はたらく魔王さま!SP2

勇者、敵の台所事情を聞く ─ 芦屋の場合 ─

 鈴乃が梨香達と共に化粧品を買いに行った翌日の昼のこと。

「エミリア、貴様自炊はするのか」

「は? いきなり何よ」

 その後が気になり鈴乃の部屋を訪ねてきた恵美に、ヴィラ・ローザ笹塚の二階共用廊下で顔を合わせた芦屋が藪から棒にそんなことを言い出したのだ。

「自炊はするのかと聞いている」

「よく分からないけど……日によるわよ。一人暮らしだから一回に沢山作って二、三日同じもの食べちゃう日とかもあるし、今は夏だから簡単なもので済ませるとか、疲れてるとコンビニのカレーとか商店街のお惣菜買っちゃうこともあるけど、それがどうしたの」

 コンビニとお惣菜のくだりは言う必要が無かったか、と思った恵美。

 芦屋の主夫としての能力が高いのは周知の事実なので、そのことをネタにまた何か嫌味の一つでも言い出すのかと思いきや、芦屋は深刻な顔で頷くと、さらに妙なことを聞いてきた。

「貴様の平均的な勤務時間は、九時五時か。それとも残業などあったりするのか」

「はぁ!? なんでそんなこと知りたいのよ!?」

「他に聞ける者がいないのだ!」

 普段なら妙なことを訪ねてくる芦屋など突っぱねるところだが、やけに真剣な面持ちだったために、恵美は仕方なく答えてやる。

「……正社員じゃないから、私は滅多なことじゃ残業したりはしないわよ。終業は入り時間次第だけど十七時から十九時ってところかしら。遅番の人なんかは十一時とか十三時に入ったりもあるみたいだけど」

「やはりそうか……」

 それだけ聞くと、芦屋は深刻に眉根を寄せて何かを考え込んでいる。

 一体なんなのだろう。恵美は首を傾げる。

「あなた、魔王みたいに定期的なアルバイトでも始めるつもりなの?」

 この前、日焼け止め云々の話題で家計がうまく回らないことを気に病んでいたことを思い出しそう尋ねると、

「その可能性も、捨てきれんとだけ言っておく。邪魔したな」

 そう言って、部屋に戻ってしまった。

「なんなのよ……」

 恵美は不穏なものを一切感じないことが逆に不穏な気がしながらも、とりあえず鈴乃の部屋の呼び鈴を押そうとして、

「やはりこのままではいかん!!」

 突如響き渡った芦屋の怒声に驚いて目を見開いた。


         ※


「い、いきなり大きな声出さないでよ! 一体なんなのさ!」

 芦屋が部屋の真ん中で仁王立ちのまま怒声を上げたものだから、漆原は思わず畳から腰を浮かして飛び上がってしまう。

「……このままではいかああん!!!!」

「だから何がさ!」

 漆原は芦屋の殺意に満ちた目に嫌な予感を覚えつつ、先を促す。

「漆原、貴様、今の状況をどう思う!?」

「はぁ? 今の状況って?」

「我々はこのままで良いのか、ということだ!!」

「はあ、何、それはつまり、本当は魔王の真奥がアルバイトして、芦屋が主夫してるこの状況ってこと?」

 このままでいいのかと聞かれれば、客観的に見れば良くないだろうと漆原でも思う。

 一応この部屋に住まう三人は魔界の頂点に君臨する大悪魔達であり、本来はエンテ・イスラの人間世界を征服するべく日々努力をしなければならないはずである。

 人間に身をやつしてのフリーター生活は当然自分達の本意ではなく(漆原自身は結構楽しんでいるものの)、家主にして魔王たる真奥も、必ずエンテ・イスラ征服を成し遂げると日々公言して憚らない。

