はたらく魔王さま!SP2

魔王、留守中の事件に動揺する ─ 漆原の場合 ─

 時間は、少し戻る。

 窓に干された洗濯物を眺めながら、漆原は小さくため息をつく。

 千穂や鈴乃の世話になりっぱなしは承服できないという芦屋の気持ちも分からなくはないが、それでもこうして自分にお鉢が回ってくると、なかなか面倒なものだ。

 芦屋は買い物と図書館と言っていたから、さっき言っていたように新聞でも読みに行くのだろう。帰りは遅いのだろうか。漆原は芦屋の手書きのノートが詰められた箱を押し入れに戻すと六畳一間をぐるりと眺めまわしてから、肩を竦める。

「家事、ねぇ。人間の世界はめんどいのか、ラクなのか分かんないな」

 魔王軍の四天王・悪魔大元帥としてエンテ・イスラに侵攻した頃も、悪魔達は別に裸一貫で突撃したわけではない。

 高等悪魔になるほど上等な衣類を纏っていたし、真奥も芦屋も、悪魔時代に着ていた衣類を防虫剤と一緒に押し入れに保管している。

 だが、魔王軍時代も、魔界統一前後も、魔界に『洗濯』という概念があったかどうか、漆原にはとんと記憶が無い。

 自分自身、衣類について水ですすいだり洗剤で洗ったりといったことをしたことは無いし、そもそも衣類からして、魔力による産物である場合が大半を占めたため、洗濯そのものを必要としなかったという事情もある。

「ま、こうやって遊んでても死ぬことは無いんだから、やっぱラクっちゃラクなんだろうな。あー、久しぶりに働いたから、あっつい」

 いけしゃあしゃあとそう言い放った漆原は、覇気の無い様子で立ち上がると冷蔵庫から麦茶ポットを取り出す。

「あ」

 だが、ポットの中を見て、顔を顰める。

 残っているのはちょうどグラス一杯分あるか無いかだ。

 魔王城にいくつもある暗黙のルールとして、最後に飲みきった者が次の麦茶を作る、というものがある。

 というか暗黙のルール以前に、共同生活をする以上当たり前のことなのだが、漆原くらいになるとそのわずかな手間すら面倒くさい。

 だが一口分だけ残して置いておくとそれはそれで、

『たったこれだけ残すなら何故新しいのを入れておかない!』

 と真奥や芦屋が五月蠅いのだ。

 しかし部屋は暑いし喉は渇く。

 漆原は冷蔵庫からの冷気で顔を冷やし、やがて冷蔵庫が温度上昇した庫内を冷やすべく悲鳴を上げはじめるまで、新しい麦茶を淹れる面倒くささと、喉の渇きを癒すか否かの全く無意味かつ非効率なプライオリティ策定会議を心の中で繰り広げそして、

「仕方ない、淹れるか」

 漆原は結論を出した。

 この悩む間に無駄になった時間や、冷蔵庫が食った電気代のことを考えると漆原の行動は全く褒められたことではない。

 だがここまで芦屋に家事を教わってわずかでも彼の仕事に敬意を抱いたこともあって、漆原の中では『家庭に貢献する方向に進んだ自分偉い』くらいの思いが渦巻いている。

 若干渋みが強くなった麦茶を一気飲みして、冷やされた故に走ったこめかみの痛みにしばし瞑目。

 空になったポットを一旦シンクに置き、先に戸棚の中にある、水出しパック麦茶を探そうとした、そのときだった。

「わっ!」

 戸棚を開けた途端に、黒い影が視界の隅をさっと走り抜けたのだ。

「び、びっくりした!」

 漆原は立ち上がって身構える。

 同時に『それ』も漆原に気づいたのか、不敵にも部屋のど真ん中で停止し、その特徴的な触角をゆらゆら揺らしながら漆原に向き直るではないか。

「うわーなんか意外。あれだけ芦屋が掃除してるのに、こんなの出るんだ」

 漆原は『それ』を油断なく睨みつけながらもどうするべきか対策を考える。

 彼にとって『それ』は特別恐れるべき存在ではない。

 漆原の目の前で不敵な姿を見せているのは学名ペリプラネータ・フリッジノーサと呼ばれる、黒い種である。

 茶色くて小型の学名ブラテッラ・ゲルマニカは建造物に生息するケースが多いが、ペリプラネータ・フリッジノーサは野外活動性が高く、建造物内で発見する場合も外部から侵入したものであることが多い。

