周藤 蓮

デスゲーム脱落編

 その瞬間、僕に起きたのは笑ってしまうような不幸の連鎖だった。

 まず索敵から漏れていた鳥型モンスターの突風攻撃が、別なモンスターの群れと戦闘中だった僕を直撃した。想定外の方向からの攻撃で僕は吹き飛ばされることになった。

 次に体勢を立て直そうとした僕の足を、戦闘中だった亜人系モンスターの斧がぶった切った。モンスターが意図してそうしたのではない。パーティーメンバーを狙っていた一撃に、吹き飛ばされてきた僕が割り込んでしまった形だ。

 さらに踏ん張ることもできずに転がった先にはトラップがあった。踏んだ地面が破裂するトラップは、本来さほど悪質なものではない。見た目は派手だがダメージはなく、精々が転んで嫌な思いをする程度だ。戦闘中に踏めば危険だが十分に注意していれば避けられるものである。しかし足を欠損し、高速で転がりながら食らうそれは、普段とは話が違った。

 最後に(あるいは最初に)僕たちはアインクラッドの外縁ギリギリのところにいた。そこでしか取れないクエストアイテムを回収しにきていたのだ。十分に確保していたはずの安全マージンは、想像もしていなかった不幸によって一瞬で失われた。

 つまり僕はド派手に宙を舞って、アインクラッドの外へと放り出された。


『アインクラッドの外に落ちたら死ぬ』


 SAOがデスゲームになった最初の日、誰かが外へと飛び降りて、黒鉄宮にある石碑の名前に横線が引かれてから当たり前に知られている知識だ。

 重力が体を捕らえる。存在しない内臓が浮き上がる錯覚。背筋が総毛立つ。冷や汗が噴き出す。デスゲームの中での戦いよりも、よほどリアルな死の実感が訪れる。


「――――ホノ!」


 サブマスであるノーリッジの声が頭上からした。ギルドで一番の敏捷性を活かして、僕の体を掴もうとしたらしい。

 だが、もう遅すぎた。

 伸ばされたノーリッジの手が遠ざかっていく。

 彼の目が驚愕に見開かれる。

 落ちる。

 死ぬ。

 恐怖よりも前に湧き上がってきたのは、記憶だった。走馬灯というわけでもないだろうが、不意に視線が過去を向くのがわかる。

 落ちていられるのはどれくらいの時間なのだろうか。

 そんな間の抜けた疑問も頭を過ぎるが、きっと大丈夫だろう。少し過去を思い出すくらいの猶予は、多分あるはずだ。



「この階層のレベリング方法はもう確立されてるだろ? なんで今更、探索に行こうなんて話になるんだよ」


 その夜――僕がアインクラッドから落ちる前日の夜、僕とノーリッジは食堂で二人、向かい合っていた。拠点にしている宿屋に併設されたそこは、既に夜の賑わいを抜け、まばらに席が埋まる程度まで空いている。


「経験値効率の悪いことばっか繰り返していると、最前線から置いてかれちまうぞ」


 僕の所属するギルド『スノウルーフ』は一応、攻略組のギルドということになっている。一応という補足がつくのは攻略組の中ではかなり下に位置するため、人によっては中位ギルドに含めることもあるからである。

 そのことについて特に思うことはない。今のメンバーが集まった第五層から今攻略している第五十九層まで、メンバーを増やすことも減らすこともなく戦い続けてきた。その事実が、身の丈に合ったプレイをしてきたことを証明してくれているからだ。

 そしてギルドの方針について僕とノーリッジの二人で話し合うのも、ずっと続く習慣だった。他四人のメンバーは方針決めなどを面倒くさがる人たちばかりだし、そのお陰で自由に采配を振るえることを僕たちは気楽に思っていた。


「むしろ逆だよ」


 と僕はノーリッジに答える。


「経験値稼ぎは重要だけど、この層での最適効率はもう判明している。それに他の探索をしたからって経験値が全く入らないわけじゃない。最適効率から離れた時、どれくらい差が生まれるか。それがわかっているからこそ探索に行くんだ」

「それは『そうしていい理由』であって『そうする理由』じゃないだろ」

「『そうする理由』の方を答えると、ゲーマーはマップ埋めをしたがる生き物だからだよ」


 SAOはデスゲームだ。クリアされるまで解放されることはなく、ゲーム内での死が現実世界での死につながる。

 必然的にプレイヤー――特に攻略組のプレイヤーは最適な効率、最速の進行、そして最大の安全を心がけるようになる。


「最適を辿るっていうことは必然的にマップの全てを見て回りはしないってことだよ。けれど彼らはみんなゲーマーだから、本質的には隅々までマッピングしたい衝動を抱えている」