 だから芦屋が言いたいこともそういうことなのだろうと思いきや、

「もっと根源的な問題だ! 我々はこのまま、唯々諾々と佐々木さんやベルの食料援助を受け続けて良いのか!!」

「芦屋の根源の置き場がよく分からないよ」

 漆原はがっくり肩を落としてから、それでも突っ込む。

「でも何いきなり。何か問題あるの?」

「大アリだ! 貴様はそうは思わんのか!」

「だから何がさ。ちゃんと説明してくれなきゃ分かんないよ」

「愚か者め! 良いか! クレスティア・ベルはそもそも我らの敵だ。敵からの塩を受け続けていること自体、我らの矜持にかかる由々しき事態だ」

「今更な気がするけど……変な話だけど、それはお互い利害が一致したってのもあるでしょ」

 鈴乃は聖別食材で真奥達の弱体化を狙いたいし、真奥達は鈴乃の食糧援助のおかげで家計が助かっている。

 何がプラスで何がマイナスかはともかく、確かに鈴乃と魔王軍の利害は一致していた。

「だが! それも奴の聖別食材の在庫がもつ間だ。その後、ベルが普通の食材を援助してくれるとは思えんし、そんなものを受け入れることもできん。となると、その日から家計が一気に傾く!」

「完全にベルのご飯アテにして家計組んでんじゃん。てか家計が傾くって大げさなんぐっ」

「貴様の通販による無駄遣いも大いに影響しているのだぞ……自覚はあるのか、んん!?」

「近い近い近い苦しい苦しい苦しい」

 芦屋に摑まれた胸倉を振り払いながら、漆原は喚く。

「でも佐々木千穂は普通に好意でやってくれてんだろ。あいつだって色々持ってきてくれてんだし、ベルの分が無くなってもそこまで影響ないんじゃないの?」

「だから貴様は愚かだというのだ。佐々木さんは一人暮らしをされているわけではあるまい」

「最近の芦屋、どうして佐々木千穂に対してナチュラルに敬語なの……」

「佐々木さんの差し入れは、ご両親のお力添えなくしては成り立たぬものが多い。それは材料的な意味でも、金銭的な意味でも、調理道具的な意味でもだ。どういうことか分かるか。佐々木さんから過分な援助を頂くということは、どこかのタイミングで相応の『お返し』をしなければ、佐々木さんのご両親から魔王城への信用に関わるのだ!」

 千穂曰く、魔王城に来るのは両親公認ということだが、逆に言えば千穂の両親から真奥への信用が失われた場合、千穂も魔王城に来るのが困難になってしまう。

 まして真奥一人ならともかく、家人全員が千穂の差し入れを本気で当てにしているなどと先方に知られれば、魔王城の評判はストップ安に陥るだろう。

 どれだけ千穂が自分の好きでやっていること、と言い張ろうとも、保護者の立場からすれば、千穂の行動全てを看過することはできないだろう。

 そして魔王城の家事家計の全権を預かる芦屋の立場は、どちらかというと千穂の両親の立ち位置に近い。

「分かるけど、色々突っ込みたくはある」

「かと言って、佐々木さんの性格では、魔王様ご自身がよほど強く仰らない限り、手料理を持ってくるのをやめろと言っても聞き入れてはもらえないだろうし、こちらとしても佐々木さんのご厚意を無下にするのは心苦しい」

「あー、真奥そういうの言えなさそう……」

「そこで本題だ!!」

「わっ! だ、だから急に大声出すなって」

「お返しをするにしろ、家計を見直すにしろ、これ以上収入という面に於いて魔王様お一人にご負担をかけるわけにもいかない。なので、私もこれまでのような単発のアルバイトだけではなく、定期的にシフトを組んで出勤する仕事を探そうと思う」