 ペリプラネータ・フリッジノーサもブラテッラ・ゲルマニカも日本の日常生活に於いて目にしたくはないのに目にすることが多い種ではあるが、実はいずれも外来種である。

 この種の昆虫に対する感想は世界中で様々だが、アメリカと日本では、嫌われている虫としてはぶっちぎりで一位に君臨するのではないだろううか。

 家庭内害虫と呼ばれていることは知っているし、目撃するのも初めてではないが、魔王城内でというのは初めての経験だ。

 ただ、悪魔である漆原にとっては取り立てて恐れるべき相手でもない。

「退治しておいた方がいいのかな。病気運ぶってのは実は無いらしいけど、こいつが歩いたりした食べ物食べたくないし、何かの拍子に触ったら気分悪いし、窓開けてれば逃げる気もするけど、変なとこ隠れられると面倒だし。えっと、殺虫剤どこで見たんだっけなぁ……あ」

 漆原は決して物が多くない室内をきょろきょろと見回して、部屋の隅のカラーボックスの中に、洗剤の買い置きなどと一緒にジェットタイプの殺虫剤が鎮座しているのを発見する。

「あったあった」

 漆原は油断なくペリプラネータ・フリッジノーサを睨みながら場所を移動しようとした。

「……ってちょっ!?」

 ところが、ペリプラネータ・フリッジノーサの動きは漆原の想像を遥かに超えていた。

 なんと漆原より早く殺虫剤に先回りして、あろうことか殺虫剤の缶の裏に隠れたのである。

「こ、こいつっ!」

 漆原は敵の策略に歯嚙みした。

 生命力が強く、実は知能も高いらしい虫だということは知っていたが、まさかこんな捨て身の策略に出るとは思わなかった。

 緑色の缶の裏からちろちろと漆原をおちょくるように触覚が動いている。

 ペリプラネータ・フリッジノーサを倒すには、今ペリプラネータ・フリッジノーサがしがみついている缶が不可欠だが、缶を手に取るにはペリプラネータ・フリッジノーサを排除しなければならない。だが、ペリプラネータ・フリッジノーサを排除したところでその缶に素手で触りたくはないし、かといっていちいちそれをウェットティッシュなどで拭っている間にペリプラネータ・フリッジノーサがどこかに隠れてしまう恐れもある。

 ペリプラネータ・フリッジノーサが、目を離している間にどこかに行ってしまっては、外に逃げたのかどこかに隠れたのか分からず、その後もずっとペリプラネータ・フリッジノーサが室内にいるのではないかという緊張と共に過ごさねばならなくなる。

「図書館に寄るのはいいけど、こういうときのためにたまには新聞買っておけよな……」

 漆原は、この場にいない芦屋に文句を言う。

 ペリプラネータ・フリッジノーサやブラテッラ・ゲルマニカが現れたとき、殺虫剤と並んで強力な武器となり得るのは、新聞紙(特に夕刊は平たく畳むと叩きやすい強度としなやかさを実現できる)や薄手の雑誌だろう。