 ノーリッジはキャラ付けのためにわざわざかけている眼鏡を押し上げた。


「つまり……マップのどこかに攻略組にとって有用な情報が眠っているかもしれない。俺たちはそれを取りに行くってことか?」

「それも少し違う。有用な情報なんて見つかったら困るよ。それを独占するのか、どこかのギルドに知らせるのか、どこまで知らせるのか。どうしたって角が立つ」


 たとえば明日の探索で『今までよりも経験値効率のいい稼ぎ』なんてものが見つかったら、僕は一晩頭を抱えることになるだろう。


「するとなんだ。俺たちは『何も見つからなかった』って結論を求めて探索するのか? そうするとどうなる?」

「簡単な話だよ。その情報を攻略組に安く売れる」

「何も有用な情報は載ってないのに?」

「『僕たちが踏破した範囲に有用なものはなにもない』という事実を売るんだよ。そうすることでみんなは安心できるし、僕たちは彼らと顔見知りになれる。もう知っている顔でもより親密になれる」


 僕は手元の野菜スープを飲んで、一度話に間を作った。

 アバターであっても、脳は自然と飢えを感じる。温かな液体が胃に落ちる偽りの感覚が、偽りの飢えを緩和させ、偽りの満腹感を生じさせた。


「たとえば、誰かがダンジョン内で窮地に陥っている僕たちを見かけた。たとえば、誰かが致命的な初見殺しエネミーの情報を得た。まぁ、後はなんでもいいけど、そういう『もしも』を仮定するでしょ」


 それはこれまでの攻略中に何度となく聞いてきた悲劇だ。いつ僕たちに実際に降りかかってもおかしくない、ありふれた不幸。


「その時、僕たちが助けてもらえるか、情報をもらえるかどうかは、その誰かと僕たちが顔見知りかどうか、友達かどうか次第だよ」

「情報を売るっていうか、恩を売るわけか」

「売るのは顔だよ。いつでも取れる方針じゃないけどね。この層は稼ぎ方法の確立が早かったから。ボス討伐に必要な安全マージンを確保するまでの日数もわかる。だから周囲に置いていかれない猶予がどれくらいあるのかも、割と簡単に見通しが立つ」

「はぁー、なるほどなぁー」


 大げさな仕草でノーリッジは天井を仰いだ。


「相変わらずお前はものの考え方が俯瞰的っていうか、達観しているっていうか……。やっぱそれってあれか。お前が棋士だったっていうのが関係してんのかね」


 その発言こそが、きっと僕とノーリッジが組んでギルドを立ち上げた理由だった。

 SAOのサービスが開始され、茅場かやば晶彦あきひこによってアナウンスが行われるまでの数時間。僕たちはその頃に知り合った。そしてその頃はまだ「現実の話題を出さない」というSAOの不文律が成立するよりも前だった。

《はじまりの街》でだらだらと会話をしていた僕らは、その時に現実について簡単に明かしていたのである。

 僕はC級二組の将棋指しで、ノーリッジはスポーツ用品会社の営業職なんだそうだ。今となっては他人と現実の話題など話せるはずもなく、だから相手の現実を知っている僕らは、二人でいる時なら現実の話題を持ち出せて、それがお互いを少し特別にしていた。


