇メートルほど離れた、雑居ビルの屋上で、ステイルは双眼鏡から目を離した。
「禁書目録に同伴していた少年の身元を探りました。……禁書目録は?」
ステイルはすぐ後ろまで歩いてきた女の方も振り返らずに答える。
「生きてるよ。……だが生きているとなると向こうにも魔術の使い手がいるはずだ」
女は無言だったが、新たな敵よりむしろ誰も死ななかった事に安堵しているように見える。
女の歳は十八だったが、十四のステイルより頭一つ分も身長が低かった。
もっとも、ステイルは二メートルを超す長身だ。女の身長も日本人の平均からすればやはり高い。
腰まで届く長い黒髪をポニーテールにまとめ、腰には『令刀』と呼ばれる日本神道の雨乞いの儀式などで使われる、長さ二メートル以上もある日本刀が鞘に収まっている。
ただし、彼女を『日本美人』と呼ぶのは少し抵抗があるだろう。
格好は着古したジーンズに白い半袖のTシャツ。ジーンズは左脚の方だけ何故か太股の根元からばっさり斬られ、Tシャツは脇腹の方で余分な布を縛ってヘソが見えるようにしてあり、脚にはヒザまであるブーツ、日本刀も拳銃みたいな革のベルトに挟むようにぶら下げてある。
こうして見ると西部劇の保安官が拳銃の代わりに日本刀を下げているようにも見える。
香水臭い神父姿のステイルと同様、まともな格好とは思えなかった。
「それで、神裂。アレは一体何なんだ?」
「それですが、少年の情報は特に集まっていません。少なくとも魔術師や異能者といった類ではない、という事になるのでしょうか」
「何だ、もしかしてアレがただの高校生とでも言うつもりかい?」ステイルは口に咥えて引き抜いた煙草の先を睨んだだけで火をつける。「……やめてくれよ。僕はこれでも現存するルーン二四字を完全に解析し、新たに力ある六文字を開発した魔術師だ。何の力も持たない素人が、裁きの炎を退けられるほど世界は優しく作られちゃいない」
いくら禁書目録からの助言があったとして、それを即座に応用し戦術を練り上げる思考速度。さらには正体不明の右手。アレがただの一般人ならまさしく日本は神秘の国だろう。
「そうですね」神裂火織は目を細め、「……むしろ問題なのは、アレだけの戦闘能力が『ただのケンカっ早いダメ学生』という分類となっている事です」
この学園都市は超能力者量産機関という裏の顔を持つ。
五行機関と呼ばれる『組織』に、ステイルや神裂は禁書目録の事を伏せるとはいえ、事前に連絡を入れて許可を取っていた。名実ともに世界最高峰の魔術グループでさえ、敵の領域では正体を隠し続ける事は不可能と踏んだからだ。
「情報の……意図的な封鎖、かな。しかも禁書目録の傷は魔術で癒したときた。神裂、この極東には他に魔術組織が実在するのかい?」
ここで彼らは『あの少年は五行機関とは別の組織を味方につけている』と踏んだ。
他の組織が、上条の情報を徹底的に消して回っていると勘違いしたのだ。
「……この街で動くとなれば、何人も五行機関のアンテナにかかるはずですが」神裂は目を閉じて、「敵戦力は未知数、対してこちらの増援はナシ。難しい展開ですね」