「あ、そう。頑張ってね」

 割と予想できた話だけに漆原としては拍子抜けだが、芦屋の、本当に本当の本題はここからだった。

「だがそうすると、これまで完璧を期した私の家事が、滞る危険性もあるわけだ」

「う、うん、まぁ、そうだね」

 漆原の脳裏に嫌な予感がよぎる。というより、確信が湧き起こる。

「そこで漆原、貴様の出番だ」

「やっぱり!!!!」

「私が出勤する日の家事を、貴様が担当しろ。拒否は許さん。拒否した場合は、この部屋から叩き出すぞ」

「そ、そんな無茶苦茶な! だ、大体芦屋は魔力に関することの調べものだってあるんだろ! そっちはどうするんだよ!」

「貴様のパソコンのインターネット機能は飾りか? 動画サイトと通販サイトを見る為だけのおもちゃか、んん?」

「あ、いや、その……」

「魔王様のように毎日働きに出るとは言わん。だが週に二日、可能ならば三日、働きに出られるだけで家計は大きく上向く。分かるな?」

「わ、分かるけどでも……」

 漆原も、そう理詰めで来られると、自分の行いを全面的に肯定するつもりはない。

 だが、じゃあやれと言われてやれるかというと、それは全くの別問題。

 たまに食器を洗わされることがあると、大体漆原の洗った皿は油が残っていたり、乾いた米がこびりついていたり、洗った後のシンクにゴミが残っていたりして、その都度芦屋の逆鱗に触れるのだ。

 手伝っても手伝わなくても不興を買うなら面倒事は避けたい漆原だったが、そんな漆原の内心を察してか、芦屋は難しい顔で頷いた。

「もちろん、日がな一日ごろごろしている貴様に最初から全てを押しつけるつもりはない」

「へ?」

「魔王様も新人が一人前に育つかどうかは研修が九割、とまで仰っていた。私もそう簡単に勤め先が見つかる保証は無いし、その間貴様にたっぷりと家事一切を仕込んでやる!」

「うえええええええ!?!?」

 漆原にとっては迷惑この上ない宣言だったが、芦屋の目はどこまでも本気だった。


         ※


 全開の窓から聞こえてくる、隣室の悪魔大元帥と悪魔大元帥の、どこまでもスケールの小さい軍法会議を聞きながら、恵美と鈴乃はため息をついた。

「あなた、毎日こんなこと聞いてるの」

「そうだな。むしろ今日はかなり特殊な会話だと思うほど、魔王もアルシエルもルシフェルも同じ話しかしない。全員の生活様式が完全に固定されているとしか思えないな。他の話題が入り込む余地が無いのだろうとも思う」

「……」

 鈴乃を訪ねてきたら、突然廊下で芦屋に勤務時間を訪ねられた恵美。何事かと思いしばし鈴乃の部屋に逗留していたら、芦屋の主夫力が高い水準にあるという事実だけが察せられる会話を聞かされて、げんなりしてしまう。

「もしアルシエルがどこかに勤務するようなことになったら、そちらも見張りに行ったりするのか?」

「冗談じゃないわよ」

 恵美はそうなったときのことを想像し、頭を抱えてしまった。


         ※


「いいか漆原! 家事とは大まかに分けて掃除、洗濯、炊事の三本柱で成り立っている」

「はいはい……」

 漆原は正座状態で堂々たる宣言をする芦屋を見上げながら、やる気の無い声で頷く。

「何せ我らが住まう城はこの規模だ。一つ一つの作業は決して大きな困難を伴う量にはならない。慣れない貴様でも、炊事以外は二時間もあれば完遂できるだろう!」

「ええ……二時間も……」

「貴様は毎日何時間パソコンの前に座っている?」

「はい、すいません」

「そして炊事に関してだが、貴様に一汁三菜全てを作らせようとは思わん。冷蔵庫や家計との兼ね合いもあるし、貴様に火を使わせるのは不安すぎる」

「一応これでも炎の魔術だって使う悪魔大元帥なのに、なんでガスコンロの火使うだけでそんな不安がられなくちゃいけないのさ」

「とにかくだ、炊事に関しては米を研ぐ、炊飯器のスイッチを入れる程度のことしかさせるつもりはない。問題は、洗濯と掃除だ。これは基本的に日中に行わなければならない。何故だか分かるか?」