「やっぱりプロ棋士の人は頭のできが違うのかねー」

「僕のことなんて知らなかったのに、何が『やっぱり』なんだよ」

「自慢じゃないけど俺、どんなにすごい棋士の人がSAOに参加してても、顔だけでわかる気はしないわー」


 確かに、今日まで僕を見て「あなたプロ棋士の人ですよね!」と言い出すプレイヤーには会ったことがない。

 そのことをちょっと寂しく思っていたりなんてしない、断じて。


「とにかく、明日からはマップの隅まで埋めていくつもりで、小規模なダンジョンに挑もう。ちょうど目をつけている湖周辺のダンジョンがあって――」

「――あっりゃぁ、ごめんなさーい」


 甲高い声が会話に割り込んできて、僕とノーリッジは同時に顔をしかめた。

 一人の女性プレイヤーが僕たちの方へと近づいてくるところだった。見慣れた顔だ。見慣れたいと思ったことはなかったが。

 ふわふわとボリュームを持つように整えられた赤いショートヘア。体の線を強調するような軽装防具。目鼻立ちは整っているが、隠すこともなく浮かぶ嘲りが台無しにしていた。

 サナギという名前のプレイヤーである。


「そのダンジョンならもう私たちが今日、クリアしちゃいました。狙ってたんですか? 先に潰しちゃったみたいで、本当にごめんなさいね!」

「……あぁ、そう」


 SAOのシステムが露骨に不機嫌そうな表情を僕の顔に表示させる。けれど実際のところ、内心で覚えていた不快感はそれ以上のものだった。


「ホノさんたちが欲しがってた情報、もう手に入れちゃったので! でもホノさんたちが遅いから仕方ないですよねー」


 サナギ、そして彼女がギルマスを務めるギルド『クロノスタシス』は、僕たち『スノウルーフ』のライバルだ。

 もし仮に狩り場を意図的に被せてこちらの効率を落としてきたり、攻略予定だったダンジョンを先回りして潰してきたり、こちらが必要とするアイテムを買い占めてきたりする相手をライバルと呼ぶのならば、という前提のもとでだが。


「ふふふ、ギルマスの動きが遅いと苦労しますよね。ノーリッジさんも、あんまり困ったらうちにきていいんですよ」

「すまん、その予定はないな」


 ノーリッジも言葉少なにそうとだけ答え、眼鏡を押し上げた。

 昔からレベル帯や進行などが何かと被ったのが悪かったのだろう。サナギから僕たちへの敵視はかなり苛烈で、直接的な攻撃以外の大体の嫌がらせは受けてきたといっていい。


「じゃあ、いつでも待ってますから!」


 そういってサナギが宿の階段を上っていく。

『クロノスタシス』のメンバーもそれに続いたが、彼らは気まずそうな顔をして会釈をしていた。彼らも僕たちのことをライバル視くらいはしているのだろうけれど、サナギのようにわざわざ嫌がらせをしてくるほどではない。

 というか、サナギの見せる敵意がやはり異常なのだ。

 一瞬だけ騒々しくなった食堂に、また元の静けさが戻ってくる。


「また絡まれてたのか? 苦労してんねぇ」


 と顔見知りの別ギルドの人物が声をかけてくる。サナギはそれなりに実力者で、顔も悪くない女性プレイヤーだというのに、こうして僕の方に自然と同情が集まる。

 それだけでどれほど理不尽で過剰な嫌がらせを受けてきたかわかるというものだった。

 声をかけてくれた相手に返事をしながら頭の中で予定を組み直す。多分、狙っていたダンジョン攻略を先回りされたのは、この前情報を人づてに集めたからだ。『僕が集めた情報』という情報を得たサナギは、僕の予定を予想して、先回りし始めたのだろう。

 となれば面倒なトラブルの回避のためにも、予定は大幅に変更する必要がある。


「どうするんだ、ホノ」

「よし、決めた。明日はアインクラッドの外縁部のクエストを攻略していこう」



 地面に叩きつけられ、回顧が途切れる。

 エフェクトが飛び散り、一瞬だけ光をもたらす。だがそれはすぐに消え去って、地面にべったりと伏せた僕を押しつぶすように、どこまでも続く暗闇がのしかかってきた。

 微かな酩酊感と、衝撃による手足のしびれ。吐き気がじわじわと上ってくるのに、ゲームの体では吐くこともできず、それがどうにも不快だった。

 つまり……生きている。

 頭の中に無数の疑問と想念が浮かび上がってくる。とりあえず僕はその中で最もどうでもいいものを口にした。


「……もしかして僕が落ちたのって、サナギのせいかよ」


 それからゆっくりと体を引き起こした。別にどこが痛むわけでもないが、今の状況が信じられなかったのだ。アインクラッドの外に落ちたのに、どこかに着地した。素早く動いたら今のこの奇妙な状況が崩れて、再び落下し始めてしまうような気がしていた。

 だが、どうやら夢や幻ではないようだった。

 僕の目に飛び込んできたのは、どこまでも続くゴツゴツとした岩の地面。そして同じくらいに広がっている暗闇。四方を見渡しても他には何も見えない。どこまで続いているのかもわからないが、相当広い空間であることは確かだ。

 光源がないために見通しは酷く悪いが、じっと目をこらすと頭上には天井のようなものが見えた。数メートルは上。地面とは違う、黒い鉄でできた極めて均質な平面である。


「なんだ……どこだ、ここ?」


 アインクラッドから落ちたら死ぬ。それが常識だったはずだ。だがここはどう見ても死後の世界には見えないし、僕もあまり死んだという感じではない。

 次に思い出したのは『デスゲームというのは実は嘘かもしれない』というよくある噂だった。ナーヴギアによって脳を焼かれるところを僕たちは直接は見ていない。だから殺されるというのは嘘で、ゲーム内で死んでもただ解放されるだけで済む。そんな楽観的で、本気で信じるにはあまりにも淡い噂。

