はたらく魔王さま!SP2
魔王、女性の日常を垣間見る ─ 鈴乃の場合 ─
肌にまとわりつくような湿気のおかげで、朝九時にも関わらず早くも不快指数の限界を振りきった感のある夏の暑気にも負けず、佐々木千穂は今日も意気揚々と戦場へ足を運ぶ。
東京都渋谷区笹塚の、木造アパートの六畳一間が、今や彼女の戦場だった。
女子高生の身の上で戦場などとは穏やかではないが、事実なのだから仕方ない。
何せその戦場には、千穂の新しい『友』にして『強敵』が出入りするようになってしまったのだ。
「よしっ」
アパートの共用階段を見上げて、千穂は抱えた保冷バッグを心なしか強く抱きしめ気合を入れる。
「昨日までの鈴乃さんは、洋食方面に力を入れていたはず……。そろそろ和食に戻る頃だろうから、敢えて今日は正面から勝負!」
作戦を確認しながら階段を上がり、薄暗いのに全然涼しくない共用廊下のドアを開け、二○一号室のドアの前に立つと呼び鈴を鳴らす。
この部屋こそが、千穂の戦場にして、千穂が守るべき砦!
「はーい」
呼び鈴に応じて、男性の声。果たして中から出てきたのは、二○一号室に入居する魔王城の主、真奥貞夫であった。
「よお、ちーちゃん」
「おはようございます真奥さん!」
千穂は暑さなど微塵も感じさせない晴れやかな笑顔で挨拶する。
想い人の前なのだ。汗も引っ込むというものである。
真奥貞夫、ヴィラ・ローザ笹塚二○一号室の家主で、千穂のアルバイト先の先輩である。
「佐々木さん、いつも恐れ入ります。おい漆原起きろ! 佐々木さんがいらっしゃったぞ!」
「…………むぐ」
真奥の後ろからすぐに、真奥の同居人にして、忠実なる僕、芦屋四郎が現れて笑顔で千穂を迎えた。
この暑さにもめげずに寝坊をしているらしい真奥の忠実でない僕、漆原半蔵の寝起きのうめき声も聞こえる。
「おはようございます芦屋さん。……あれ? 今日はまだ、鈴乃さん来てないんですか?」
千穂は芦屋にも笑顔で一礼してからふと、部屋の中の様子を窺って尋ねた。
ここ数日の千穂の『強敵』の気配が、今日はしない。
「ああ、今日はまだ顔見てないな」
真奥は頷いて、玄関から共用廊下に顔を出すと、隣の部屋の方を見る。
千穂も同じように隣の二○二号室の扉を見て、少し拍子抜けしたような顔になる。
「そういえば、今朝は物音もしませんね。まだ寝ているのではないですか?」
芦屋も室内からそう言う。
「そうですか……」
千穂としては、闘志満々で来ただけに若干拍子抜けである。
「……でも、じゃあ今日は私が鈴乃さんの分も作ります! 真奥さん達の健康的には、その方がいいですもんね!」
「ま、まあな」
「大丈夫です! その……味はまだちょっと、鈴乃さんには負けますけど、でも、魔王城の健康は、私が守ります!! お邪魔しますね!」
「なんというありがたいお言葉……佐々木さんは我ら魔王軍にとって蜘蛛の糸とも言うべき一筋の救いです……漆原! 貴様悪魔大元帥として恥ずかしくないのか! 起きろ! 佐々木さんに失礼な振る舞い、決して許さんぞ!」
「…………むが」
千穂は気合を入れ直して、『魔王城』に踏み込んだ。
そう、この築六十年の木造アパート、ヴィラ・ローザ笹塚二○一号室に住まう真奥貞夫は、かつて異世界エンテ・イスラの征服まであと一歩に迫った悪魔の王、魔王サタンその人であり、『魔王城』という呼称は誇張でもなんでもない。
世界征服の野望を『勇者』に打ち砕かれ、異世界を行き来する『ゲート』を越えて日本にやってきた魔王サタンと、その僕二人、悪魔大元帥アルシエルと悪魔大元帥ルシフェルが三人で共同生活しているのが、この東京都渋谷区笹塚の町なのだ。
※
聖十字大陸エンテ・イスラに広がる人間世界を征服すべく、悪魔の大軍を率いた王の名を、サタンと言った。
絶大なる魔力の集まるその手に世界の全てを収めんとした魔王サタンと魔王軍は、野望成就の一歩手前で、勇者なる人間の手により駆逐されてしまう。
だが勇者の刃もまた、魔王の心臓にあと一歩届かず、魔王サタンと腹心の悪魔大元帥アルシエルは、『異世界』へと通じる『ゲート』を通り、エンテ・イスラから逃亡を図る。
その『異世界』こそ、地球という星の、日本という国であった。
勇者の刃から逃れるために漂着した日本の地は、人間が支配する世界であった。
悪魔の命の源たる魔力の得られぬ地、地球で人間の姿に堕ちたサタンとアルシエルは、生きるため、食べるため、そして何より世界征服の野望の再起を図るべく、人間社会のルールに従い、働かなければならなくなる。
一方で、魔王の野望を打ち破ったものの、あと一歩で命を獲り損ねた勇者エミリア・ユスティーナもまた、日本でアルバイト生活をしながら魔王の行方を追っていた。
エンテ・イスラの魔王城での決戦から数ヶ月。
魔王と勇者は笹塚の交差点にて再び邂逅する。
運命は停滞していた戦火を再び燃え上がらせる……かと思いきや、力を得られず働きながらお金を稼ぐしか生きる術が無くなっていたのは勇者も同様であった。
宿敵を目の前にしながら、それよりもさらに目の前にある、
『働かなければ、生きていけない』
という過酷な現実に魔王も勇者も屈し、日々を過ごしていた。
魔王と勇者が睨み合いながら食べるために日々仕事に精を出すという『非日常的な日常』に、新たな闖入者が現れたのはつい先日のこと。
勇者よりも真剣に魔王を滅ぼそうとしていた聖職者が笹塚の六畳一間の魔王城の隣に引っ越してきてからの奇妙なご近所付き合い。
そして、その聖職者との一時休戦と、人類の味方であるはずの勇者から聖剣を奪おうとする大天使との戦いを経て取り戻した『非日常的な日常』の平穏。
魔王城の隣に身分を偽り引っ越してきて、戦いの後もそのまま魔王城の隣人として収まっている鎌月鈴乃を迎えた魔王と勇者の日本での生活は、新たな局面を迎えようとしていた。
※
「……鈴乃さん、来ないですね」
千穂はすっかり用意の整ってしまった食卓の前で、心配そうに隣の部屋の方に顔を向けた。
「まぁ、そういう日もあるんじゃねぇのか?」
真奥はあまり気にしていないようだが、それでも千穂は落ち着かない。
二○二号室に住んでいる鎌月鈴乃は、真奥の敵であるエンテ・イスラ大法神教会の人間だ。
鈴乃は引っ越してきた当初、正体と目的を隠し、隣人からのおすそ分けと称して、悪魔にとっては毒に等しい聖なる力、聖法気を含んだ聖別食材で作った料理を魔王城に提供し、じわりじわりと悪魔達の力を削いでいくことを目論んでいた。
数日前の大天使サリエルの騒動に絡んで正体が露見したのだが、鈴乃は大胆にもそのまま二○二号室に住み続け、より堂々と真奥達に一服盛りはじめたのだ。
しかも千穂にとって甚だうまくないのは、鈴乃と魔王城の面々との間にどのようなやりとりがあったのか不明だが、鈴乃の援助と称するその攻撃を『結果的に食費が助かる』との理由で芦屋が受け入れはじめてしまったことだ。
千穂にしてみれば、想い人の隣に住む美しい女性が、真奥のハートを狙って毎日胃袋を摑みに来ているのである。
真奥の健康を心配する意味でも、真奥に想いを寄せる一人の女性としても、座して見ていられる状況ではない。
かくして二人の女性が、違う意味で真奥のハートを狙って魔王城に食事を提供しはじめたのだが、隣に住んでいる距離的アドバンテージを活かして必ず千穂に先んじているはずの鈴乃が、今日は姿を見せる気配すら無い。
