ほんとは優しくて生真面目で、素人さんに手を出したことは一回もないのお~、などと泰子は言うが、本当に優しくて生真面目な人はいわゆるヤクザさんにはならないし、多分ずっと年下の高校生を妊娠させたりもしない。第一その──その、鋭い目。
正面から睨まれたら、財布ぐらいならポンと渡して穏便にすませていただきたくなるような、目。理不尽な暴力や脅しの手段そのものである視線。それと同じものが、この自分の顔には嵌まっている。……不意に竜児は思う。自分のことを誤解するな、という方が無理な注文なのかもしれない。自分だって記憶のない父のことを、こんなふうに思うのだから。
ちなみに、父は恐らく生きているのだろう。泰子の言い分によると、手下を逃がすために蜂の巣になって横浜の港に沈んだ、らしいのだが、墓がない。仏壇もない。遺骨も遺品も位牌もない。そんな事件の記録もない。そして酔っ払った泰子はたまに、『パパが急に帰ってきたら、竜ちゃんどうするう? ふふふふ、なあんてねん』と意味ありげに笑うのだ。
多分、父は、冷たい塀の中で長いお勤めをしている。そんな気がする息子であった。
と、
「おっ、高須! おはよう、いい朝だな!」
背後からかけられた声に気付き、振り返って手を上げた。
「おぅ北村、おはよう」
──仕方がないか。竜児は思い、友人が追いつくまで足を止めて待つ。傍目に見れば目をギラつかせて「あの野郎しめてやる!」という雰囲気だが、もちろんそうではない。
ただ、穏やかに思っていただけなのだ。
誤解されても仕方がない。誤解されたら、解けばいい。時間がかかったって、こうやっていつかはわかってくれる奴もいるんだから。そんなのは嫌だけど……そうするしかないのだから、そうするしかない。
青空を仰いで、眩しさに目を眇めた。今日は快晴、風もなし。散り際の桜が音もなく舞い散り、竜児の髪に優しく降りた。
痛々しいコンプレックスは捨てられもせずに抱えたまま、前夜磨いたローファーで再び一歩を大きく踏み出す。
今日は見事な始業式日和。
***
うわ。高須くんと同じクラスかよ。さっすが迫力あるよな。ちょっとこわいよな。誰か話しかけてこいよ。いや、ムリだって。おまえ行けよ。って、ちょっと押すなよ。……云々。
(……なにを言われたって、今の俺は気にしたりなどしない)
自分を遠巻きに見ている新しいクラスメートたちの視線を、竜児は超然とした態度で受け止めていた。椅子に腰掛けたままわずかに背を反らし、鋭い視線を遠くに投げて乾いた唇をそっと舐める。足がカタカタいっているのは、無意識の貧乏ゆすりだ。傍から見れば、それはか弱い獲物を求めて苛立つ肉食獣の姿が如し。だが。
「相変わらず、おまえのことを変に誤解をしている奴がいるみたいだな。まあ、そのうち収まるだろう。俺も一緒だし、他にも元A組の奴が結構混じってるし」
「ああ。いいんだ別に、気にしちゃいない」
今年も同じクラスになれた親友・北村祐作に、竜児は薄い笑顔で答える。言っておくが、上機嫌なのだ。決して獲物を前にして、惨い期待に舌舐めずりしているのではない。本当ならばいっそ口が裂けるほどの満面の笑みで、椅子からロケットで飛び立ちたいのだ。
それはもちろん、北村と同じクラスになれたことが嬉しいからではない。そんなのはせいぜい「今年も一緒だな、北村」ニコリ、程度だ。
飛び立ちたいほど嬉しいのは──
「や、北村くん! 今年は同じクラスだね!」
──なんたることだ。
「ん? おお、櫛枝もC組だったのか!」
「あれ、今気がついたの? もー冷たいなあ、せっかくの新学年なんだから、名簿ぐらいちゃんと見てよね」
「すまんすまん、奇遇だな。今年は部長会議がラクでいい」
「あはは、そーだね! あ、高須くん……だよね? 私のこと、覚えてるかな? 何回か北村くんの周辺でニアミスしてるんだけど」