 これもすぐに間違いだとわかった。自分の体を見下ろしてみれば、それがSAOのアバターであることは一目瞭然だったからだ。

 モンスターに切り落とされた足はそのままなので、そう長い時間は経過していない。とりあえずポーションを飲んで、HPと欠損の回復を待った。

 HPが完全に回復した辺りで、ようやく事態を確かめる方法があることを思い出した。

 僕は素早く指を振って、ウインドウを表示させた。普通に開いた。フレンドリストへと移動し、目についた名前へとメッセージを送る。

 数秒も待たずに、相手から返信がきた。


『ホノ!?』

「ノーリッジ。連絡は普通につくんだな」

『お前、どうなってるんだ!? 落ちてたよな生きてるのか無事なんだな。アインクラッドの外ってどうなってるんだ!? 生きててよかった、どうなることかと!』


 文面でもわかるほど動揺しているノーリッジを落ち着けるには、数分が必要だった。

 幸いだったのは僕よりも彼の方が慌ててくれたお陰で、彼を落ち着けているうちに僕自身も冷静になれたことだ。


『つまり、整理するぞ。お前はアインクラッドの外に落ちた。つい数分前のことだ。そしてお前は今、どこか知らないフィールドにいる。薄暗い、岩で囲まれたフィールドに』


 画面の向こう側で、顔を覆っているノーリッジの姿が目に浮かぶようだった。


『正直、今でも幽霊からのメッセージとかそういう怪談の類いに見えるな』

「そういわないでよ。事態を把握するに当たって知恵を借りたくて連絡したんだから」

『知恵も何も、まずアレを使えよ。転移結晶。持ってるはずだろ』

「あぁ、それがあったか」


 僕はアイテムストレージから結晶を一つ取り出す。目的地までの転移を可能にするそれを、力強く握った。


「転移、マーテン!」


 結晶が砕け散り……しかし何も起きなかった。

 手の中で確かに転移結晶は砕けたのに、通常なら発生するエフェクトが発生しない。当然、僕の体が別な階層に移ることもない。

 結晶無効化空間?

 一部クエスト中など、結晶が使えない瞬間のことを連想する。けれどそれも違う。ああいった空間ではそもそも結晶が砕けることはない。結晶が砕けた上で転移ができないというのは、無効化空間とはまた違った現象だ。

 それは、何か、致命的な事態を示していることにならないだろうか?

 ひたひたと近寄ってくる感情から目を逸らし、僕は強いて冷静に指を動かした。


「なんか使えないみたいだ」

『使えないってなんだよ!?』

「そうとしかいえないよ。結晶無効化空間ともちょっと違う感じ」

『じゃあ、どうすんだ!?』


 僕は少し考えてから、見えないとわかりつつ首を振った。


「とりあえず一旦、チャットはやめようか。話し合ってる場合じゃない」

『は!? 今、話し合うよりも優先すべきことなんてあるかよ!?』

「あるよ。撤退だ。君たちは今、パーティーメンバーが一人欠けた状態で、まだ攻略が完全じゃない地域にいるんだよ」


 改めて考えると、すぐに連絡をした僕の行動もやや迂闊だった。上階ではまだノーリッジたちが戦闘中の可能性もあった。


「それに現状だと僕もここが何なのか、何もわからない。考える材料もない。モンスターの気配もないし、一通り歩き回ってみるから、そうだな。明日辺りに、また連絡するよ」

『冷静だな、おい! クソ、でも確かにこんな場所で長話だなんてぞっとしないし……』


 ノーリッジが眼鏡を押し上げている図を想像する。


『いいか、なんかあったらすぐ連絡入れろよ! 絶対だぞ!』


 そのメッセージを最後にやり取りは途切れた。

 画面をしばらくぼんやりと眺めてから、僕はウインドウを閉じた。もう一つ転移結晶を取り出して握るが、やはり砕けるだけで何も起きない。


「――――つまり」


 背筋に寒気が走る。落ちた時よりもずっと冷たく、明確に。

 事故であれ故意であれ、これまでアインクラッドから落下した人は相当数いた。しかし今まで『落ちた人から連絡がきた』なんて話を聞いたことはない。だから多分、僕の巻き込まれている事態はかなり稀で、もしかすると僕にしか起きたことがない可能性すらある。