鈴乃は真奥達の敵ではあるものの、千穂にとっては新しい大切な友人でもあるので、姿を見せないとそれはそれで心配になってしまうのだ。
「出かけちゃったのかな……」
「どうでしょう。私は今日洗濯のために六時半に目を覚ましましたが、出かけた気配は無いように思います」
芦屋は窓にひっかけられた洗濯物に視線をやりながら言う。
ほぼ毎日通い詰めていると言って良い千穂も、今更魔王城の洗濯物を見た程度で恥じらったりはしないあたり、悪魔と女子高生の変に深いところでの奇妙な結びつきが窺える。
「鈴乃さんって、携帯電話って持ってないんでしたっけ」
「この前までは持ってなかったはずだし、持ってても別に俺は番号聞こうとは思わんしなぁ」
千穂は、室温でぬるくなってしまいそうなサラダに目を落としてから、一つ頷いて立ち上がった。
「私、ちょっと様子見てきます。もし具合悪くしてたりとかだったら、大変ですし」
「そうか。まぁ、漆原はこの暑さの中でも平気で寝てるし、鈴乃だって普通の人間より頑丈なんだから大丈夫だとは思うけどな」
真奥は頷いて千穂を送り出してから、窓際のパソコンデスクに突っ伏して、結局未だに起きないままの漆原の後頭部を忌々しげに睨んだ。
「鈴乃さーん、私です、千穂です。いますか? 鈴乃さーん……」
共用廊下に面したキッチンの窓から、千穂が二○二号室の呼び鈴を押しながら鈴乃を呼ぶ声が聞こえる。
真奥と芦屋は何げなく目を合わせて、多分本当に知らないうちに出かけたのだろうな、くらいに考えた次の瞬間だった。
「鈴乃さん? 鈴乃さん!?」
緊迫した千穂の声が窓から飛び込んできて、真奥と芦屋は顔をはっと上げる。
一体何事かと思う間もなく、すぐに戻ってきた千穂は慌てた顔で隣の部屋を指さした。
「真奥さん芦屋さん! 大変です! 鈴乃さん、病気かもしれません!」
「は!?」
「病気ですか?」
「はい! ドアに耳当てたら、鈴乃さんの苦しそうな声が聞こえたんです! 鈴乃さん、部屋にいます! 何かあったんじゃ……」
「穏やかじゃねぇな。ちーちゃんの呼びかけには答えたのか?」
千穂の様子に、さすがに真奥も真顔になる。
「答えてるようなそうでないような、うわごとみたいな感じがします。でも、ドアの鍵閉まってて、どうしたらいいか……」
「……」
真奥と芦屋は顔を見合わせ、
「まぁ、敵とはいえ隣の部屋でぽっくり逝かれても寝ざめ悪いしな」
「仕方ありませんね」
「真奥さん? 芦屋さん?」
「ちーちゃん、何かあったら、鈴乃の奴がやばそうだったから仕方なくって言ってくれよ」
「え? あ、はい。で、でもどうするんですか? まさかドアの鍵壊すんですか?」
「まぁ、それは本当に最後の手段だな。とりあえず」
真奥はやおら立ち上がると、芦屋を伴って共用廊下に出て、千穂もそれに続く。
そして千穂がしたのと同じように二○二号室の呼び鈴を鳴らし、
「おい鈴乃! 生きてるか!」
中に向かって呼びかけてから、ドアに耳を寄せる。
「唸ってる、のか? とにかくおい、芦屋」
「は、魔王様、そちら側を」
「おう」
真奥と芦屋は千穂を下がらせると、二○二号室のキッチンの窓に、格子の隙間から腕を入れて手をかけた。
「うちと同じなら」
「これで外れるはず。せーのっ!!」
真奥と芦屋が合図をして同時に力を入れると、なんと、施錠されているはずの窓が二枚とも窓枠から外れてしまったではないか。
「え、ええええ!?」
真奥と芦屋の暴挙とも言うべき行動に驚きを隠せない千穂。
二人は気まずそうに千穂を振り向く。
「言っとくが、俺達が普段から鈴乃の部屋にこんなことやってるなんて思うなよ?」
「二○一号室の廊下側の窓も、これと同じ方法で外れてしまうのです」
芦屋曰く、たまたまキッチン周りの大掃除をしている最中に、窓にこびりついた油汚れを拭おうと力を入れたら、外側に外れて格子の中に落ちてしまったのだという。
防犯上問題があるし、それだけ隙間があるということは虫なども入りやすくなるし、うっかり外して格子と窓をぶつけてガラスが割れたら目も当てられない。
なんとかしたいと思ってはいるのだが、いかんせんサッシを直すような予算は魔王城には無いし、そういうことを相談するべき大家の志波美輝も長いこと不在である。
管理を委託されている不動産屋に頼むという手もないではないが、やはり家賃増額などという形で家計に跳ね返ったらと思うと恐ろしくて放置するしかなかったのだが、それがまさかこんな場面で活用されようとは。
「ちーちゃん、覗き込んで見てくれ。さすがに俺達がいきなり覗くのもアレだし」
「え、あ、はい。じゃあ……んっ!」
真奥に場所を譲られて、千穂は格子に手をかけると、外れた窓と格子の隙間から部屋の中を覗き込む。
そして、カーテンが閉めきられ、整頓された薄暗い部屋の片隅には……。
「す、鈴乃さんっ!!」
それを見た千穂の悲鳴が上がる。
「ど、どうしたちーちゃん!」
「た、大変です、鈴乃さん、部屋の中で倒れてます!!」
「何っ!?」
千穂をどかして真奥と芦屋も慌てて格子から室内を覗き込む。
すると鈴乃の小さな体が不自然な格好で窓際に横たわっている。
薄暗いので判然とはしないが、妙に着ぶくれているようにも見え、明らかに不自然な状況だった。
「な、なんだどうした? おい鈴乃、生きてるか!? 具合でも悪いのか!?」
「…………」
どうやら声も上げられない状況らしい。
呼吸をしている様子は見て取れるが、それでも小さなうめき声が聞こえるだけで、体に異常が起こっているのは一目瞭然であった。
しかしこれだけ呼びかけて立ち上がらないのなら、中から鍵が開くことは期待できない。
「くそっ、ドアぶち破るわけにもいかねぇし……仕方ねぇ!」
真奥は一つ舌打ちをしてから、
「ちーちゃん、恵美に連絡して鈴乃が非常事態だっつって来てもらえ! 間に合わなかったら最悪救急車だ。芦屋! どうにかして外から窓を開けられないか試してみろ。最悪割れ。ドア破るよりは窓割ったほうがなんぼかマシだ!」
「わ、分かりました!」
「了解いたしました!」
真奥の指示に千穂と芦屋が忠実に動き出す。
「魔王様はどうされるのですか?」
「仕方ねぇだろ。ぶち破るのは最後の手段なんだから……」
真奥は突っかけていた靴をきちんと履き直すと、靴ひもを結び直して言った。
「不動産屋んとこ行って、非常事態だっつってマスターキー出してもらう。連絡はちーちゃんの携帯にするからな!」
「で、電話じゃダメなんですか?」
「まだ営業時間まで何十分かある! それに電話でごちゃごちゃ言うより、あの距離なら走って行った方が話が早ぇ!」
真奥はそれだけ言うと、炎天下の笹塚の町へと走り出す。
数日前の騒動で鈴乃に自転車を壊されてしまったため、偉大なる魔王サタンの交通手段は、残念ながら健脚による全力疾走のみである。
「……何……なんの騒ぎ……?」
そして真奥が飛び出したその瞬間を見計らったかのように、寝癖を立てっぱなしの寝起きの漆原がのそりと魔王城の玄関から顔を覗かせ、緊急事態にも関わらず、千穂と芦屋は大いに脱力したのだった。
※
「本当に……面目ない…………」
意気消沈した鈴乃の声が、魔王城に響く。
「私の不注意で、皆に迷惑をかけてしまった。詫びのしようもない……」
「そ、そんなに気を落とさないでください。大したことなくて良かったですよ!」
