俺は──ソロプレイヤーのキリトは、この世界で生き残るために、他のプレイヤー全員を切り捨てた人間だ。二年前、全てが始まったあの日に、たった一人の友人に背を向け、見捨てて立ち去った卑怯者だ。
そんな俺に、仲間を──ましてやそれ以上の存在を求める資格などない。
俺はすでに、そのことを取り返しのつかない形で思い知らされている。同じ過ちは二度と犯さない、もう誰の心も求めないと、俺は固く誓ったはずだ。
なのに。
強張った左手は、どうしてもアスナの肩から離れようとしない。触れあう部分から伝わる仮想の体温を、どうしても引き剝がすことができない。
巨大な矛盾と迷い、そして名づけられない一つの感情を抱えながら、俺はごく短く答えた。
「……解った」
こくり、と肩の上でアスナが頷いた。
翌日。
俺は朝からエギルの雑貨屋の二階にシケ込んでいた。揺り椅子にふんぞり返って足を組み、店の不良在庫なのだろう奇妙な風味のお茶を不機嫌に啜る。
すでにアルゲード中──いや、多分アインクラッド中が昨日の《事件》で持ちきりだった。
フロア攻略、新しい街へのゲート開通だけでも充分な話題なのに、今回はいろいろオマケがあったからだ。曰く《軍の大部隊を全滅させた悪魔》、曰く《それを単独撃破した二刀流使いの五十連撃》……。尾ひれが付くにもほどがある。
どうやって調べたのか、俺のねぐらには早朝から剣士やら情報屋が押しかけてきて、脱出するのにわざわざ転移結晶を使うハメになったのだ。
「引っ越してやる……どっかすげえ田舎フロアの、絶対見つからないような村に……」
ブツブツ呟く俺に、エギルがにやにやと笑顔を向けてくる。
「まあ、そう言うな。一度くらいは有名人になってみるのもいいさ。どうだ、いっそ講演会でもやってみちゃ。会場とチケットの手はずはオレが」
「するか!」
叫び、俺は右手のカップをエギルの頭の右横五十センチを狙って投げた。が、染み付いた動作によって投剣スキルが発動してしまい、輝きながら猛烈な勢いですっ飛んだカップは、部屋の壁に激突して大音響を撒き散らした。
幸い、建物本体は破壊不能なので、視界に【Immortal Object】のシステムタグが浮かんだだけだったが、家具に命中したら粉砕していたに違いない。
「おわっ、殺す気か!」
大げさに喚く店主に、ワリ、と右手を上げて俺は再び椅子に沈み込んだ。
エギルは今、俺が昨日の戦闘で手に入れたお宝を鑑定している。時々奇声を上げているところを見ると、それなりに貴重品も含まれているらしい。
下取りしてもらった売上げはアスナと山分けすることにしていたが、そのアスナは約束の時間を過ぎてもさっぱり現れない。フレンドメッセージを飛ばしておいたのでここに居ることは判っているはずだが。
昨日は、七十四層主街区の転移門で別れた。アスナはギルドに休暇届けを出してくると言って、KoB本部のある五十五層グランザムに向かった。クラディールとのこともあるし、俺も同行しようかと申し出たのだが、笑顔で大丈夫と言われては引き下がるしかなかった。
すでに待ち合わせの時刻から二時間が経過している。ここまで遅れるからには何かあったのだろうか。やはり無理矢理にでもついて行くべきだったか。込み上げてくる不安を抑えこむように茶を飲み干す。
俺の前の大きなポットが空になり、エギルの鑑定があらかた終了した頃、ようやく階段をトントンと駆け上ってくる足音がした。勢いよく扉が開かれる。
「よ、アスナ……」
遅かったじゃないか、という言葉を俺は吞み込んだ。いつものユニフォーム姿のアスナは顔を蒼白にし、大きな目を不安そうに見開いている。両手を胸の前で固く握り、二、三度唇を嚙み締めたあと、
「どうしよう……キリト君……」
と泣き出しそうな声で言った。
「大変なことに……なっちゃった……」
新しく淹れた茶を一口飲み、ようやく顔に血の気が戻ったアスナはぽつりぽつりと話しはじめた。気を利かせたエギルは一階の店先に出ている。
「昨日……あれからグランザムのギルド本部に行って、あったことを全部団長に報告したの。それで、ギルドの活動お休みしたいって言って、その日は家に戻って……。今朝のギルド例会で承認されると思ったんだけど……」
俺と向かい合わせの椅子に座ったアスナは、視線を伏せてお茶のカップを両手で握り締めながら言った。
「団長が……わたしの一時脱退を認めるには、条件があるって……。キリト君と……立ち会いたい……って……」
「な……」
一瞬理解できなかった。立ち会う……とはつまりデュエルをするということだろうか。アスナの活動休止がどうしてそんな話になるのか?
その疑問を口にすると、
「わたしにも解んない……」
アスナは俯いて首を振った。
「そんなことしても意味ないって一生懸命説得したんだけど……どうしても聞いてくれなくって……」
「でも……珍しいな。あの男が、そんな条件出してくるなんて……」
脳裏に、彼の姿を思い浮かべながら呟く。
「そうなのよ。団長は、普段ギルドの活動どころか、フロア攻略の作戦とかもわたしたちに一任してぜんぜん命令とかしないの。でも、何でか今回に限って……」
KoBの団長は、その圧倒的なカリスマで己のギルドどころか攻略組ほぼ全員の心を掌握しているが、意外にも指示命令のたぐいはほとんど発さない。俺も、対ボス戦闘で何度も肩を並べたが、無言で戦線を支え続けるその姿には敬服せずにはいられないものがある。
そんな男が今回に限って異論を差し挟み、しかもその内容が俺とのデュエルとは、いったいどういうことなのか。
首を捻りつつも、俺はアスナを安心させるべく言った。
「……ともかく、一度グランザムまで行くよ。俺が直接談判してみる」
「ん……。ごめんね。迷惑ばっかりかけちゃうね……」
「何でもするさ。大事な……」
言葉を探して沈黙する俺を、アスナがじっと見つめる。
「……攻略パートナーの為だからな」
少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、アスナはようやくほのかな笑顔を見せた。