 知らず手が震えそうになり、僕は強く拳を握る。

 今見た結晶の挙動は明らかに通常のゲーム中に起きる挙動ではなかった。有り体にいえば、バグっているようにすら思えた。結晶が通常の動作をせず、しかしゲーム的に無効化されているわけでもない。

 だとすれば僕がいるこの場所は、通常のゲームで辿り着くことが想定されていない場所ということにならないだろうか。

 背後から何かに追い立てられるように、早足に歩き出す。

 予感が実感に変わって、パニックを引き起こすよりも前に、その想像を否定する根拠を見つけ出したかった。そうしながら僕は自然と右手でウインドウを開き、アイテムストレージの中身に目を通し始めていた。

 ここがゲームで意図されている場所ならば、きっと脱出手段はどこかにあるだろう。SAOは厳しく辛い世界だが、無理ゲーではない。不可能を押しつけてくることはしない。

 けれどここがバグなどで生まれた、意図していない場所ならば?

 ここから出る方法なんてなかったら?

 元々遠出をするつもりで準備をしていたわけではない。アイテムストレージの中身はそれなりに潤沢だが、あくまでも通常のプレイの範囲でだ。特に食料なんて、目的がなければそれほどアイテムストレージの中に溜め込むようなものでもない。

 だとしても……SAOの中では飢えが発生するのだ。

 どこにも行けないこの場所で、飢えだけはつきまとい続けるのだ。


「嫌だ……それは、嫌だ……!」


 僕はその日一日を駆け回って過ごした。

 結局、見つけ出せたのは『僕の想像は正しい』という傍証ばかりだった。


『多分、そこは第一層よりも下の場所だ。

 全部が推測にしかならないけど……アインクラッドの基部のどこかに当たり判定がない場所があるんだろう。わざと作ったとも思えないから、単純に見落としかなんかだろうな。ゲームじゃよくある類いのバグだ。床が表示されているのに、判定はなくてすり抜けたりな。

 で、落下したお前は偶然そこに当たった……というか当たらなかった。第五十九層から落ちていったわけだからな。アインクラッドは全体で見ると、下層の方が広がっている。だから落ちる途中でどこかにぶつかって、しかもぶつかった部分に当たり判定がなかった。

 だから岩の隙間に入り込んじまってる、って感じだ。

 そこはゲームの内部としてデザインされた空間じゃないから、ゲーム内のシステムが色々と働いていない。転移結晶が使えないのもそうだし、落下ダメージがきちんと発生しなかったみたいなのもそうだ。

 ホノ、そこはゲームの外だよ、ある意味ではな』


 僕は長々と黙り込んで、それから頭上を見た。

 数メートル頭上に、足下のゴツゴツとした岩とは違う、黒い鉄でできた平面が見えている。


「もしかして、頭の上のこれは黒鉄宮の床下ってことになるのかな」

『そんなところを見た奴は多分、全プレイヤーで初めてだぞ。スクショ撮っとけ』

「後で送りつけてあげるよ。喜ぶといい」


 僕は少し笑って、それから長々と溜め息を零す。


『お前、食料ってどのくらい持ってたっけ?』

「一週間分は突っ込んであった。まぁ、健康的に三食取る必要はないから、頑張って保たせれば二週間くらいかな」

『二週間か……』


 それが意味する絶望を、長々と語る意味はない。


『お前が落ちた辺りから物資を落とせば、お前が受け取れたりしないか?』

「現実的じゃないからやめておこう。資金を無駄遣いするだけだよ。僕と全く同じ落下コースを辿って、物資がここにくるとは思えない」


 推測が正しければこの空間の直径は、アインクラッド第一層の直径にほぼ等しい。そのどこかにあるらしい当たり判定の抜けを探し当てるのは現実的ではないし、天井はジャンプすれば届くような高さでもない。