魔王城の畳に正座して平身低頭している鈴乃を、殊更明るい口調で千穂が励ますが、
「でも、ちょっとこれは間抜けすぎるわよ」
恵美は呆れ顔を隠さない。
「千穂ちゃんから連絡があったときは何事かと思ったわよ。まさか家の中で熱中症起こして立ち上がれなくなるなんて、子供じゃあるまいし」
「っ……」
恵美の言葉に、鈴乃は顔を真っ赤にして下を向いてしまう。
「で、でも、大人だって熱中症にはかかりますし、今時はそうバカにできないですよ!」
「その原因がこれじゃなければね」
千穂の必死のフォローも虚しく、さらなる追い打ちをかけたのは漆原である。
鈴乃の傍らに無造作に放り出されているのは、厚手の革の外套であった。
「っっ~~~」
全員の視線が外套に集中し、鈴乃はいたたまれなくなって元々小柄な体をさらに縮こまらせてしまう。
「まぁ、大事に至らなくて良かったって言うしかねぇな」
その上魔王に同情されては、立つ瀬も何もあったものではない。
「魔王様は出勤前だというのに、汗をかかせおって、まったく」
芦屋もすっかりお冠である。
それも仕方の無いことで、千穂の連絡で恵美がアパートにやってきたのと、真奥が不動産屋を連れて鍵を持ってきたのがほぼ同時だった。
マスターキーを使って部屋に入ってみると中はもの凄い蒸し様で、それなのに鈴乃自身は全身をすっぽり覆うような革の外套を羽織ったまま倒れていたのだ。
千穂が窓を全開にし、恵美が男性陣を部屋の外に退去させてから鈴乃の衣類を脱がして冷水を頭から被せ、ようやく鈴乃は意識を取り戻した。
救急車を呼んだ方が良いのではと言う不動産屋にお礼を言って帰らせ、恵美と千穂が鈴乃から原因を聞き出すと、思いがけない答えが返ってきたのだった。
「日焼けしたくないからってこんなの着て熱中症とか、ちょっと恥ずかしくて人には言えないよねー」
「う、うるさいっ」
鈴乃の顔は、暑さと羞恥とその他色々な理由で真っ赤になっている。
「し、仕方ないだろう! 部屋のカーテンは適当に見繕ったものだから遮光性が低かったし、それにヒヤケドメなどという便利なものがあるなど知らなかったのだ!」
鈴乃の熱中症の原因は、日焼けを恐れての厚着だった。
エンテ・イスラにも「日焼け止め」のための薬材は存在するが、日本のように、量産されてはいないし、そもそも誰でも手に入れられる程、安価なものでもない。
多くのエンテ・イスラの民にとって日焼け防止とは即ち日光を避けることに他ならず、その結果、エンテ・イスラ南大陸の砂漠地域に住む民達のように、日光や熱を遮る布を被る、という選択肢しか思い浮かばなかったのはこの際仕方が無い。
だが、日本の夏は砂漠気候とはまた一線を画す高温多湿の夏であり、体感温度には湿度が密接に関わってくる。
絽や紗の着物は風を通しやすいとはいうものの、あくまで普通の着物に比べれば、というレベルであり、その上に風を通さない革の外套など羽織った日には内側に空気と熱がこもって即席スチームサウナの完成である。
大体、砂漠の民だって日光避けの布の素材や数には細心の注意を払う。何も無かったからといって手持ちのものだけで済まそうとする鈴乃が無茶なのだ。
「だからこっちに長居するなら色々勉強しなさいって言ったのに」
鈴乃はムキになって漆原に反論していたが、恵美にしてみれば、何度も警告したことなのに生活態度を漆原とは違う意味で改めない鈴乃にも、大いに問題があると思わざるを得なかった。
「でも鈴乃さん、お肌白くて綺麗ですよね」
「ここ数日、外を出歩いたせいでこれでもうっすらと日焼けしてしまっている」
千穂は鈴乃の珠の肌を褒めるが、鈴乃は少し悲しげに自分の手の甲を睨むばかりだ。
「鈴乃さん」
鈴乃の表情に心中を察した千穂は痛ましい思いにかられるが、
「肌は白い方が隠密聖務や変装が必要な聖務があったとき便利なのに……」
「……そーなんですか」
日焼けを嘆く理由から妙に物騒な気配を感じ取って表情が固まってしまう。
「そういえば芦屋、お前この間日焼け止めとか買ってなかったか?」
そんな女性陣をよそに、真奥が芦屋を見て、芦屋もはたと頷き立ち上がる。
「そういえばそうでした」
芦屋が薬の買い置き箱の中から取り出したのは、薬局で安売りしているボトルだった。
「どうしてあなた達がそんなもの買ってるのよ」
「先日の騒動のせいで、魔王様は徒歩通勤を余儀なくされているからな」
恵美の問いに芦屋は軽く鈴乃を見下ろし、鈴乃はまた申し訳なさそうに顔を伏せる。
「魔王様の健康のためにも、外を歩く間の紫外線対策を万全にせねばと思ったのだ」
「魔王のくせに、生意気にも紫外線対策?」
「魔王とか関係ねぇだろ。それに俺使ってねぇし。なんかそのクリームべたついてイヤだし、匂いも若干だけど気になるんだよ。これでも食い物扱う仕事してんだから、あんまりそういうの手とかにつけるのもどうかと思うしよ」
「……」
飲食店でアルバイトする男性としては至極最も、真面目な回答だが、前提としてあるのは悪魔の王が悪魔大元帥に心配されて一度は日焼け止めクリームを塗ったという事実。
最近こういった真奥達の生活態度に慣れてきた恵美も、久々に辟易してしまう。
「どうせ誰も使わないんだから、その日焼け止め鈴乃にやっちまえよ」
「敵に塩を送るくらいなら、日がな一日家にいる漆原に使わせた方がマシです」
「芦屋の中での僕のポジションが全然分からないよ」
芦屋の毅然とした物言いに、さすがの漆原も突っ込まざるを得ない。
「あはは……でも、真奥さんの言う通り、安いのは肌触りとか微妙だったりしますし、鈴乃さんも買うんなら自分のお肌に合ったやつ使った方がいいですよ」
「そうか……千穂殿も、使っているのか?」
「え? はい。私もそんなに高くないのですけど持ち歩いてます。汗かくと落ちちゃうんで」
鈴乃の問いに、千穂は持ってきたバッグの中から、小さなボトルを取り出す。
「……」
「私も持ち歩いてるわよ」
鈴乃の視線に気づいて恵美も自分の鞄から小さなボトルを取り出す。
「あ、それ最近CMでやってるのですよね。評判いいって聞きました」
「そうね、試供品もらって試しに使ってみたら気に入っちゃって。ちょっと使ってみる?」
「わあ! いいんですか!?」
恵美の申し出に千穂が快哉を上げて、いそいそと手の甲を差し出す。
そんな女性二人の様子を見ながら、鈴乃はふと芦屋を見た。
「その……日焼け止めなどという便利な薬剤は、魔王達のような生活水準でも手に入るものなのか?」
「魔王城の家計を愚弄するか!」
芦屋は眉根を寄せて喚く。
「私が駅前の薬局で購入したこれは安売り398円だ! この程度では、魔王城の家計はいささかの痛痒も感じない!」
芦屋が印籠のように突きつけるボトルの腹には、端が汚れた『¥398』の値札シールが物悲しく貼りついていた。
「あー待ってベル。千穂ちゃんも言ってたでしょ。肌に合うもの使わないと気持ち悪いし、場合によっては肌に悪影響よ。きちんと選んだ方がいいわ。高ければいいってものでもないけど、アルシエルのそれはおすすめできないわ。見たことないものそんなの」
「エミリア! 貴様も私の選択を愚弄す……」
「芦屋、やっぱそれ人気ねぇんだって。だから安売りだったんだって。だって俺お前に言われて薬局寄ったときとか日焼け止めの棚見たけど、同じやつ見たことねぇもん」