「人のことバカにするにも限度があるだろ」

「普段貴様が何時に起床するのかを思い出してから発言しろ」

 完全に小学生以下の認識で扱われていることに不満を呈する漆原だが、芦屋は全く意に介さない。

「洗濯は朝八時から九時ごろに始めるのが理想だな。この季節だともうそれくらいから陽は十分照っているし、近所迷惑にもならない」

「近所迷惑って……隣にベルがいるだけなんだし、そんなこと気にしても……」

「必要以上に相手に付け入る隙を与えるなということだ! ただでさえベルは我々の敵で、それでいて食糧援助を受けてしまっているのだぞ!」

「あのさ、付け入る隙とか食糧援助とか、殺伐としたいの仲良くしたいのどっちなの」

「掃除も同様だ。魔王城の掃除機は安物だからな、排気音がやたらとうるさい。掃除と洗濯を同時にやる必要が出る場合は先に掃除機をかけ終えてから、洗濯物を干すのだ。そうでないと、埃が舞うからな」

「ベランダが無いってのは、辛いことだね……」

「では早速、今日の分の洗濯物を片づける。そして洗濯機が回っている間に掃除機をかけるのだ。良いな!」

「はいはい……」

「返事は一回でいい!」

「あああああもう!! 分かったからさっさと始めてよ!!」

 こうして、芦屋の漆原への家事指導が幕を開けたのだった。



「ねぇ、これ、どこで買ったの。ていうか、どこで見つけたの。今の家庭用のスタンダードって、全自動じゃないの?」

 アパートの共用廊下に出た漆原は、魔王城の洗濯機を見下ろしながら顔を顰める。

 かつて真奥が、冷蔵庫や自転車と一緒に大人買いした、魔王城の備品の中でもなかなかに高価格帯にある家電だ。

「貴様魔王城に住んでこれまで何を見ていた。洗濯機の形すら分かっていなかったのか」

「いや、そういうことじゃなくてさ。今時の洗濯機って、ドラム式とか全自動とかじゃないのってこと! そういうのだって安いのあるだろ!?」

「二層式はそれに輪をかけて安いと、魔王様が仰せだったのだ!!」

「……買ったの真奥なの」

「冷蔵庫もな」

「前から思ってたんだけどさ、真奥も芦屋も、もう少し安さ以外のところにも目を向けたら? 買い物下手すぎるんじゃない? そういうの安物買いの銭失いって言うんだろ」

「……まぁ、私も、冷蔵庫については……そう思ったこともないでもないが……」

「思ったことあるんだ」

 珍しく芦屋が漆原に同意するが、しかし芦屋は一つため息をついてから、二層式の洗濯機の表面に手を置いた。

「だが洗濯機に関しては、衣類を大切に扱うならば、二層式は意外と悪くないのだ。中にはなまじの全自動より値が張る二層式もあるそうだぞ」

「そうなの? てか芦屋、ネットもテレビも無しにそういう情報どこから手に入れてるのさ」

「二層式の利点は、なんと言ってもコンピューター制御でないことだ。少ない水や洗剤で、少ない洗濯物を洗うことができるのは大きなメリットだな。我ら三人の中で最も洗濯物が多いのは外に働きに出ている魔王様だが、お一人ではそれほど大量の洗濯物は出ないし、お召し物の数自体、そう多いわけでもない。少ない洗濯物を頻繁に洗わなければならない場合は、使う水と洗剤の量をトータルで考えると、安価な全自動ではやはり損になる。貴様が魔王城に住むようになってからは、より安価な粉石鹼を使うようにしている」

