確かに北村は、女子たちに『まるおくん』と呼ばれている。某国民的有名漫画の糞真面目な優等生キャラにそっくりだから、という理由で。度のきついメガネ、生真面目な性格、抜群の成績、軽薄な流行とはあえて真逆を行こうとする普通とは大いにズレた価値観。なにかの拍子に「ズバリ」などと言おうものなら、クラスが軽く沸くほどにそっくりだ。ついでに言えば去年はクラス委員長だったし、生徒会の副会長にもなってしまっているし、ソフトボール部の新部長にも内定しているという。そんな奴は、確かに冗談のネタになってしかるべきだった。
ただし、決して顔立ちは悪くない。……いやむしろ、よく見れば意外なほどに綺麗に整っていると言える。さらに加えて裏表のない性格で、冗談だって通じる男で、嫌われる要素などそこにあろうわけもない。だからこそ女子にとってはからかいの対象ではあっても、嫌悪の対象とはなり得ないのだ。
ああそうだとも──竜児にはわかる。北村は、なんだかんだ言って女子に好かれている。櫛枝実乃梨にだけではない。他の女子たちとも普通に会話をしているし、親しげに「あ~、今年もまるおと一緒だ~」なんて声をかけられているし、「なんだ、不満か?」などと軽妙に返事もしているし。
そのザマで、どの口が女子は苦手だなんて言う。この自分のように、嫌われてもいないくせに。そんなことを思ったそばから、
「わ……こわ……」
ほら見ろ。まただ。
漏れ聞こえた声を、竜児は俯いてやり過ごすことにする。さっきまでは櫛枝実乃梨と同じクラスになったことで舞い上がって、なにを言われても平気な気分だったのだが、
「やっぱすげえな……ただ者じゃねえって気配がするよ」
「ああ、あの目つき。気をつけろ、機嫌を損ねたら消されるぞ」
……すっかり魔法は解けてしまったらしい。悪気はないのだろうヒソヒソ声が、いつにも増して、効いてくる。
新担任が来るまでは、トイレにでも籠っていた方が精神衛生上いいかもしれない。そう思って席を立ち、通路に出たところで、ぼふんと腹に軽い衝撃があった。
「っつ……?」
なにかにぶつかったようなのだが、目の前にはなにもない。不思議に思い、竜児はキョロキョロとあたりを見回す。しかし視界に入るのは、
「……げげえ……さすが高須くん……先手を打って動いたか」
「早くも頂上決戦かよ……名簿見た時からこのクラスはやべえって思ってたけど」
ヒソヒソと囁き交わす、新しいクラスメートの顔ばかりだ。自分の目つきのことをあれこれ言われているのだろうか。しかしそれにしても、
「……真の番長決定戦、だな……」
「いきなり最高のカードが実現しちゃったよ……」
どうにも様子がおかしくはないか。頂上決戦? 番長? 最高のカード? 一体なんの話なんだ? 首をひねって状況を理解しようと──その時。
「……ひとに、ぶつかっておいて、謝ることもできないの……?」
どこからか静かな声が聞こえてきた。
極端に感情の抑えられた、平板な、しかし爆発寸前のなにかを押し殺しているかのような、とても奇妙な語り方だ。
声の主の姿は、ない。
「え……?」
ほんの少しトワイライトな気分になって、竜児はゆっくりと右手を見た。誰もいない。左手を見た。誰もいない。恐る恐る、一番怖い上を見た。……よかった、誰もいない。
「ということは……」
果たして、それはそこにいた。
目線のずっと、ずっと下だ。竜児の胸よりもっと低いあたりに、そのつむじは存在していた。
第一印象は『お人形』だ。
とにかく小さかった。小さくて、長い髪がふんわりとその身体を覆っていて、手乗りタイガー。
「……手乗りタイガー?」
唐突に思考に割り込んできた謎めく言葉を、思わずそのまま口にしていた。離れたところで誰かが呟いたのが耳に入ってしまったらしい。
手乗りタイガー。
