薄暗い部屋の中、あまり似ていない親子は揃って小さく息をついた。
南向きの大きな窓。
ここに引っ越してきてからおよそ六年の間、二人が暮らす小さな借家は、南からの明るい日差しに採光の一切を頼ってきた。北に玄関、東西には数十センチの距離に隣家、南の方角にしか窓がないのだ。とはいえ日当たりは超良好、日が昇ってから暮れるまでの間は照明をつける必要もなかった。特に午前中の光は眩く、二人分の弁当を作る制服姿の竜児を、疲れ果てて眠る泰子を、雨の日以外はいつだって贅沢に照らし続けてくれていた。
しかしそれは、去年までの話。
「……でっけえマンション様だねえ……」
「どんな奴が住んでるんだろうな。……電気、つけるか」
去年、この家の南の窓からほんの数メートルの距離に、地上十階建ての超豪華仕様マンションが建設されたのだ。当然ながら日差しはまったく入らなくなり、竜児は幾度となく狂おしい苛立ちに悩まされた──洗濯物は乾かないし、畳の隅は湿気を吸ってぶくぶくと膨れて浮き上がる。カビも生える。結露もひどい。壁のクロスの端が剥がれてきているのも湿気のせいに違いない。賃貸なのだから落ち着けよ、と言いたくもなるが、神経質な気のある竜児には、住環境が不潔になることがどうしても許せなかった。
白い煉瓦が貼られた豪華マンションを見上げ、それでも貧しい二人はただ口を開いて肩を寄せ合うことしかできない。
「ま、別にいいんだけどね~。やっちゃんはどうせ、午前中は寝てるしね~」
「文句をつけたところでどうなるわけでもないしな……家賃も五千円、安くなったしな」
台所からスプーンを取って来て泰子に放ってやり、竜児はさて、と頭を掻いた。親子の団欒などしている場合ではない。そろそろ家を出る時間だ。
学ランを羽織り、縦にばかり成長中の身体を丸めてソックスを穿く。そして持っていくものの確認をしたあたりで、わずかな胸の高鳴りを意識した。
そうだ。今日から新学期。
始業式をして、そして──クラス替え。
イメージチェンジには失敗したが、それでも憂鬱なばかりではない。希望か期待か、とにかくそんな名称で呼ばれるべき淡い感情も、確かに竜児の腹をくすぐっている。それが顔に出るタイプではないのだが。
「……行ってくる。ちゃんと戸締りして、パジャマに着替えろよ」
「あ~い。あっ、ねえねえ、竜ちゃん」
布団に転がったまま、泰子はスプーンを奥歯で噛んで子供のように微笑んだ。
「今日の竜ちゃん、なんかいつも以上にビッとしてるねえ! がんばってねん、高校二年生! やっちゃんは未体験のゾーンだ」
泰子は竜児を出産するために一年生で高校を中退してしまい、高校二年生の世界を知らない。一瞬竜児も感傷的な気分になって、
「……おう」
ちょっと笑い、片手を上げる。自分なりの母への感謝の気持ちのつもりだった。だが、それが仇になった。泰子はきゃあん! と悲鳴を上げ、ゴロゴロと激しく転がって、その一言をついに放ったのだ。放ってしまったのだ。
「竜ちゃんかっこい~! パパにどんどん似てくるねえ~!」
「……っ!」
──言われた。
無言で玄関のドアを閉じ、竜児は思わず天を仰ぐ。視界がグルグルと回転し、足元から深い渦に飲み込まれていくかのような──いやだ。いやだいやだ、やめてくれ。
それは、それだけは、絶対に言われたくない一言だったんだ。
特に、今日みたいな日には。
パパに似ている。
……その事実がどれほど竜児を悩ませているか、泰子はまったく理解できないらしい。あんな雑誌を買って、『ふんわりバングス』なんて奴を試してしまってみたりしたのも、すべてはそれが原因だったというのに。
自宅から徒歩圏内にある高校に向かいつつ、竜児はむっつりと顔を歪めた。それでも歩みは大股でまっすぐ、速度は風を切るぐらい。
ため息をつき、無意識に前髪を指先で引っ張る。目元を隠そうとする、竜児の癖だ。そう──悩みは目元にあった。