「魔王様までそんな……」
恵美に突っかかろうとした芦屋だったが、主の非情な一言に、畳の上に崩れ落ち、
「その日焼け止め、コスメサイトの口コミ評価が平均で星一つ半。評判最悪みたいだよ」
漆原の一言がトドメになって、悪魔大元帥アルシエル、撃沈。
「そういえばあなたがお化粧してるの見たことないけど、化粧品は何を使ってるの?」
視界の端で、芦屋が炎天下のアスファルトで焼け死んだナメクジのように干からびてゆく様を見ながら、恵美は何げなく鈴乃に問う。
「ああ」
鈴乃は一つ頷いて口を開いた。
だが、その答えは、恵美と、そして千穂にとっては予想だにしない一言だった。
「化粧品の類いは、特別持ち合わせていない」
「「……え?」」
恵美と千穂は、顔を見合わせる。
「ん? どうした二人とも」
「化粧品を……」
「持って……ない?」
「ああ、勿論銭湯で入浴するときに使う石鹼や、しゃんぷー? と、りんすは持っているぞ」
「え、あ、いやその。そういうんじゃなくて」
「化粧水とか、乳液とか、持ってないんですか!?」
「ケショウスイやニュウエキというのがなんのことだか分からないが、まぁ、持っていない」
「「……」」
恵美と千穂は、その答えに絶句し、お互い顔を見合わせ、そして、
「わっ!! にゃ、にゃにをふるんだ!」
申し合せたように恵美が鈴乃の左の頰を、千穂が右の頰を唐突につまんだ。
そして指先に伝わるその手触りに愕然として、手を離す。
鈴乃はといえば、恵美と千穂の突然の暴挙に目を白黒させて、両頰を押さえて二人を睨むが、肝心の恵美と千穂は、鈴乃の頰をつまんだ指先をただ眺めるばかりだ。
「な、なんなんだ一体!」
「お化粧」
「してない」
「???」
「鈴乃さん……日本に来て、どれくらいでしたっけ……?」
「な、なんだ千穂殿突然。そうだな……もうすぐ二週間……いや、三週間と少しくらいか?」
「その間、一度もお化粧してないんですか?」
「だから言っているだろう。化粧道具を持っていないと」
「……ベル、私からもいいかしら」
「なんだ」
「こんなこと聞くのも悪いんだけど……あなた、今いくつ?」
恵美と千穂は何か途轍もない衝撃を受けているようだが、それにしても悪魔とはいえ男性が三人いる前で、なかなかに不躾な質問である。
だが鈴乃はあまり気にしていないのか、ごく自然に口を開いた。
「私の年齢か? 私は今年でにじゅう……」
「うわあっ!!!!」
「……だが」
肝心なところを邪魔したのは、窓際のニートである。
「うわ、ブルースクリーンになった! 最悪だ!」
どうやらパソコンにトラブルが発生したようだが、そんなことには恵美も千穂も構っていられない。
「……ごめんベル、聞こえなかったわ。いくつなの?」
「ん、だから今年でにじゅ……」
「魔王様あああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「……歳だ」
今度は、絶望の淵から蘇った芦屋だった。
「私は、私は間違っているのでしょうか! 私は買い物で得をしているつもりで実は損をしていたのでしょうか! 魔王様! 私はこれからどうしたら……っ!!」
「芦屋うるせぇ暑苦しい近寄るな」
泣きながら主に縋る芦屋の様子を恨みがましい目で見ながら、今度は千穂が問う。
「あの、鈴乃さんすいません、また聞こえなくて……」
「いやだから、私は今年でにじ……」
「あああああ!! 電源落ちた! 再起動できない!」
「魔王様ああ! やはり私も定期的に働きに出て家計を補強すべきでしょうかああ!!」
「……歳だと言っているだろう」
「魔王! あなたのとこの部下ちょっと黙らせて!」
「芦屋さん! 漆原さん! 少し黙っててください!!」
いつになく殺気立った恵美と千穂の様子に、真奥も鈴乃も目を白黒させる。
だが、芦屋と漆原が黙っても、裏庭の蟬や、近所の子供の叫び声、さらにはチリ紙交換や廃品回収、暑さで頭のネジが飛んだのか焼き芋屋にラーメンの屋台まで現れる始末で、結局恵美と千穂は、肝心なところだけは聞けず仕舞いになってしまったのだった……。
結局鈴乃が化粧品を持っていなかったのは、日本とエンテ・イスラ西大陸での化粧という行為に対する認識の違いから起こる齟齬が原因だった。
鈴乃にとって、化粧品は専門の調合師が作る大変に高価な医薬品、という認識が強く、またエンテ・イスラと日本の「化粧」と「化粧品」の概念やTPOが大きくかけ離れていたため、今まで購入しようとすら思わなかったらしい。
エンテ・イスラの生活文化上、儀式や祭祀、または余程改まったフォーマルな場に出るのでもなければ、貴族でもない民間人や、贅沢をしない聖職者が化粧をすることは無い世界である。
それだけに、まだ女子高生である千穂が化粧品を使っているという事実は、鈴乃にとってかなりのカルチャーショックだったようだ。
「遊佐さん! 今すぐ鈴乃さんのためにお化粧品買いに行きましょう! もう日焼けしちゃってるんです! 鈴乃さんの綺麗な肌を守るためにも、紫外線対策を! 遊佐さんならきっといい化粧品を売ってるお店知ってますよね!」
「ちょっと千穂ちゃん落ち着いて! はぁ、そうね、そうよね」
恵美は深い息を吐きながら、千穂に同意する。
結局鈴乃の本当の年齢を聞き出すことは叶わなかったが、前後の文脈から最低でも恵美と千穂より四歳以上、年上であることは確定事項である。
それでいて化粧もしないのにこの珠の肌というのは、女性として羨む次元を超えている。
「まぁ、逆にナチュラルにこれなら、下手なのに手を出して荒れちゃわないか心配だけど、日焼け止めだけでもいいものを使うに越したことはないわね。ただ、今日も明日も私仕事なのよ。案内してあげたいのはやまやまだけど。それに、ベルを熱中症で倒れた日に出かけさせるのもね」
「そ、それもそうですね……」
ならば自分が、と言いたいところだが、千穂の化粧品は高校生でも気軽に買える、いわゆる『プチプラ』と呼ばれる価格帯のものであり、鈴乃の肌に合うものが手に入る保証も無いし、そもそも千穂自身そんなに化粧品に詳しいわけでもない。
「それに私も、自分に合うもの買ってるだけで、別に詳しいわけじゃ……あ、そうか」
恵美はそこまで言ってふと、思い出して顔を上げた。
「早めがいいなら、梨香が確か明日シフト入ってなかったし、ずっと家にいるって言ってたからお願いすれば、案内してくれるかも」
「梨香って、鈴木さんですか? 前にマグロナルドに一緒に来た……」
千穂は、恵美や鈴乃と共にアルバイト先のマグロナルド幡ヶ谷駅前店にやってきた恵美の友人の顔を思い出した。
「うん。彼女、エンテ・イスラのことは何も知らないけど『鈴乃』とも面識あるし、言えば引き受けてくれると思うわ」
「確かに、梨香殿は世慣れた空気を纏っていたが……指南してもらえるのなら、是非お願いしたい」
「私も、ちょっと興味あります」
「そう? じゃあちょっと聞いてみるわね」
恵美はスリムフォンを手に取って梨香の番号を呼び出すと、あることに気づいて、この部屋の主を振り返る。
「魔王、あなた明日、勤務あるの?」
「あ?」
恵美の呼びかけに、真奥はあからさまに面倒くさそうな顔をする。
直前まで真奥は芦屋と漆原を正座させ、勇者の前でダラけるだけならともかく情けない姿を見せるなと滾々と説教をしていたのだが、今この流れで恵美からの用など面倒事以外の何物でもない。