それってつまり。
「誰が……」
目の前で俯いているお人形さんのことなのか? 手乗りってのはまあいいとして、この子のどこがタイガー? ……などと、
「……手乗りタイガー、ですって?」
悠長に考え込んでいる場合などではなかったのだ。『それ』はわずかに顎を上げ、その二つの眼球が──
「──!」
──一秒の、三倍ぐらい。
無音状態だと思ったのは、しかし竜児の思い違いだったらしい。
爆弾みたいに炸裂した真空の一瞬が通り過ぎて、ざわめきが耳に戻ってくる。気がつけば、尻餅をついている。竜児だけではない。比較的近くにいた数人の奴らも一緒になってへたりこんであわあわ言っている。這って逃げようとしている奴もいる。
なにが起きたのか。
わかっている。
なにも起きてはいない。
ただ──ただ、この、目の前の彼女が。
「……鬱陶しい奴……」
彼女が、二つの大きな眼球で、竜児を睨みつけただけ。それだけ。
たったのそれだけのことに、そのほんの数秒の緊迫に、竜児は圧倒されていた。圧倒されて、頭の中が真っ白になって、全身が絞り上げられ、緊縛されたように動けなくなり、そのまま文字どおり卒倒したのだ。
〝視線〟に、もっと正確にいえばそれが孕んだ迫力に、吹っ飛ばされて尻から崩れ落ちたのだった。
モノが違いすぎる。格が、違いすぎる。完全に負けた。目つきの悪さでなら誰にも負けたことのない竜児が、圧倒的な差で負けた。
生まれて初めて理解できた。本物の凶悪な視線には、確かな質量にも似た暴力が──いや、「殺気」が孕むのだ、と。
「……ふん……」
永遠にも思えた数秒の後、ぐっさりと心臓に突き刺さったまま揺らぎもしなかった彼女の視線が、ようやく蔑みを孕んで溶けた。
「竜、ね。……だっさ」
めくれあがったような、薄い花びらめいた唇。放たれた言葉の弾丸は幼い少女のそれのよう。
信じられないほどに小さな手が、ふんわりとした髪を乱暴に払う。柔らかな目蓋に半ば隠され殺気を押し殺したその瞳は、今は人形のガラスの目そのもの。透き通り、なにも映さない虚ろさで竜児に最後の一瞥をくれた。
──かわいいのだ。恐ろしいことに。
ミルク色の頬も、灰色にけぶるような不思議な色合いの長い髪も、華奢な手足も細い肩も、光る瞳を和らげる睫毛も。彼女は致死量の毒を孕んだ飴玉みたいに愛らしい。香りだけで人を殺す、花のつぼみのように可憐。
しかし彼女に睨まれた瞬間、竜児はその瞳に襲い掛かる肉食獣の姿を見ていた。それはもちろんただの幻だが、現実以上のリアルさでもって竜児を数トンの重みで押し倒し、血を震わす声で咆哮し、この喉笛に鼻息をかけていった。おまえなどいつでも殺せる、と。
迫り来る、鋭い爪と巨大な牙。充満する獣臭と血の匂い。小さな彼女の数倍の大きさにふくらんだその幻のイメージは──虎、だった。
「あ、ああ……ああ、ああ、ああ……はいはいはいはい……」
我知らず、竜児はこくこくと頷いた。ポン、とひとつ手を打った。はいはいなるほど、手乗りタイガー。誰が考えたか知らないが、
「……ぴったり、じゃねえか……」
センスを感じる。感服する。
そして彼女は自分を見て、竜、と呟き、蔑んだ。その理由もすぐに知れた。
尻餅をついた拍子にか、それとも幻の虎に引き裂かれたか、学ランの前が開いてしまっている。そしてシャツを透かし、泰子が張り切って買ってきたヤンキーセンス丸出しの「昇り竜Tシャツ」が丸見えになってしまっていたのだった。こんな一層誤解を招きそうな代物、決して着たくて着たわけじゃない。だけど洗濯ローテーションの都合もあるし、どうせ見えるわけもないと思ったし。
妙に恥ずかしくなって、竜児は慌てて前を閉じる。みっともなく床に座り込んだまま、不埒者に乱暴された女子のような仕草で。その目の前をスタスタと横切って行くのは、