「こな……せっけ……」

 芦屋がさりげなく家計の切り詰めをアピールしてきて、漆原は二重の意味で衝撃を受ける。

「バカにしたものではない。この暑さで水道の水もぬるくなっていてよく溶けるしな。世間では液体洗剤で除菌だ香りの柔軟剤だとやかましいが、洗濯機や衣類を適正に管理していれば、あんなものは本来不要なのだ。除菌除菌と騒がしい連中は、細菌を自分の周囲から完全に消滅させられるとでも思っているのか。第一魔王様のお仕事内容を考えれば、商品の香りを邪魔する要素があっては業務に差し支えるだろう。私は食事中に、芳香剤の化学的な匂いをかぎたいとは思わない」

「いや、僕に言われても……てかだからテレビも無いのにそういう話どこから……」

「それに、脱水と洗濯を同時にできるのも大きい。色落ちのしやすいものや、タオルなどを通常の衣類と分けて洗い、脱水中に別の種類の衣類を洗濯をするなどして、時間も節約でき衣類も痛みにくくなる。下着と一緒にハンカチやタオルを洗うのには抵抗があるだろう。洗濯物の種類によって小分けに洗濯するのにも、二層式の容量の小ささは大きな武器になる」

「はいはいもう分かったよ二層式の利点はさ。で、この洗濯機はどう使えばいいの」

「うむ、ではまず、左が洗濯槽、右が脱水層なのだが……」

 芦屋の二層式洗濯機への愛着に辟易した漆原は、先を急かすことで苦行を終わらせようとする。

 だが、いざ話を聞きはじめると、漆原の目からしてみれば、芦屋のこだわりは全く意味が分からなかった。

「え、シャツと一緒に洗うときタオルは、このネットに入れるんだっけ?」

「違う! タオルのネットはこちらだ! ……おい! 先ほども言ったろう! シャツのボタンは外してから回せ! おいこれはなんだ! 漆原! ポケットに何か紙が入りっぱなしになっていただろう! これではやり直しではないか!!」

「ボタン留まってたってちゃんと回ってるじゃん何がだめなのさ!」

「ボタンは汗をかきやすいところについているんだ! そうやって放置すると、汚れが沈着して衣類の寿命が縮むのだ!」

「あーもう面倒だなぁ所詮全部布じゃんかもー……で、脱水はこれだっけ?」

「違う! それは洗濯タイマーだ!」

「えー、じゃあこれ……」

「パネルに書いてあるだろうよく読め! それは排水つまみだ!」

「もう! こんな一気に色々覚えられるわけないだろ! ちょっとは考えさせてよ!」

「あれだけ大量のスイッチがついているパソコンを軽々扱えて、どうしてたった五つのつまみがあるだけの洗濯機を扱えんのだ!!」

「そういう問題じゃないだろ!? ……あれ、なんでこれ脱水動かないの? この一番右のでいいんでしょ?」

「書いてあるだろう読まんか! 二分以下で脱水をするときは、一旦二分以上のところにメモリを合わせてから戻せと!」

「何それ面倒くさい!! いちいち戻さなきゃ動かないような仕組み作るとか頭おかしいんじゃないの!?」

「パソコンを使う者に言われたくない! ……って、おい! 脱水キャップは!?」

「はぁ?」

「脱水機を使うときは脱水キャップを中に落とせと言ったろう! そうでないと脱水機の中で洗濯物がうわっ!」

 動き出した脱水層がごうんごうんともの凄い音を立てて回りはじめ、芦屋が慌てて脱水機のスイッチを切る。

「……こうなるんだ! 下手をすると中から洗濯物が飛び出す恐れもある! 脱水をするときは、脱水キャップを入れろ!」

「そういう、プラグイン入れないとまともに動かないソフトみたいのやめてよね。中蓋入れないと飛び出すとか、なんのためにその上蓋ついてるんだよ!」

「日本語を喋れ!」

 試しに洗濯機を回させてみればこの有様である。

 芦屋はこの先のことを考えて早くも暗澹とした思いで目の前が暗くなり、漆原は漆原で家事のあまりの面倒くささに、芦屋とは正反対の理由で暗澹たる思いがしてきたのだった。


         ※


「実際どうなのだ、ゼンジドーと、二層式とやらでは」

「私は全自動しか使ったことないから詳しくは知らないけど、確かに下着と他のものを同時に洗うのはどうかとも思うけど、少量洗濯もできるから分けて洗濯してもそれほど時間はかかる印象ないわ。それこそ『全部自動』なんだもの」