「……いや、仕事……」
「千穂ちゃん」
恵美は、真奥の一瞬のためらいを聞き逃さなかった。
さっと鋭い視線を千穂に向けると、千穂はしばし冷や汗を流しながら、申し訳なさそうに真奥を見て、そして白状した。
「………………………………………………………………………………ごめんなさい真奥さん」
「……いや、俺こそ、すまねぇ」
真奥としても、千穂がいる前でシフトの噓が通じるなどと思ってはいなかったし、後輩に噓をつかせるのもどうかとも思うので、千穂に詫びると共に、さらりと降参した。
「で……なんだよ。明日俺は休みだよ。それがどうした」
ただ、恵美の言うことに素直に従いたくなかっただけである。
恵美は頷くと、意外にも真面目な顔で真奥に言った。
「どうせ暇してるんでしょ。明日のお買い物、ベルと千穂ちゃんに付き添ってあげて」
※
翌日午前十一時、真奥と千穂と鈴乃は、京王線新宿駅西口改札で恵美と梨香と合流したのだった。
「で、真奥さんは、美女四人に囲まれているというのに不満そうだねぇ」
「……あんた、おせっかいなだけじゃなくて、本当面倒な奴だな」
「自覚はあるよ」
「なお悪いわ」
真奥は辟易してため息をつく。
「ごめんね梨香、休みの日に突然なお願いで」
「いいのいいの、どうせ暇なんだもん、恵美の友達は私の友達よ。どーんと大船に乗ったつもりでいなさい」
「梨香殿、休日を私のためにさいていただきかたじけない。今日はよろしく頼む」
鈴乃は梨香に小さく一礼。元々強靭な肉体を持っているせいか、昨日の熱中症の後遺症は欠片も見当たらない。
「よろしくお願いします!」
千穂も元気良く一礼。梨香は得意満面の笑みでそれに応える。
「お任せあれー」
真奥は恵美と梨香と千穂と鈴乃の挨拶を、少し離れた所で冷めた目で見ていた。
休日を使って付き合っているのは真奥も同様なのだが、どうもそこを労ってくれる者はこの場にいないらしい。
当初、真奥は鈴乃の買い物に付き合えという恵美の要請を、即答で拒否した。
ただでさえ最近は鈴乃絡みの騒動で疲れているのに、何を好き好んで敵の買い物などに付き添ってやらねばならないのか。
だが恵美は恵美で、そんな真奥の反応は予測済みだった。
「分かってると思うけど、彼女結構迂闊なところあるでしょ」
アパートの廊下に真奥を連れ出した恵美は、そう言って腕を組んだものだ。
「それで鈴木梨香やなんかに迂闊なこと口走らないように見張れってか? 俺の知ったことじゃねぇよ。そっちでなんとかしろ。俺には関係ねぇ」
「うん、きっとそう言うと思ったわ」
だが恵美は、真奥のそっけない態度も意に介していない。ただ、一言、少しだけ大きな声でこう言った。
「なら私は、どんな手段を使ってでも、今日以降、ベルと千穂ちゃんが魔王城に食糧援助するのを全力で止めてあげるわ」
「なんだとう!?」
その言葉に血相を変えたのは、部屋の中にいるはずの芦屋だった。
「エミリア貴様! 魔王城を兵糧攻めにするつもりか!」
「あら? だって敵の援助なんかできないんでしょ? だったら人間側から悪魔側に援助する理由も無いと思うわ? 私は勇者として、それを止める義務を感じざるを得ないわね」
「しかしこちらにも家計の都合が……」
「それこそ『私の知ったことじゃないわ。そっちでなんとかしなさいよ。私には関係ないわ』」
「う」
真奥は自分のセリフを復唱されて、グゥの音も出ない。
「大体アルシエル、あなた言ってたわよね? 聖別食材よりも家計が助かることの方が大事って。ベルの援助を進んで受け入れているくせに、こういうときは『向こうが勝手にやってることだ』とか言い出すわけ? 誇り高き悪魔大元帥様は、随分とさもしい根性してるのね」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」
「……それに!」
恵美は真奥と、横から顔を出した芦屋を交互に見て、声を顰める。
「あの天使のことを思い出した方がいいわ」
「……」
恵美の言う天使とは、もちろんサリエルのことだ。
「こんなこと、思い出すのも気持ち悪いけど、サリエルは千穂ちゃんにも興味を示してた。魔王、あなたのすぐ傍にいる『普通の人間』として研究材料にしたいみたいなことも言っていたわ。またベルと一緒にいるときに、何かちょっかい出してこないとも限らないでしょ」
「う~~ん…………」
恵美の心配は分からないでもない。
真奥も正直、如何に木崎が美しいとはいえ、サリエルがあそこまで簡単に骨抜きになって己の天使としての分を忘れたとは思い難い。
思い難いのだが、あの戦いの後のサリエルは、何かに取り憑かれたようにマグロナルドに通い詰めては、木崎の機嫌を取るために真奥や千穂にも愛想をふりまき、本気で天使の分を放棄してしまったようにしか見えないのだ。
「……はぁ。仕方ねぇなぁ」
「魔王様!?」
「家計と、ちーちゃんのためだぞ」
真奥が折れた形になり、恵美も少しだけ表情を和らげた。
「結構よ。もし時間が合うようなら、夕方以降仕事が終わったら、後は私が引き受けるから」
「……へいへい」
と、とりあえず納得してついてきたは良いものの、真奥は早くも後悔しはじめていた。
恵美と別れてから、鈴乃が化粧品を一切持っていないという話を聞いた梨香は、恵美や千穂と同じようにひとしきり鈴乃のほっぺたをいじり回した末に、京応百貨店の一階化粧品売り場に向かった。
「な、なんだこりゃ!?」
売り場全体が、奇妙な甘ったるい匂いで覆い尽くされている。そこかしこに掌に突き刺さりそうなまつ毛を生やした外国人女優の大きな写真が散りばめられ、カラフルな液体が満ちたボトルが数えきれないほど陳列され、広大なフロアには見たことも無い横文字が大量に並んでいる。
そして恐ろしいことに、
「男が一人もいねぇな」
「いるじゃん、あんたが」
「そういうことじゃなくてだな!」
梨香に突っ込みながら、真奥は改めて売り場を見渡す。
客も、従業員も、全てが女性。特に従業員は、カラフルな商品とは対照的に黒一色の衣装に統一されており、皆似たような髪型と化粧をして、全く個体識別ができない。
男性はエスカレーター傍に、店舗全体の案内役といった風情の老紳士が一人いるのみで、真奥のような若い男は足を踏み入れることすら躊躇われる空気だった。
「な、なあ、俺よく分からないんだが、化粧品って薬局とかに売ってるんじゃだめなのか?」
付き添いとはいえ、鈴乃達がこの場で買い物をしはじめたら、真奥は一体どこでどう過ごせば良いのだろうか。
一緒にくっついていなければ後で恵美に何を言われるか分からないし、さりとて真奥に全く縁の無い商品の売り場では、精神的な意味で真奥に立錐の余地は無い。
「ここなら色々試せるからさ。試供品も沢山もらえるし、ライン揃えようと思ったらいろんなバリエーションが簡単に揃うし、買わないまでも参考になるかなって」
「「らいん?」」
試供品、というのは今こうして立っているだけでもそこかしこで女性客が小さな包みを無料でもらっているのが見えるので分かるのだが、真奥と、そして鈴乃も、梨香の言った言葉が分からず首を傾げる。
「んー、まぁ要するに、化粧しはじめから落とすまでに必要な化粧品の流れを指してそう言うんだ。物は試しだけど、ちょっとうろついてみようよ」
「ま、マジか……」