 だが、そのいずれもが、今の魔王城には存在しない。

 新聞は最初から取っていないし、雑誌は真奥がたまに読んでいる分厚い漫画雑誌しかなく、ペリプラネータ・フリッジノーサと戦うのには重すぎ厚すぎで適さない。

「くそ、じり貧だな」

 漆原は額に浮き出る汗を拭いながらペリプラネータ・フリッジノーサの触角を睨み続ける。

「そうだ! 確かあいつは……」

 ふと漆原は、以前芦屋が話していたことを思い出す。

 界面活性剤入りの溶剤、即ち食器用洗剤やシャンプー、ボディーソープなどの液体石鹼を使えば、ペリプラネータ・フリッジノーサやブラテッラ・ゲルマニカを撃退できる。

「でもちょっと待って。そのあとどうすんの」

 漆原は冷静に考える。

 ペリプラネータ・フリッジノーサは、とにかく素早い。

 しかし一瞬キッチンに視線を走らせた漆原は、ボトルに残っている洗剤の量が四分の一以下であることを確認する。

 残りの弾は少なく、液体洗剤の初速を考えれば命中率は絶望的に低く、かつミスショットをした場合の後始末を考えると、洗剤を使うのは得策ではないと思えてくる。

 だが、時は漆原に猶予を与えなかった。

「わ! あ、雨だ!」

 先ほどまで腹立たしいほどの陽光を地面に投げかけていた空が一転俄かに搔き曇り、大粒の雨を降らせはじたのだ。

「畜生こんな時に!!」

 洗濯物を雨に濡らしては、芦屋の逆鱗に触れること必至である。

「くっそお! そこにいろよ!」

 ゲリラ豪雨というべきとんでもない雨粒は、漆原がペリプラネータ・フリッジノーサから目を離すか悩んだほんのわずかな間にも、折角干した洗濯物を次々濡らしはじめる。

「うぬぬぬぬぬぬ!」

 漆原はとにかくまずは洗濯物を救助すべく、窓に飛びつく。

 遠くから雷鳴まで聞こえてくるほどの豪雨は容赦なく室内にも入り込み、結局一部の洗濯物は漆原の目にももう一度洗濯機にかけねばならないと判断できる程に濡れてしまった。

「畜生……」

 全ての洗濯物を取り込み、窓を叩きつけるように閉めた漆原だったが、ふとカラーボックスの殺虫剤に目をやる。

「くそっ! こっちもか!!」

 予想できたことではあったが、ボックスの奥に入ったか、それともどこか別の場所に隠れたかは分からないが、ペリプラネータ・フリッジノーサの姿は影も形も無かった。

 床に散らばした洗濯物を放置して、ゆっくりとカラーボックスに近づく。

 ウェットティッシュを下の段から取り出し、殺虫剤のスプレー缶を拭いながら手に取り周囲を探るが、ペリプラネータ・フリッジノーサの気配は完全に消えていた。

「あーあ、もう」

 漆原はげんなりしながら、次にペリプラネータ・フリッジノーサがどこから飛び出してきてもいいようにハーフパンツのポケットに殺虫剤を無理やりねじ込む。

 そして洗濯物を拾い上げながら、

「こっちのデニムは大丈夫、ハンカチも許容範囲。このタオル二枚と真奥のシャツはダメだな。いきなり降ってくるんだもんなぁ」

 漆原は雹か霰かといった勢いで窓を叩きつける雨を見て、ため息をつく。

「洗い直しか。数少なくても洗えるのが二層式のメリットって芦屋言ってたし、いいか」

 漆原はペリプラネータ・フリッジノーサに警戒しつつも、廊下に出てタオルとジーパンを洗濯機に放り込む。

「ええと、まず水道を開いて……タオルはこの目の細かいネットに入れて、粉石鹼はさっきの感じだとこれくらいかな。洗濯槽を回すのはこっちのつまみ……あ、そうか蓋閉めなきゃ動かないんだっけ。ええっと、洗い直しだから時間設定はそんなに長くは……ん?」

 漆原は粉石鹼の箱を手に持ったまま、洗濯槽を回すつまみに目をやって、

「うわわわわわわっ!!」

 つまみのすぐ上に張りついていた、ペリプラネータ・フリッジノーサに気づいて大声を上げるが、そこは腐っても元悪魔大元帥。今度は遅れを取ったりはしない。

 漆原は手に持っていた粉石鹼の箱を放り出し、すぐさまポケットにねじ込んだ殺虫剤を取り出して、ペリプラネータ・フリッジノーサ目がけて噴射した。

 だがそこはやはり大型のペリプラネータ・フリッジノーサ。吹きかけられると同時に身の危険を感じたのか、それまでの数倍の速度で動きはじめると、キッチンの窓の隙間から部屋の中に入っていってしまう。