 ノーリッジはいい奴なので、こういう時に向こうから連絡を終わらせることなんてできない。だから僕は気詰まりなにらみ合いが発生するよりも前にメッセージを送った。


「よし、ギルマス命令だ。二週間以内にSAOをクリアしろ」

『無茶いってくれるな、おい!』

「そうと決まったら無駄話している時間はないだろ。チャット、切るぞ」

『ああ、うん。なぁ、その、ホノ。大丈夫か?』

「どうやらここ、モンスターもポップしないみたいだからね。ある意味じゃ誰よりも安全だよ。ノーリッジこそ、攻略を焦ってヘタを踏んだりしないでね」


 チャットを切る。

 わけもわからず叫び出したいような気分だったが、そうすると腹が減るのが早まるだけなような気がして、結局僕はばったりと倒れ込んだ。

 ある意味、落ちて死んだのと一緒だ。

 ここから出られないし、もうゲーム攻略に寄与することもできない。

 落下している時間が数十秒か、二週間か、あるいはそれ以上になるか。そうした違いがあるだけで、もう僕はなんでもない。何もできない。

 ホノというプレイヤーは落ちて死んでしまって、だから――――


「おわっ!?」


 唐突に訪れた通知が、僕の思考を断ち切った。

 相手も見ずに開いてしまったのは直前まで鬱々と考え込んでいたせいだ。それに多分ノーリッジだろうと勝手に思い込んでいた。

 僕の目に飛び込んできたのは、画面一杯に広がる笑いを示す『w』の文字だった。

 改めてウインドウを確認するまでもない。溜め息と同時に文字を打つ。


「サナギ。何の用さ」

『いえいえ、ホノさんが落ちたと聞いて、慰めてあげようかと! 今頃は無駄な努力でもしているんじゃないかと思いまして!』


 どこから話が漏れたんだよ、と思ったが考えてみれば彼女たちとは同じ宿だ。人数が欠けていることなど簡単に気づけるし、ノーリッジだって事態を把握するために聞き込みくらいはしただろう。

 どこかから噂が漏れる余地なんて、いくらでもあった。


「何しに連絡をしてきたのさ。正直、君と話す気分じゃないんだけど」

『だって、外に落ちた挙げ句に生きているだなんて! そんな面白いことになってる人、連絡をしたくなるに決まってるじゃないですか!』

「楽しそうでよかったよ。落ちた甲斐があるってものだね」

『拗ねないでくださいよー。まだ出口を探してウゾウゾしてるんですかぁ? それとももう諦めちゃいましたぁ? あ、『スノウルーフ』の皆さんはいざとなったら私が部下にしてあげるので、安心してくださいね』

「好きにいってなよ」


 気がついた時には立ち上がっていた。


「そもそも僕は諦めてなんていないし」

『でも早めにギルドを脱退してあげるのも優しさだと思いますよぉ? ホノさんがずっといたら、新しいギルマスを選びづらいじゃないですか。さっさと無意味なロスタイムを終わらせるか、せめて新しいギルマスを指定した方がいいですよ! ギルド全体の利益を考えるならそうした方がいいですって、ねぇ!』

「あー、うるさい、うるさい」


 ウインドウを閉じる。

 アイテムストレージから食料を全て取り出し、日数ごとに丁寧に分類し、一食分だけを残して戻す。今日の最初の食事を軽くつまんだ。忍び寄ってきていた飢えが遠ざかるのを感じる。

 それから僕は歩いた。

 歩いて、歩いて、ただ歩いた。


 昔から体の弱い子供だった。

 物心ついた時には生死の境をさまよったことが数度あったし、学校にいた時間よりも病院にいた時間の方がずっと長かった。ベッドの上だけが僕に与えられた僅かな領土であり、その小さな領土ですら痩せ衰えた腕には余ってしまった。

 だから、僕は棋士になった。

 病床に縛り付けられている限り、僕は病人だった。周囲の誰にとっても、僕自身にとっても、貼り付けられた病人というレッテルを引き剥がすことはできなかった。

 だがネット上でならば違った。そこで将棋が選ばれたのは単なる偶然で、少しばかりロマンチックな言い方をすれば運命だったのだろう。

 画面上の将棋盤をにらみつけ、震える指先でマウスに触れる間、画面上の僕と現実の僕は限りなく乖離していた。そこにいたのは病人でもなんでもない、純粋な将棋存在だった。僕を定義するのは僕が掴み取った将棋の実力のみであり、僕という存在は短いハンドルネームと段位だけに集約されていた。

 僕は自然と将棋にのめり込んでいき、最後には棋士になるに至った。病を引きずる弱り切った体で、文字通りに血を吐きながら戦い、C級二組にまで上がった瞬間のことを、僕は今でも覚えている。

 これから戦い続けるのだ。

 そう思ったことも、覚えている。自分で選んだ将棋という舞台で、自分で選んだ棋士という称号を背負って、血を流し果てる最後まで。

 SAOに囚われさえしなければ、きっと今もそうしていただろう。


 曖昧な眠りから覚める。

 このどこともしれない地底に落ちてから、どれだけ経ったか。時間感覚はとうに溶けていて、ウインドウを開いて時刻を確認することで、一週間が経過したことをようやく理解する。