 二人は、鈴乃が買い置いていたという煎餅を齧りながら隣の洗濯機談義を引き継いでいた。

「ふむ……まぁゼンジドーを買う余裕が無いからこそ、アルシエルは手間をかけることで機能が至らない部分をカバーしようとしているのだな」

「でもルシフェルがやろうとして、できるものかしらね」

「無理じゃないか?」

「まぁ、無理でしょうね」


         ※


「……ねぇ、芦屋」

「なんだ」

「二時間もかかんないじゃん」

「そうだな。今日は洗濯物も少なかったし、掃除機は昨日かけたからな」

 カジュアルコタツで向かい合い、芦屋と漆原は麦茶を飲みながら休憩の最中である。

「それに、別に終わったわけではないぞ。この後乾いた洗濯物を昼過ぎに取り込んで、それをきちんと畳んでしまう作業もある」

「それだって僕ら全員の服を洗濯しても大した量じゃないだろ。そりゃご飯作るのとかは手間かもしれないけどさ、芦屋の仕事量って、実はそれほどでもないんじゃないの? 掃除も洗濯も、買い物だって毎日必ず決まった時間にしなきゃいけないってもんでもないだろ」

「何が言いたい」

「よく主夫業は大変みたいなこと言うけどさ、真奥みたいに外に出て働くのと比べて拘束時間があるわけでも、どんなのが来るかも分からない客を待ち構えなきゃいけないわけでもないじゃん。これまで気にしてなかったけどこういう家事が終わったら、それ以外の時間何してるのさ」

「何故日がな一日ごろごろしている貴様に、そんなことを偉そうに糾弾されねばならん」

 芦屋は眉根を寄せながら、グラスの麦茶を煽るとやおら立ち上がって押し入れに向かう。

「まぁ、そうだな。ここ一、二ヶ月は色々あってあまり時間が取れなかったが……」

「?」

 そして押し入れの下の段から、大きな段ボールを引きずり出してくるではないか。

「貴様が来る前は、短期派遣の仕事が無い日は、大体図書館で写経をしていた」

「しゃ、写経?」

 芦屋の口から唐突に飛び出した意味不明な単語に漆原は驚くが、芦屋が段ボールから取り出したものを見て、その単語の意味する内容を知ることになる。

「何……これ」

 段ボールいっぱいの大学ノートや、コピー用紙の束。

 漆原が手に取って開いてみると、日本語で書かれた芦屋の文字で全ての紙面がびっしりと埋め尽くされていた。

 驚いて表紙を見ると、そこには太いマジックで『新聞・経済面、九十年~』と書かれていた。

「まさかこれ、全部……」

 驚く漆原の前で、芦屋は中でも一番古そうなノートを手に取る。

「懐かしいな。これはまだ右も左も分からなかった頃、とにかく魔力や魔術に関するものをと思って手に取った少年少女向けの冒険小説を丸写ししたものだ。作品の中だけにしか存在しない魔術体系を本物と信じて、必死に書き写したせいでペンダコができたものだ。そっちの新聞はもう大分物事が分かるようになってからのものだから、丸写ししたりせずに要点だけ抜き出して纏めた、そこそこ高度な内容になっているはずだぞ」