「……」
「あ、あれ? 高須くんでいいんだよね?」
「……あ、う……く、」
それはあまりに唐突な、女神来襲の現場だった。
竜児の目の前で、明るい笑顔が太陽そのものみたいに眩く弾ける。失われた南の窓から差す日差しみたいな暖かさで、視界が一瞬にして明るく照らし出されてゆく。振りこぼれる光の粒子がまとわりついて、竜児はもはや目も開けられない。
「……櫛枝実乃梨、だろ」
ああ、なのになのになのに──! 自分の放った声のあまりにつっけんどんな響きに、竜児は叫び出したくなる。
なんでこんな返事しかできないんだ、なんでもっと気の利いたことを──
「あらあらまあ! フルネーム覚えてくれてたんだ、嬉しいかも~! ……っと、いけねえ、あっちで呼ばれてる。そんじゃね、北村くん。放課後、今年一発目の新二年生ミーティングだよ。くれぐれも忘れないように! 高須くんもまたね!」
クルリ、と向けられた背に、竜児は限界ぎりぎりの愛想を……手をわずかに、上げてみせた。だが遅い、もはや彼女に見えちゃいないだろう。
けれど。
(嬉しい、って言った……またね、って言った……)
櫛枝実乃梨が。
(嬉しい、って言った……またね、って言った……)
念願かなって同じクラスになれた櫛枝実乃梨が。
(嬉しい、って言った……またね、って言った……)
俺のことを、俺とのことを。
(嬉しい、って言
「高須?」
「……おぅっ」
突如至近距離から北村に迫られ、竜児は椅子ごとのけぞった。
「なにをニヤニヤしておるのだ?」
「い、や……別に」
そうか、とメガネを中指で押し上げる北村に、竜児はちょっとした感嘆を禁じえない。自分のニヤニヤを感知できる人間は、おそらくこの世でこいつぐらいだ。
そして、感嘆に値することはもうひとつ。
「……北村。おまえは、なんていうか……その……女子(=櫛枝さん)と喋るのが、上手いよな」
「へ? なぜだ?」
メガネ越しに見開かれた北村の目には、謙遜ではなく、純粋な驚き。どうやら本当に自覚がないのだ。鈍感野郎を目の前にして、竜児は思わず二の句を飲み込む。
今の櫛枝実乃梨との軽妙な会話は十分に『上手い』と──いいや、今だけではない。北村は一年の頃から、同じソフトボール部に所属する櫛枝実乃梨といつもいい感じに会話をしていた。竜児はいつもその傍らで、おこぼれの微笑みやおこぼれの挨拶を、涙ぐましい努力で拾い続けていた。サッカーで言うならリベロだった。だがまだ一度もオフェンスに参加したことはない。
そもそも「櫛枝実乃梨さんはかわいい、好きだ、仲良くなりたい」と竜児が思うようになったのも、北村と楽しげに会話をしているさまをすぐそばで見ていたのがきっかけだったのだ。
クルクル変わる明るい表情。
しなやかな身体、おおげさな身振り。
屈託のない笑顔。曇りのない声。
誰もが恐れる自分の前でも彼女は最初からおおらかにほがらかで、一切態度を変えたりしなかった。
そんな櫛枝実乃梨の、すべて。
竜児にとっては彼女を形作るすべての要素が、太陽の欠片ででもできているかのように輝いて見えていた。健全で、まっすぐで、なにより正しい女子の姿だと思えたのだ。
……それなのに、
「馬鹿を言うな、俺が女子と喋るのが上手いなんてわけがない。女子たちに、俺がなんて呼ばれているかおまえも知らないわけじゃないだろう?」
竜児は我知らず深い息をつく。
羨ましくて羨ましくて、こっちは北村の会話の様子を見ているだけで目から血が出てしまいそうだというのに。しかし北村はさらに続けて、
「女子なんて俺は苦手だよ。男女交際なんて一生できる気がしない」
この発言だ。
「……そんなこと、ねえと思うけどな……俺は」
眩しい貴族様を見上げ、それ以上の言葉は飲み込むことにした。いくら言ったって、こいつにはきっと理解できない。こっちが惨めな気分になる一方だ。