悪いのだ。
視力が、じゃない。
目つきが。
ここ一年で急速に男臭くなってきた顔立ちは、絶世の美少年ではないかわりに、人間離れもしていない。まあ、一応、悪くはないはずだ。……誰もそう言ってはくれないが、少なくとも自分ではそう思っている。
だけど目つきがすこぶる悪い。シャレにならないぐらいにやばい。
釣り上がっている、三白眼である、そういう基本は当然押さえつつ、さらに眼球そのものが大きくて、青みがかった白目の部分がギラギラと強烈な光を放っている。色の薄い黒目は小さく、見る対象を斬り殺そうとしているみたいに鋭く動く。竜児の意志とは無関係に、目が合った相手を一瞬にして狼狽させることができる目であるらしい。……わかる。よくわかる。自分でだって、集合写真の自分を見て「一体こいつはなにをこんなに怒っているんだ……はっ、俺か」とうろたえてしまったぐらいなのだから。
ついでにいえば、ぶっきらぼうな性格のせいで、物言いも少々乱暴かもしれない。それに神経質なところがあって、冗談や軽口とも縁のないタイプ、かもしれない。あんな泰子と二人暮しで、無邪気さや素直さも失ってしまっているかも知れない……なにしろ実質的な保護者は自分の方だと自負しているから。
でも、だからって──
『な、なんだ高須、先生に反抗するのか!? だ、誰か、さすまたを! さすまたをーっ!』
──違います。提出物を忘れてしまったので、それを謝りに来ただけなんです。
『ごごごごごめんなさいぃ、わざとじゃないんだ、あいつが押したからぶつかっちゃってええええ』
──肩が触ってしまったぐらいで誰が怒ると言うんだ。
『高須クンって中学の時、他の中学の卒業式に乗り込んでいって放送室を占拠したらしいよ』
──俺は腐ったみかんじゃない。
「……また、誤解を解くところから始めないといけないのか……」
蘇った苦い思い出に、思わずため息が漏れてしまう。
成績だって悪くはない。遅刻、欠席はゼロだ。人を殴ったことどころか、本気で口論したことさえもない。要するに、高須竜児はごく普通の少年でしかない。それなのに目つきが悪いせいで、ただそれだけのことで(あとはもしかしたら、たった一人の親が水商売だということもあって)、人はみな自分をものすごい不良だと思い込む。
一年も同じクラスで付き合えば、たいていそんな馬鹿馬鹿しい誤解も解けるのだが──一年という時間は決して短いものじゃない。特に、高校生にとっては。それなのに、今日からまたやり直しだ。イメージチェンジにも失敗したし。
クラス替えは楽しみでもあった。……同じクラスになりたい相手も、いた。でも、これからの苦難について一度思いを馳せてしまうと、無邪気な期待はしゅるしゅると半分ぐらいに縮んでしまう。
それもこれも、余計な一言を吐いてくれた泰子の……いや、違うか。すべては余計な遺伝子を刻みつけてくれた父親のせいだ。
『パパはね、天国にいるのお~。かっこいい人だったわあ、ビッと剃り込み入れたオールバックでいっつもエナメルの超尖ったクツを光らせててねえ……首にはこーんなぶっといゴールドのチェーンしてソフトスーツでロレックスでえ、そんでおなかにいつも週刊誌入れてるのお~。それなあに? ってやっちゃんが訊いたら、いつ刺されてもいいように、って答えたのお~ああ~しびれるう~』
うっとり語る泰子の表情を思い出す。そして、たった一枚残された写真の中の父を。
父は、泰子の言葉どおりの姿をしていた。
足を広げてふんぞり返った立ちポーズ。小脇に抱えたセカンドバッグ。白のスーツ、ド派手なガラの開襟シャツ、両手にはいくつもの金の指輪が光り、片方の耳にはダイヤのピアス……そして、『ああン?』と顎を突き上げて、こちらに視線をくれていた。片手で今より若い母の乳を揉んでいた。母は大きなおなかを抱えて「みゃは☆」と能天気に笑っていた。父の前歯は金歯だった。