真奥は思いきり気後れしているが、梨香は鈴乃と千穂を率いてずいずいと売り場に入っていってしまう。
「うわぁ、かわいいボトル!」
千穂が棚に陳列された、真奥にはなんだかよく分からない横文字の商品を見てうっとりとした声を上げる。
「あちら新商品でして、学生さんにも人気なんですよー!」
すると、千穂の声に呼び寄せられたかのように、突然その売り場の従業員が飛んでくるではないか。
「こちら、テスターですのでよろしかったらどうぞ!」
「ありがとうございます!」
従業員はそう言いながら、千穂に細いしおりのような紙を手渡す。
「あれは香水のテスターね。あの細長い紙に香水が染み込ませてあるの」
なんだろう、という表情を隠さない真奥と鈴乃に、梨香が先んじて解説を入れる。
「千穂ちゃん、行くよ!」
「あ、はい、すいません」
そして梨香は、千穂に少し強めに声をかけ、さらなる説明を千穂に畳み掛けようとする従業員から引き離した。
「引っかかると長いからね。こういうとこは、個人でどれだけ売り上げたかがダイレクトに評価に関わってくるから、皆ずいずい来るのよ。うかうかしてると食べられちゃうぞ」
「……」
梨香は冗談めかしているが、個人の売り上げが直接評価に反映されるということなら、先ほどの従業員の迅速さも頷ける真奥である。
「で、鈴乃ちゃん、お化粧したこと無い……ってのが正直信じられないけど、それなら色々塗りまくるようなんじゃなくて、肌に負担の無いオーガニック系なんかがいいんじゃないかなと思ったから、この辺りどう?」
どう? と言われもピンとこない鈴乃だが、真奥と違ってそこは女性なので、なんとなく梨香の指し示すショップの様子に気持ちが浮き立っているようだ。
「に、日本の化粧というのは、楽しそうだな」
鈴乃は小さく千穂に耳打ちし、千穂も嬉しそうに頷く。
「鈴乃さん、お化粧したら、絶対にもっと綺麗になると思います」
「そ、そうか?」
気恥ずかしそうにしながらも満更でもなさそうな鈴乃。
「とりあえず、色々聞いてみよう。こういうとこはすぐ買う必要は無いし、予算に応じて色々組んでくれるから、あまり気負わずに行くといいよ」
そう言って梨香は鈴乃と千穂を促して、店内に踏み込む。
一方の真奥は後に続いたものの、売り場を埋め尽くす自分の身の回りに存在しない概念だらけの商品を見回しながら一人立ち尽くしていた。
たまたま入口近くの棚に飾られていた商品宣伝用のPOPが目に入り、そこにあった見本品の、卓上ラー油の小瓶程度のサイズのボトルに入った『新作美容液!』のPOPがついた商品に五千円もの値札がついているのを見て、膝がガクガクと震えはじめる。
化粧品と名のつくものは寝癖を急いで直す際のワックスと、唇が荒れたときのリップクリーム程度しか持っていない真奥にとって、この空間はエンテ・イスラから日本に流れ着いた瞬間と同じ思いを想起させた。
全てが自分の理解を越え、見知った物が何一つ無い。
言葉が全く分からない。
自分達と同種の生き物(男性)がどこにもいない。
恐ろしさと心細さに、情けなくも座り込みそうになった瞬間、
「何ボケっとしてんの」
「っはっ!?」
唐突に肩を叩かれて我に返った。
ふと見ると、梨香が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「もしかして真奥さん、こういうとこ来るの初めて?」
「……あ、ああ」
「あー、じゃあきっついかもね。男の人には何がなんだかさっぱり分からんでしょ」
馬鹿にされるかと思いきや、思いがけず梨香の口調は優しかった。
「まー馴染む必要は無いけど、こういう空気を知ってる男ってのは得点高いから、社会勉強だと思ってもちっと我慢してね。いつかカノジョでもできたときには、来ることになるかもしれないんだからさ」
「お、おう……その、鈴乃とちーちゃんは?」
「お店の人に任せてきた。お医者さんみたいに問診とかあって、肌の様子とか機械で測ったりもしてくれるから、あとは鈴乃ちゃん自身で買う買わないは判断するしかないしね。断ってもOKってことは教えてあるし、千穂ちゃんにはまだ手の届かない値段だろうからお店の人も分かってくれるし、まぁそっちもお勉強かなって」
「そ、そうか……なぁ、一つ聞いていいか」
カノジョ云々は置いておいて、真奥には、この化粧品フロアに入った瞬間から気になって気になって仕方ないことがあった。
「女の化粧品って……どんだけ種類があるんだ?」
「え?」
梨香は真奥の問いに一瞬考え込んでから、不意ににやりと口角を上げる。
「本気で聞きたい?」
真奥は久しぶりに、人間に対して本能的な恐怖を覚えた。
「まず朝に顔洗う洗顔フォームから始まって化粧水、美容液、アイケア、乳液、クリーム。出かけるんならサンプロテクトに化粧下地、コンシーラーにファンデーション、肌の血色次第ではチークやハイライト。目元にもアイライナー、アイシャドー、マスカラ。時間があったり気合入った人なんかは部分マスカラや下まつ毛用マスカラとか分けて使うね」
「……マスカラってのは、あの両手でシャカシャカ……」
「楽器じゃないよ。定番ボケはやめてね」
「……」
「さすがに口紅は分かるでしょ? その口紅周りで言えばリップライナー、グロス、リップ美容液なんてのもあるね。手の爪のマニキュアなんかこだわる人は本当こだわるし、夏はみんなミュールとかサンダル履いて爪先出すから、ペディキュアも欠かせないわね」
「……」
真奥には、もう未知の世界の魔術の文言にしか聞こえない。
「これだけで終わると思ったら大間違いだぜ。家に帰ったらメイク落としに洗顔スクラブ、風呂上がりに念入りにボディケア。夜用化粧水、夜用美容液にパックとかして、除光液でマニキュアやペディキュアを落とした後、寝てる間のネイルケアすりゃ完璧よ!」
もはや真奥は埴輪の顔をしている。
真奥が梨香に遊ばれているのを見て助け船を出したのは、戻ってきた千穂だった。
「あの、年齢や肌質や環境によって使うものは違いますし、みんながみんなそんなに沢山使ってるわけじゃないですよ? 一つで何役もこなすのもあるし、あんまり驚かないで……」
「ありゃ千穂ちゃん、もういいの?」
「はい、鈴乃さんがあそこで……邪魔になっちゃいますし」
「あ、そっか。やってみるんだ」
「はい。お店の人も、やりながら色々教えてくれてるみたいです」
「……あ?」
真奥は埴輪になって空洞化した目を鈴乃の方に向けると、鈴乃は先ほど問診をしていたデスクから、大きな鏡のある化粧台に移動していた。
「何してんだ?」
「お店の一般的なラインで、試しに化粧してもらってるのよ」
「……タダでか?」
「基本無料だと思うけど」
「ラー油が五千円もするのにか?」
「「は?」」
「……いや」
ただ鈴乃の傍で待っていても仕方がないので、鈴乃が終わるまで梨香は千穂と真奥を連れて一通り売り場を回る。
梨香も決して裕福な生活をしているわけではないので高級化粧品ばかりを使い続けているわけではないものの、やはりそこはOLの空気の力。
学生の千穂や男性の真奥だけでは絶対に声がかからないだろうが、梨香が一緒にいるおかげで立ち止まると必ずなんらかのテスターや試供品が飛び出してきた。
「どれか気になったのあったら、千穂ちゃん持って帰る?」
「え、い、いいんですか?」