「くそっ!! あ、洗濯槽の上蓋閉めなきゃ!」

 漆原は、手放した粉石鹼の行方も確かめぬまま洗濯槽の蓋を閉め、流しっぱなしによる水漏れは耳にタコができるほど注意されていたので水道の蛇口だけは閉めて、かつ洗濯槽が回ったのを確認して、

「よし! 待ってろよこの野郎!!」

 ペリプラネータ・フリッジノーサとの第二ラウンドへと突入する。

「し、しまった!」

 だが、すぐに漆原は、自分の詰めの甘さに歯嚙みすることになる。

 部屋の中には、漆原が慌てて取り込んだ洗濯物が散らばっていたのだ。

 確かにペリプラネータ・フリッジノーサは窓から室内に侵入したが、これではどこに隠れてしまったかまるで分からないではないか。

 家具と壁の隙間などに隠れている場合はそこに殺虫剤を噴霧すれば良いが、まさか取り込んだばかりの洗濯物に向けて殺虫剤を浴びせるわけにもいかない。

 そんなことをすれば全ての洗濯が最初からやり直しになり、また芦屋に水道代や洗剤の消費などのことでねちねちと嫌味を言われるのは目に見えている。

「……ここかっ!」

 漆原は、とりあえず一番手近なところに放ってあったシャツを手に取り、その裏表を確認する。

 シャツと畳の間にペリプラネータ・フリッジノーサの姿は無く、もちろんシャツそのものにペリプラネータ・フリッジノーサが張りついているなどということもなかった。

「次っ!」

 漆原はシャツを安全圏に放ると、次のハンドタオルにかかる。

「次っ」

 そうやってトランプの神経衰弱でもやるように洗濯物を拾っては軽く振るって後ろに投げ、また拾っては振るって後ろに投げを繰り返していたところ、

「……いたっ!」

 漆原は、一枚のタオルの下から見えるペリプラネータ・フリッジノーサの長い触角を発見する。

 だが、いきなり襲いかかるようなことはしない。

 その周りの安全な洗濯物を一枚一枚丁寧に避けて後ろに投げ、ペリプラネータ・フリッジノーサが隠れているタオル一枚だけの状態になるまでそれを繰り返す。

 そして、ペリプラネータ・フリッジノーサがどこに逃げてもいいように周辺のスペースを広く取り、そのタオル一枚だけは犠牲も致し方ないと諦め、漆原は、

「死ねぇっ!!」

 ジェット噴射が売りの殺虫剤を全力でペリプラネータ・フリッジノーサに向けて噴射した。

 狙い違わず、殺虫剤のジェットはペリプラネータ・フリッジノーサに直撃する。

 だが、

「う、うわっ!?」

 漆原は、敵の強さを見誤った。

 洗濯機のところでの初撃と合わせ、漆原のジェット噴射の直撃は、確かにペリプラネータ・フリッジノーサにダメージを及ぼした。

 だが、ペリプラネータ・フリッジノーサはそれでも死ななかったのである。

 ペリプラネータ・フリッジノーサ独特の生理的嫌悪感を催すパニックの挙動を見せた上に、あろうことか漆原目がけてもの凄い速さで突撃してくるではないか!

「こ、このっ!?」

 もはや足元にまで迫ったペリプラネータ・フリッジノーサ目がけて漆原はさらに殺虫剤を追撃噴射するが、動く相手に向かってのジェット噴射は濃度が薄くなったせいか、初撃、二撃目ほどのダメージが入らない。