 腕を振ってウインドウを消してから、その腕の動きの滑らかさに苦笑した。

 元々、SAOに参加したのはこれに惹かれてのことだった。現実の僕の体はあまりにも弱く、そして痛みを抱えすぎている。将棋の研究をするにしてもそれは邪魔で、だから僕は体の痛痒に悩まされず研究ができる場所をずっと探していた。


「VRの中っていうのは、悪くないアイデアだと思ったんだけどなぁ……」


 偶然購入できたタイトルが、脱出不能のデスゲームと化すとは思っていなかった。


「……まぁ、それも今更か」


 一週間。何があったかといえば、何もなかった。

 脱出方法はないという結論を再び得るまでに長くはかからなかったし、一度わかれば後はもうやることがない。ただひたすらに退屈と憂鬱で脳味噌を溶かしていただけ。

 こうなってしまうと、空腹に苛まれるのはむしろ幸福だった。

 まともな精神状態でこんな場所に幽閉されていたら、やがて精神を病むだろう。飢えが苛み、苦痛にまみれている状態なら、少なくとも先のことなんて何も考えずに済む。

 まぁ、だとしても食べないわけにもいかないのだが。

 先ほど時間を確認してから、どれくらい経過しただろうか。そんなこともわからない腐りかけの思考で、一日分の食料を摂取する。少しずつ。飢えの辛さが和らぐように、しかしあまり思考が明瞭になりすぎないように。

 上階にいるパーティーメンバーに、僕の方から連絡を取ることはしなかった。

 彼らは今も攻略中で、そこから脱落してしまった相手と話し込んでいる時間などないだろう。その証拠に、向こうからの連絡も日ごとにまばらになっていっている。

 今となってはこまめに連絡してくる相手など、毎日のように煽りのメッセージを送ってくるサナギくらいなものだ。


『もう死んじゃった方がいいんじゃないですかぁ?』


 見慣れてしまった文面が、まぶたの裏に浮かぶ。

 確かにそうだ。


「…………僕は何を待っているんだろう」


 SAOのクリアを?

 まさか。これからどれだけ『スノウルーフ』のみんなが頑張ってくれたところで、クリアよりもずっと前に食料は尽きる。そんな希望は持てない。

 こんな環境、いつかは限界がくるに決まっている。じゃあどうして苦しみを長引かせるためだけみたいに、こうしてここで生きているのだろうか?

 苦しみから逃げ出す選択肢はいつでも頭の中にあるのに、どうしてか僕はそれを選ぶことができない。だらだらと生き続けている。

 僕は、何を待って――


「うわっ、メッセージか」


 通知によってまたしても思考が浮かび上がる。

 画面を見ると相手はノーリッジだった。僕は自分の正気を確かめるように、一つゆっくりと呼吸をしてから、ウインドウを開く。


『おい、起きてるか!?』

「ノーリッジ、どうかしたの?」

『どうかしたのじゃねーよ! 何を落ち着いてんだよ! こっちはお前が欠けてからパーティーの再編成で大忙しだっていうのに!』


 それはそうだろう。


『スノウルーフ』は一応攻略組だったし、ずっと同じメンバーで行動し続けていた。ギルマスであった僕が落ちてしまったことは、ギルド全体に大きな影響を与えたはずだ。そして攻略組の一ギルドが揺らいだことは、きっと攻略組全体にも波及する。