「お母さんに見つかっても怒られたりしないなら、折角来たんだし持って帰りなよ」
「う、うう……ど、どうしよう、どれにしよう」
「……」
千穂は瞳を煌めかせて梨香が手に入れた試供品を眺め、真奥はもうこのフロアにいる間は無念無想で過ごそうと心に決める。
「そろそろ鈴乃ちゃん、終わる頃かな」
千穂が遠慮がちに二、三の美容液の試供品を手に取ったとき、梨香が時計を見る。
三人が売り場に戻ると、そこには、
「ち、千穂殿……」
落ち着かない様子で、鏡台の前に座る鈴乃がいて、千穂は思わず声を上げる。
「わあ!」
「へ、変ではないかな……」
「そんなことないですよ! 鈴乃さん、すっごい綺麗です!!」
「おお、やっぱ元が良いと出来もいいねぇ!」
「つい、頑張りすぎてしまいました!」
なぜか千穂と梨香と一緒に、売り場の美容部員の女性まで、大仕事をやりきったようにいい顔をしている。
「ね、真奥さん! 鈴乃さん、綺麗になりましたよね」
「あ、ああ……まぁ、変われば変わるもんだなぁ」
真奥も千穂に突かれ、とりあえずそう言ってみる。
元から色白の肌のキメがさらに艶やかになり、凛とはしているものの幼い印象が拭えなかった鈴乃の顔立ちが、大人の女性のそれに代わっている。
日頃も血色のいい方ではあるが、口元のみずみずしさも増しているように見えた。
なので真奥は比較的素直にそう言ったのだが、なぜか梨香が顔を顰めて、
「これ見てコメントがそれだけかい」
と苦言を呈した。
真奥としてはそれでも十分社交辞令を果たしているつもりなのだが、なぜか千穂も微妙そうな表情。
「そ、そうか。おかしくは、ないか。うん」
だが当の鈴乃は意外にも、満更でもない様子である。
それまで『業務用の化粧』しかしたことのなかった鈴乃は、初めての『女性としての化粧』で生まれ変わった自分の面差しを、驚きつつもやはり気に入ったらしい。
「うん、鈴乃ちゃん、すっごく可愛くなってるよ。そこは間違いないから」
梨香は鈴乃に自信をつけるように背を叩くが、なぜかそのまま鈴乃の背を押し、
「じゃあもうちょっと見て回ろうか」
と言い出した。
「え?」
慌てたのは鈴乃である。
一瞬、化粧を施してくれた美容部員の方を振り返るが、そちらも梨香の言動をあまり気にしていないようだ。
「お待ちしております、お気に召しましたらまたお越しください」
「え? え?」
それどころか美容部員の女性は鈴乃の首から汚れ避けの不織布ケープを外すと、笑顔で鈴乃と梨香を送り出してしまう。
「気に入ったのは分かるけど、即決はNG」
「は?」
「とりあえずごはん食べに行って、ちょっとあちこちぶらつこ。そんで大丈夫なら、買いに行こうよ。ね?」
「あ、ああ……」
梨香の意図が分からない鈴乃だったが、千穂も何も言わないのでとりあえず従う。
そして真奥は、他人事ながら、あそこまでやってもらっておいて一銭も払わずに出てきてしまっていいのだろうかという不安でいっぱいだった。
「恵美の奴……今日の俺の昼飯代も持ってもらわなきゃ、割に合わねぇぞ……」
お昼も大分過ぎた午後三時。
真奥は京応百貨店の女性衣料品売り場の隅のベンチにぐったりと座り込んでいた。
鈴乃の化粧品を買いに来たはずなのに、化粧を施してもらって以降、なぜか女性陣のウィンドウショッピングが始まったのだ。
特に目的も無く、ただあちこちの店を行き来するだけの店内散歩とも言うべき動きに真奥はがっつり体力を削られてしまった。
鈴乃と千穂と梨香は、真奥の座るベンチに近い雑貨売り場で、可愛い食器を買うでもなくただ見て回っている。
鈴乃は余程化粧が気に入ったようで、鏡面の壁やショーケースのガラスなどに自分の顔が映ったときなど、気恥ずかしそうに、それでもどこか嬉しそうにはにかむのに真奥は気づいていた。
鈴乃がエンテ・イスラのことを梨香にうっかり話してしまうのでは、という恵美の心配も完全に杞憂で、鈴乃が日本の常識について不自然に分からないことなどは千穂がうまくフォローしてくれている。
当然サリエルも現れず、このまま何事も起こらない場合、真奥は本当にただ休日を鈴乃のために費やしてしまっていることになる。
まぁ、千穂と鈴乃には日々の食事について一応の恩があることは間違いないので、それならそれで構わないのかもしれないが、恵美の要請でというのがどうにも気に食わないというか腑に落ちないというか……。
「ん?」
そんないじましいことを考えていると、ふと鈴乃が真奥のいるベンチに戻ってきて、難しい顔をしながら隣に座った。
「どうした?」
「いや……少しその……」
鈴乃はほんの少し眉根を寄せて、頰のあたりを盛んに気にしている。
「あ、やっぱ来たかな。顔、なんか変な感じする?」
と、鈴乃の異変に気づいた梨香と千穂も真奥の所に戻ってきて、鈴乃の顔を覗き込む。
「少し、頰と目元が……ぴりぴりする」
「やっぱ来たか。いきなり全部は、ちょっとやりすぎたかもね」
梨香がそれほど不思議に思うでもなく鞄の中から、ウェットティッシュのようなものを取り出し、鈴乃に差し出す。
「お化粧落としに行くよ。お手洗い行こ」
梨香の提案に驚いたのは鈴乃もそうだが真奥もだった。
ここまでしっかり化粧をしてもらったのに、こんな短時間で落とすのか。
「だ、だが、せっかく……」
「元が綺麗な肌なんだから、荒れちゃったら最悪でしょ」
躊躇うのは鈴乃も同じだったが、そんな鈴乃を強引に立たせて手洗いに引っ立てる梨香。
「な、なんだどうした」
二人の背を見送りながら驚く真奥だったが、千穂が少し残念そうに解説した。
「多分……ラインの中に、鈴乃さんのお肌に合わないものがあったんだと思います」
「はあ……」
「お化粧って外に出ている間ずっとするものですから、靴を夕方買うのと同じで、疲れてくる頃や遅い時間になっても肌と合ってる化粧品が、一番自分にいい化粧品なんです。お母さんの受け売りですけど」
「なるほどな」
それであえて梨香は、食事をしたりあちこち歩き回ったりしていたのか。
「夏場は汗で浮くから特に選ぶのが難しいって、売り場のお姉さんも言ってました。鈴乃さん、お化粧気に入ってたみたいだから落ち込んでなければいいんですけど……」
千穂の心配は的中した。
梨香に連れられて戻ってきた鈴乃は、すっかり化粧を落としていつもの彼女の顔立ちに戻っており、肌の違和感は無くなったようだが明らかに意気消沈している。
「そ、そんなに気に入ってたのか」
鈴乃の落ち込み様に驚く真奥だったが、一方の梨香はといえば、
「だーかーらー、よくあることだからそんなに気を落とすことじゃないって。それに、ようやくこれから本番なんだから、しゃきっとしてしゃきっと」
と鈴乃の手を取ってどこかへと向かいはじめた。
千穂と真奥も顔を見合わせながら慌ててそれを追う。
梨香が向かったのは、ルミナ新宿の、確かに化粧品売り場なのだが先ほどのように美容部員が大挙して待ち構えているのではなく、普通の薬局よりちょっとおしゃれな程度のコスメフロアだった。
値段も、先ほどの売り場に比べればずっと安価なものが揃っているのが一目で分かる。
客層も、千穂より若い学生から主婦に至るまで多種多様だ。
梨香は売り場の様子を見ながら鈴乃に言う。