 ペリプラネータ・フリッジノーサは速度を落とさずそのまま漆原の股の間を抜け、折角後ろに避けた洗濯物の山に向けて走り込もうとする。

「させるかっ!」

 だが漆原も、ペリプラネータ・フリッジノーサに股抜きされた程度でひるむ男ではない。

 すぐさま体を翻し、洗濯物の山に辿り着かんとするペリプラネータ・フリッジノーサの尻目がけて今度こそ文句なしのジャストミートジェット噴射を浴びせることに成功する。

 その場で七転八倒しはじめたペリプラネータ・フリッジノーサは、起き上がろうとするが苦しいのかひっくり返ったまま足を禍々しくもがかせるばかり。

「ふ、ふふふ、下等生物の分際で、僕に勝とうなんて千年早いよ……」

 漆原はようやく一息つくと、芦屋が揚げ物をする際に油はね避けに使うために取っておいてあるポスティングされたチラシをキッチンから持ってきて、何枚も重ね、そして、

「てこずらせやがって……死ね!!」

 チラシ越しにつまみ上げたペリプラネータ・フリッジノーサの息の根を、チラシを丸めることで完全に止める。

「ふう、芦屋が帰ってくる前に仕留められて良かった」

 漆原は時計を見て、ほっと胸をなで下ろす。

 丸めたチラシを燃えるゴミのゴミ箱に放り込むと、

「ちょっと皺になったかもだけど……まぁ、教わった通りにきちんと畳めば大丈夫か」

 雨で窓を閉めきっているため室内に殺虫剤の臭いが充満しているが、後で事情を説明すれば怒られることは無いだろう。

「ええっと、短い靴下はちゃんと踵を潰して二つ纏めて……あ、そうだ、さっきの洗い直し、脱水しなきゃ……ん?」

 顔を上げて立ち上がろうとして、共用廊下に面した窓に、二つの恐ろしい影を認めて血の気が引く。

 一つは、窓の外。

 何やらふわふわした得体の知れない雲のような影が窓の外に映っている。

 一つは、窓の内側。

 先ほどの『敵』よりもずっと小さいがしかし、その油光りする茶色の平たい体、そして禍々しい触角は間違いなく、ブラテッラ・ゲルマニカそのものである。

「あ、あれ、まさか……」

 ブラテッラ・ゲルマニカはいい。外の方が、問題は深刻だ。

 そういえばさっき、洗濯機のところでペリプラネータ・フリッジノーサを見つけたとき、片手に持っていた粉石鹼の箱を、自分は、どこに置いただろう。

 なおも膨らみ続ける外のふわふわの正体に半ば気づきながらも、新たな闖入者であるブラテッラ・ゲルマニカも、放置するわけにはいかない。

 ブラテッラ・ゲルマニカはペリプラネータ・フリッジノーサよりもずっと屋内に定着してしまう確率が高いのだ。

 勝利しても敗北しても、絶望しか待っていない漆原の孤独な第二戦が、開幕しようとしていた。



「う・る・し・は・ら──────!!!!」

 もう当然と言えば当然なのだが、雨もとっくにやんだ夕刻に帰宅した芦屋は、自分の怒りだけで魔力を精製するのではないかと思うほどに怒り狂った。

 その怒りは、様子を見に来た鈴乃が芦屋の一言で素直に引き下がって帰ってしまうほどに強烈なものだった。

 帰宅してみれば洗濯物は丸ごと全部皺だらけ、部屋中に殺虫剤の臭いが充満し、廊下の洗濯機からは、漆原が洗濯槽に放り出してしまった粉石鹼が絶え間なく泡を吹き、人が通るのもままならない有様なのだからそれも当然だろう。

「だ、だから言ったろ! 仕方なかったんだよ!! いきなり出てきて僕も戦うのに必死だったから!」

「問答無用だ! 貴様それでも悪魔大元帥か! あのような虫けら相手にここまで戦場を荒らすなど……!!」

「僕だってやりたくてやったんじゃないって!! ゲリラ豪雨が降ったりとか色々不幸が重なったんだよ! 第一、今まで一度に二匹も出るなんてこと無かったじゃないか! 何か悪くなった食材とかどっかに潜んでんじゃないの!?」

「この私の完璧な献立計画に食べ物を悪くするような事態が発生してたまるか! 貴様の飲み残しのペットボトルや菓子のカスなどに引かれてきたのではないのか!?」

「昨日掃除したって言ったのは芦屋だろ!! じゃあきっと、ベルの方で何か腐らせてたかしたんだよ!? あのうどんって生だろ!? この季節だから悪くなってたんだって!」