 僕は淡く微笑みを浮かべ、


「そっか。じゃあまだ苦労して――」


 しかし打ちかけた文字は、続いてきたノーリッジのメッセージで止まった。


『けど、朗報だぞ! 今日、第五十九層のボスを討伐したんだ!』


 文字でしか連絡ができないことに感謝しながら、短い文章を打つ。


「そうなんだ」

『これで第六十層に行ける! クリアまで一歩近づいたぞ! クリアまではまだかかるだろうけど、待ってろよ、ホノ! 必ずクリアするからさ!』


 ノーリッジの力強い言葉が、目を滑っていく。

 わんわんと響く耳鳴り。震えそうになる指で、僕はどうにか心にもない言葉を紡いだ。


「じゃあ僕に連絡している場合じゃないでしょ。新しい層の下見に早く行かないと」

『いや、確かにそうだけどさ……。もっと喜んでくれよ』

「できるだけ早いクリアを目指して欲しいだけだよ」

『なあ、おい、大丈夫か、ホノ』

「こんな場所にずっといたら、あんまり大丈夫ではないかな」

『そうじゃなくてさ、お前、あの時』


 半端に途切れたメッセージは、ノーリッジのためらいだろう。

 僕は彼の次の言葉を待たず、首を振った。


「じゃあ、切るからね。頑張ってね」


 なるべく不自然ではないようにチャットを切った。だが不自然であったところで、今更どうだというのだろうという気持ちもあった。

 僕は誰もいない地の底で立ち尽くす。

 どこまでも続くような暗闇と、誰もいないことで生まれる突き刺すような静寂。その重みを感じて、僕は小さく笑った。


「――あは」


 第五十九層での経験値取得効率は、落ちる前に丁寧に計算していた。だから今日攻略されたという事実がどれだけ前倒しされているのかもわかる。

 多分、ノーリッジたちが頑張ったんだろうと思う。ギルマスを欠いた状態で、それでも僕をなるべく早く地底から引っ張り出すために、きっと色々頑張ったんだろう。

 それを想像して、そして、僕は素直な感想を呟いた。


「あーあ。僕は、みんなに死んで欲しいって思ってたよ」


 アイテムストレージから全ての食料を実体化させる。避けようのない飢えが存在するこの世界で生きていくのならば食料が必須だ。その総量は、僕が生きていける期間の長さに等しい。

 それらを見下ろしながら、誰にも聞こえないとわかりつつ僕は呟く。あるいは、誰かに聞かせてやりたかったと思いながら。


「棋士は毎年順位戦をやるんだ。その結果によって昇級か据え置き、あるいは降級が決まる。毎年四月から始まる順位戦を、三回欠席するとそれでも降級する」


 プロになった最初の年の順位戦に、僕は体調不良で参加することができなかった。

 そしてその後SAOに囚われ、もう一年半になる。ついこの間、SAOの中で二回目の四月がきた。それはつまり、僕はC級二組からフリークラスへと転落したことを意味している。


「あんなに頑張って勝ち取った棋士としての立場は、もうないんだよ」


 僕が落ちたのは、どうしようもない不幸の連鎖によってだった。僕は確かにSAOの中で戦い続けようとしていて、しかし不幸にもアインクラッドの外へとはじき出されてしまった。

 その瞬間のことを思い出す。

 遠ざかっていくノーリッジの手。

 驚愕に見開かれた彼の目。

 なぜなら、僕が彼に向かって手を伸ばさなかったから。

 落ちていくことを受け入れるみたいに、ただ無気力に落ちていったからだ。


「ねぇ、もう、遅すぎたんだよ」


 食料を手に取る。

 そして、食べた。

 今日まで丁寧に日付を計算し、常に飢えに苛まれながらもなるべく消費を減らしていた食料を、無造作に。

 乾燥させたナッツを。硬く焼かれたパンを。香辛料の利いたソーセージを。オイル漬けにされた魚を。

 全部ぐちゃぐちゃになればいいって、そう思ったんだ。

 アインクラッドの外にはじき出された、その瞬間。自分が落ちると思ったその瞬間。確かに僕はそう思った。

 今更僕は外に戻ったところで、掴み取ったはずの肩書きは失われている。だからもう攻略を頑張ってもどうしようもなくて、だからここで落ちれば、攻略組のみんなも困って、きっと全部ぐちゃぐちゃになる。そう思った。

 それすらも、無駄だったけれど。

 飢えが満たされ、満腹感が脳へと訪れる。それでも僕は食事を取るのをやめなかった。

 酸味の強いピクルスを。塊のままのチーズを。香り高いスモークサーモンを。様々な具材を押し固めたペミカンを。

 胃が膨らむようなシステムはないのに、体の中で何かが膨れていくような錯覚。吐き気がするのに、吐くようなものは何も体の中に詰まっていない。自分自身が吐瀉物に変わっていくような気分になりながら、ありったけの食料を口に放り込んでいく。

 結局、僕にそんな価値はなかった。

 僕がいなくても攻略は順調に進むのだ。僕が諦めたところで、みんなは前に進んでいくのだ。僕にはもう何もないのに、みんなは何かを勝ち取ろうと戦い続け――そしてきっといつかは勝利を手にするのだ。

 ぐちゃぐちゃになるところを見たくて、だからきっと僕は今日まで生きていた。みんなが困って、攻略に行き詰まって、そして死ねばいいとそう思っていた。

 ガンガンと響く頭痛。

 不規則に痙攣する胃。

 最後に漏らしたのは、どうしようもない溜め息だけだった。


「あーあ」


 そうして僕は気を失った。

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