「プロにやってもらったんだから、大体の感覚は分かるでしょう? そしたら揃えられるもんはちょいちょい安売りやプチプラで揃えて、自分に一番いい組み合わせを探して。本当のところ、私達くらいのトシの女がさっきみたいなお店なんかで買えるのは、年に一回思いきって化粧水や美容液を一、二本が関の山よ」
「……」
「化粧品は、自分に合うかどうかが第一。はっきり言って値段の高い安いは二の次よ。こういうとこから色々試して試行錯誤するの。一回で全部自分に合う化粧品を見つけるとか無理無理。いきなり高いの買って、さっきみたいに合わなかったりしたらダメージでかいじゃん?」
「う、うむ……なるほど」
「あ、あれ、私が使ってる日焼け止めです。種類いっぱいあるんで、鈴乃さん、どうですか?」
千穂が自分の愛用品を見つけて棚の前に鈴乃を誘う。
「そ、それなら最初からこっち来ておけば……」
そんな千穂と鈴乃の様子を見ながら真奥がそう言うと、梨香は少し肩を竦めた。
「鈴乃ちゃんの年齢まで化粧したことないって、自信が無いとかトラウマがあるとか、何かお化粧自体に抵抗があんのかなって思ってさ」
鈴乃は千穂と二人で、千穂が愛用しているというメーカーの棚を見ながらあれこれと話し合っていた。
「折角美人なのに最初で躓いてほしくなかったから、まずいいとこでお試しって思ったのよ。私だってあんな高い所、何回も足踏み入れたことないわよ。いつも使ってる化粧水は、家の近所のタケツヨの千円のやつだし、私も恵美に期待されてるほど、お化粧詳しいわけじゃないもん」
つまりさっきの化粧品羅列の呪文は、やはり真奥をからかっていたということだ。
「それでも千円か……女ってのは大変だな」
飲み食いできない物のランニングコストとしては十分高額に感じる真奥だが、梨香は苦笑するだけだ。
「それを引き合いに出して男に『女って大変なのよ!』とか言う奴は私も嫌いだけど、困ったことに、大変なはずの面倒事が嫌いじゃないからね、女は。だから余計大変なのよ」
考えても詮ないことだが、もし真奥は自分が女だった場合、日本に降り立ったら最低限の化粧品を揃えたりしたのだろうかと考えてしまう。
だが木崎も、同僚の女性クルーも皆何かしらの化粧をしているのを見ると、やはり女性の社会常識として最低限の身だしなみは整えていただろうと思い、ついでそれにかかる金額に思いを馳せ、自分は男で良かったと改めて思うのだ。
「だからね真奥さん。千穂ちゃんも、実は恵美も、あんたに会いに行くときはそれなりにおめかししておるのだよ、少しくらいその努力を褒めてやっているかい?」
「……気持ち悪い言い方すんな。あんた俺がそんな気の利いた男に見えるのか」
「見えないから言ってんの。まぁ恵美とは仲悪いらしいからいいけど、千穂ちゃんなんか、褒めてあげたら喜んでくれると思うけどなぁ?」
「…………」
千穂相手の話だと、無下に切り捨てるわけにもいかず、魔界の王は貝の沈黙を余儀なくされる。
褒める褒めない以前に、真奥は千穂に対して、言わなければならないもっと大きな回答を保留にしているのだ。
それをきちんと答えるまでは、そのようなことを軽はずみにするべきではないとも思う。
「ま、男の人にしてみりゃ無駄で面倒に見えるだろうねぇ。でも、最近は男性コスメとかも流行ってるんだぜ?」
「はぁ!? 男が化粧すんのか!?」
「女ほどがっちりじゃないけどね。ムダ毛剃ったり、肌ケアしたり、男性用のナチュラルカラーの口紅とかあったりするんだよ?」
「冗談じゃねぇよ! そんなことしてる奴見たことねぇぞ!?」
「折角だから試してみたら? お店でお客の受け良くなるかもよ?」
「なってたまるか! 男は素のまま男らしいのが一番だ!!」
「だからその男らしくなるための化粧もだね……!」
「これ以上余計な出費増やしてたまるか!!」
結局真奥は、鈴乃と千穂の買い物が終わるまで梨香に遊び倒されてしまったのだった。
※
夕方、新宿で梨香と別れ、笹塚駅で千穂と別れた真奥と鈴乃は、並んでアパートへの帰路につく。
鈴乃の手には、ルミナのコスメフロアで購入した化粧道具一式が入った紙袋と、京応百貨店で化粧をしてもらった店の小さな紙袋が一つ。
ハーブの香りがどうしても気に入った、という小さな美容液を一瓶だけ購入したのだ。
「随分、機嫌がいいな」
最初の化粧を落としたときは完全に意気消沈していた鈴乃も、今はどこか満足げに微笑んでいて、今日一日を楽しんだことがはっきり分かる表情だった。
「そうだな。柄にもなく楽しんでしまった。こんな経験は初めてだったからな」
「ん? この前も、なんだか色々好き放題買い物してたじゃねぇか」
鈴乃と恵美と梨香が初めて連れ立ってマグロナルドに来たときは、鈴乃は相当色々な買い物をしていたような気がして真奥は首を傾げる。
「ああ、そういうことではない。こう……」
鈴乃は歩きながら、千穂と別れた笹塚駅の方向を振り返る。
「友と一緒に、ただ純粋に休日を楽しむ、ということをしたことが無かったから、今日はとても楽しかった」
「ふーん……そっか」
真奥も詳細を聞いたわけではないが、エンテ・イスラにいた頃の鈴乃は、かなり凄惨かつ過酷な日々を送っていたらしい。
一度はそんな過去からの波に吞まれて、恵美や千穂すら犠牲にしそうになったのだ。
それを思えば、今の彼女を取り巻く環境は、あまりにも明るく、快いものだろう。
「貴様にも、感謝せねばなるまい」
「あ?」
「エミリアに言われたのだろう? 私の様子を見張れと」
「……まぁ、それだけが理由ってわけでもないが……」
「エミリアも、まだ私を全面的に信じられはしまい。それだけのことを、私はしてしまったからな。日本に居座っているサリエル様が、千穂殿に害を及ぼさないとも限らない」
「……ああ」
「私もその懸念は持っていた。だから正直、貴様がいて少しだけ心強かった」
「おお? どうした、突然」
「お前達やエミリアが、この国に来て今のような生活をしている理由が、なんとなくだが分かったということだ」
そして鈴乃は、夕暮れの中でやおら立ち止まると、はっきりと真奥に向かい合う。
「魔王、私は貴様の敵だ。それは変わらない。だが、これだけは信じてほしい。私はもう決して、千穂殿やエミリアを裏切るようなことはしない。だからエミリアが貴様を討伐すると決めるまでは、私も貴様達に手を出したりはしない」
「いい話のようで、死刑の執行猶予申し渡しに聞こえなくもないのは気のせいか」
真奥は苦笑するが、鈴乃の言葉に噓偽りがないことだけははっきりと理解できた。
「お前の好きにしろよ。恵美はともかく、ちーちゃんを悲しませるようなことさえしなけりゃ、それでいい」
「承知した。それと、そのような状況だからこそ、貴様からの借りを清算したい。アルシエルもやかましいからな。早いところ、代わりの自転車の目星をつけてくれ」
「言ったな。覚悟してろよ。めっちゃいいやつでも遠慮しないからな」
真奥はにやりと笑ってそう宣言すると、
「んじゃ帰るか。そうだお前、恵美がどうこう言うんならそろそろ携帯電話買えよ。お前の様子が気になるってんで恵美が前にもましてアパートに頻繁に来るからうるさくて仕方ねぇ」
「携帯電話こそ、エミリアに相談だな。今日のことも礼を言わねばならないし……」
夏の夕暮れ時。
敵同士の隣人同士。魔王サタンと訂教審議会筆頭審議官クレスティア・ベルの話題は、今日の買い物のことから、明日の朝食の献立と芦屋の料理の腕についての話題に移ろいつつあったのだった。