「他人に責任転嫁するな!」

「他人つーか敵だろ!」

「……貴様に家事を任せたらどういうことになるのか、よく分かった」

「な、なんだよ! 今日はたまたまだろ!! 僕だって教わった今日の今日でこんなこと不本意だ!!」

「家に漆原を抱えたまま、私が定期的に働きに出るなど、不可能だったのだ……」

「僕のこと不良債権みたいに言うのやめてくれないかな!!」

 ペリプラネータ・フリッジノーサとブラテッラ・ゲルマニカのせいで、自分の評価がこれまで以上に下がりそうな気配を感じた漆原は必死に食い下がるが、芦屋はただただ悲嘆に暮れるばかり。

 と、そのときだった。

「あ、あのー……」

「んあっ!? 佐々木千穂!?」

 鈴乃が帰ってから開きっぱなしだった玄関から、恐る恐る顔を覗かせた者がいた。千穂だ。

「こ、こんにちは……あの、またおすそ分けに来たんですけど、漆原さん何したんですか?」

「なんで僕の不祥事だって最初から決め打ちなの!!」

 事実漆原の不祥事ではあるのだが、それでも千穂が最初からそう決めてかかったことに、漆原は若干傷ついたような顔をした。

「……折角お越しいただいたのに申し訳ありません、佐々木さん」

「あ、はい……」

 その漆原以上に悲しげな様子の芦屋が、悲愴という単語を絵に描いたような面持ちで千穂を見た。

「今日はちょっと取り込んでおりまして、また日を改めていただけると」

「で、ですよね。あの、これ煮物なんで、チンして食べてください、そ、それじゃ……」

 千穂もひきつった笑顔で芦屋に会釈してから、早々に帰ろうとしたその瞬間だった。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「きゃっ!?」

 二○二号室の鈴乃の部屋から響いた鈴乃らしくもない恐怖の悲鳴がアパートを揺らし、千穂は身を竦ませ、芦屋と漆原も一瞬身を竦ませながらも、すぐに何事かと廊下に飛び出した。

 そして、その芦屋や漆原よりもずっと凄い勢いで、顔面蒼白の鈴乃が、自室から飛び出してきて、

「ぐあっ!!」

 勢いのまま廊下の反対側の壁にぶつかり、その場に崩れ落ちてしまう。

「す、鈴乃さん!?」

 最初の驚きから立ち直った千穂は、廊下を埋める泡を避けながら、へたり込んでいる鈴乃に慌てて駆け寄った。

「どうしたんですか鈴乃さん! 大丈夫ですか!?」

「ち、ち、ち、ちほ、ど、の……あ、ああああ」

「何があったんですか!? 大丈夫ですか!?」

 熱中症で倒れた翌々日のことでもあるので、また鈴乃が体調を崩したのかと心配になる千穂だったが、鈴乃は恐怖の眼差しでなぜか自分の手の甲を凝視しながら、

「て、て、手の上を……歩……ご、ご、ご……」

 それだけ言って、卒倒してしまった。

「へ?」

 そして、鈴乃の言うことを一瞬理解できなかった千穂の足元を、

「え」

 ブラテッラ・ゲルマニカが威風堂々と横切った。



「ごごごご、ごきぶりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!」

 千穂の悲鳴がアパート全体を揺らし、それを合図に、芦屋と漆原の、数時間に及ぶ死闘の幕が開く。



「なんだよこれは!? 一体何があったんだよ!?」

 日が暮れて、早上がりのシフトで帰宅した真奥は、魔王城で身を寄せ合って怯えきった様子の千穂と鈴乃、そして殺虫剤と束ねたチラシを持ったまま、泡だらけの廊下で姿の見えないブラテッラ・ゲルマニカ相手に数時間に及ぶ死闘を演じた末に疲労困憊で倒れた芦屋と漆原を見て、ただただ目を丸くするしかなかったのだった。

刊行シリーズ

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