「……」

 書かれている内容ももちろんだが、最初のノートと別のノートを比較すると、芦屋の字が少しずつうまくなっているのも見て取れた。

「全部手書きで写すって……ど、どんだけ時間かかったの……っていうか、図書館てコピー取れるんじゃないの?」

「コピーもタダではないからな。自分の手で書けば文字の手習いにもなるし勉強効率も良い。私は魔王様とは違い、日本に来たときにはもう人間をどうこうできる魔力は残っていなかったからな。何か日本や地球のことを学ぶとなれば、この方法しかあるまい」

「……」

「それに魔王様が外で働き、私が調べものと家事を担当するという分業体制になってからは、自由な時間の少ない魔王様の社会勉強をお助けするための資料にも活用していただいている。図書館も、新聞や百科事典などは借り出せないからな。今でも図書館に行って最初に記録するのは新聞だ。魔王城が最速で得られるリアルタイムの情報は、それしかない」

「今どき、図書館の新聞が最速のリアルタイムって……まぁ、いいけど」

 漆原は段ボールに収められた芦屋の日本での歴史を眺めて、複雑な思いにとらわれる。

 漆原自身、今のこの状況を(エアコンが無いこと以外は)快適だと思う反面、こんなことになるとは思いもしなかったというのが本当のところだ。

 それを芦屋と、真奥は、地道な努力で自分なりに良い方向に物事を進めようとしていたのだ。これは、その過程での欠かせない土台だったのだろう。

「でも何も婦人雑誌や女性向け雑誌まで律儀に纏めなくても……芦屋、芸能人の動向とか占いとか興味あるわけ?」

「婦人雑誌は節約術や料理術の宝庫だ。バカにしたものでもないぞ。若い女性向けの雑誌はファッションの観念も勉強になったし、それ以外にもやたらと色々な生活不必需品の広告が入っていて、生活に不必要なものを選別する良い材料にもなる」

「持ち上げるのかバカにするのかどっちかにしてよ」

「それを読んでいたからこそ、佐々木さんの魔王様への覚えを良くするお手伝いができたということもある……っと、もうこんな時間か」

 芦屋はふと、時計に目をやってやおら立ち上がる。

「漆原、とりあえずシャツの畳み方だけ教えておく。私はこれから図書館やスーパーなどに行かねばならん。この陽気なら洗濯物も三時には乾くだろうから取り込んで畳んでおけ。にわか雨には気をつけろよ」

「……分かった」

 漆原は神妙な様子で頷く。

 真奥と芦屋のこの一年弱の日本での苦労の証を前にして、さすがの漆原も何も思わないほど鈍感ではない。

 漆原は複雑な顔で、芦屋が押し入れの衣装ケースから取り出したTシャツを受け取った。

「いいか、Tシャツはこうして横向きに置いて、肩のところを左右均等の幅で折りながら……」

「こう?」

「そうだ。一折するごとにきちんと手でこうアイロンをかけると、びしっとまとまって綺麗に畳める」

「……なんか、芦屋みたいに綺麗に四角にならないんだけど……」

「アイロンをかけないからだ。こう手でなぞって、全体を畳んだときに少し肩を内側に入れ込んでだな……」

「本当に、こういう知識をどこで手に入れるんだよ……」


         ※


「あ、出かけるみたいね」

 芦屋と漆原が衣類の畳み方云々の話をしはじめてからしばらくして、芦屋が外出する気配がした。

 恵美はなんとなく魔王城側の壁を見やる。

「追うのか?」

 その背に鈴乃が尋ねるが、恵美は無表情で首を横に振った。

「さっきまでの話聞いたら、予言者じゃなくたってアルシエルの行動は予測できるわよ」

「それもそうだな」

 恵美と鈴乃は諦め顔でため息をつく。

「ところであなた、これからしばらく日本にいるつもりなんでしょう?」

「そうだな。当初考えていたより、長期滞在になりそうだ。隣の奴らが、ずっとあの調子でいる限りは」

「……あなたも変なところで義理堅いわね」

 数日前までの、頑迷な態度だった鈴乃のことを思えば、恵美も苦笑せざるを得ない。

「家電とか携帯電話とか、お金に余裕があるなら買っておいたほうがいいわよ?」

「そこのところ、エミリアに聞いておきたいと思っていたのだ。自分でパンフレットを集めても、何が書いてあるのかさっぱり分からなくて……」

「携帯電話のことなら任せて。どんなのがいいの?」

 それからしばらく恵美と鈴乃は、これからの鈴乃のライフスタイル構築について、あれこれと話し合った。

 途中かなり強いにわか雨が降り、隣室の漆原が慌てたのか何やら大騒ぎをしていたことを除けば、特筆すべきことは何も起こらなかった。


         ※


「う・る・し・は・ら──────!!!!」

「おうっ!?」

 陽も沈み、恵美もとっくに帰宅した頃、エンテ・イスラから持ち込んだ宝飾品などをどれだけ日本円に換金すれば当座の生活に問題ないかを計算していた鈴乃は、壁を突き破って聞こえてきた芦屋の殺気だった怒声に正座したまま飛び上がってしまう。

「な、なんだ!? ……うわっ!?」

 外に飛び出した鈴乃がまず目にしたのは、魔王城の洗濯機から吹き出されたらしい、廊下を白く染め上げる大量の泡だった。

「な、何が起こった!? どうしたアルシエル……って」

 鈴乃は泡を避けながら、開きっぱなしの魔王城の玄関を覗き込むと、

「ほ、本当に何が起こった……?」

 魔王城の中には、乱雑に散らばった皺だらけの洗濯物と、散らばったゴミ、そして異臭が漂い、畳の上でボロボロになった漆原を、怒りだけで悪魔型に戻りかねないほどの殺気を放射する芦屋が仁王立ちで睨みつけている光景が広がっていた。

 確かに漆原が夕方ににわか雨が降った頃、何やらどたばたしている気配は伝わってきていたが、こんな惨状を呈する事態が起こっていたと誰が想像できようか。

「クレスティア・ベル!」

「お、おお」

 恐る恐る部屋を覗き込む鈴乃を、芦屋が般若の形相で振り返る。

「分かるな……今、貴様の相手をしている余裕は、私には無い!」

「あ、ああ、わ、分かった、邪魔したな」

 その迫力に押されて、鈴乃は素直に引き下がった。

 また泡を避けながら自室に戻り、神妙に玄関のドアを閉める。

 そして、そんなことをしても全く無駄だと言わんばかりに、壁を突き破って芦屋の怒号と漆原の抵抗がダイレクトに伝わってきた。

 思わず鈴乃はそれに聞き入ってしまったが、その言い争いは軽く十五分は続き、そして、

「……貴様に家事を任せたらどういうことになるのか、よく分かった」

 芦屋が遂にギブアップ宣言を出す。

「定期的に働きに出るなど、不可能だったのだ……」

 そしてついにはよよと泣き崩れる気配までする始末。

 芦屋が留守の間に、漆原が何か馬鹿なことをやらかした、それだけは鈴乃にも想像できる。

 だが、真剣に言い争いに聞き耳を立てて詳細を知ってしまうと、本気で芦屋に同情してしまいそうな気がした鈴乃は、敢えて耳を塞いで魔王城の内情に踏み入らないように努める。

 ただでさえ、敵愾心が薄れそうになる瞬間がたびたびあるのだ。

 これ以上同情してたまるものか。

 そう思った鈴乃は、気を取り直して立ち上がり、自分の夕食を作るべくキッチンに立とうとする。

 軽く手を洗い、献立をどうするか悩みながら、キッチン下の戸棚を開いたその瞬間だった。



「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 芦屋と漆原は、押し入れを突き破って飛び込んできた鈴乃の絶叫に、思わず身を竦ませたのだった。

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