最強の男。生きる伝説。聖騎士等々。血盟騎士団のギルドリーダーに与えられた二つ名は片手の指では足りないほどだ。
彼の名はヒースクリフ。俺の《二刀流》が巷で口の端にのぼる以前は、約六千のプレイヤー中、唯一ユニークスキルを持つ男として知られていた。
十字を象った一対の剣と盾を用い、攻防自在の剣技を操るそのスキルの名は《神聖剣》。俺も何度か間近で見たことがあるが、とにかく圧倒的なのはその防御力だ。彼のHPバーがイエローゾーンに陥ったところを見た者は誰もいないと言われている。大きな被害を出した五十層のボスモンスター攻略戦において、崩壊寸前だった戦線を十分間単独で支えつづけた逸話は今でも語り草となっているほどだ。
ヒースクリフの十字盾を貫く矛なし。
それはアインクラッドで最も堅固な定説のひとつなのだ。
アスナと連れ立って五十五層に降り立った俺は、言いようのない緊張感を味わっていた。無論ヒースクリフと剣を交える気などない。アスナのギルド一時脱退を認めてくれるよう頼む、目的はそれだけだ。
五十五層の主街区グランザム市は、別名《鉄の都》と言われている。他の街が大抵石造りなのに対して、街を形作る無数の巨大な尖塔は、全て黒光りする鋼鉄で作られているからだ。鍛冶や彫金が盛んということもあってプレイヤー人口は多いが、街路樹の類はまったく存在せず、深まりつつある秋の風の中では寒々しい印象を隠せない。
俺たちはゲート広場を横切り、磨きぬかれた鋼鉄の板を連ねてリベット留めした広い道をゆっくり進んだ。アスナの足取りが重い。これから起こることを恐れているのだろうか。
立ち並ぶ尖塔群の間を縫うように十分ほど歩くと、目の前に一際高い塔が現れた。巨大な扉の上部から何本も突き出す銀の槍には、白地に赤の十字を染め抜いた旗が垂れ下がって寒風にはためいている。ギルド血盟騎士団の本部だ。
アスナはすこし手前で立ち止まると、塔を見上げた。
「昔は、三十九層の田舎町にあったちっちゃい家が本部でね、みんな狭い狭いっていつも文句言ってたわ。……ギルドの発展が悪いとは言わないけど……この街は寒くて嫌い……」
「さっさと用を済ませて、なんか暖かいものでも食いに行こうぜ」
「もう。君は食べることばっかり」
笑いながら、アスナは左手を動かし、きゅっと俺の右手の指先を軽く握った。どぎまぎする俺を見ることなく数秒間そのままでいたが、「よし、充電完了!」と手を離すと、そのまま広い歩幅で塔へ向かって歩いていく。俺は慌てて後を追った。
幅広の階段を昇った所にある大扉は左右に開け放たれていたが、その両脇には恐ろしく長い槍を装備した重装甲の衛兵が控えていた。アスナがブーツの鋲を鳴らしながら近づいていくと、衛兵たちはガチャリと槍を捧げて敬礼した。
「任務ご苦労」
ビシリと片手で返礼する仕草といい、颯爽とした歩き方といい、ほんの一時間前にエギルの店でしょんぼりしていた彼女と同一人物とは思えない。俺はおそるおそるアスナの後に続いて衛兵の脇を通り抜け、塔に足を踏み入れた。
街並みと同じく黒い鋼鉄で造られた塔の一階は、大きな吹き抜けのロビーになっていた。人は誰もいない。
街以上に冷たい建物だという印象を抱きつつ、様々な種類の金属を組み合わせた精緻なモザイク模様の床を横切って行くと、正面に巨大な螺旋階段があった。
金属音をホールに響かせながら階段を昇っていく。筋力パラメータが低い者なら絶対途中でへばってしまうだろう高さだ。いくつもの扉の前を通りすぎ、どこまで昇るのか心配になってきた頃、ようやくアスナは足を止めた。目の前には無表情な鋼鉄の扉。
「ここか……?」
「うん……」
アスナが気乗りしない様子で頷く。が、やがて意を決したように右手をあげると扉を音高くノックし、答えを待たず開け放った。内部から溢れた大量の光に、俺は目を細めた。
中は塔の一フロアを丸ごと使った円形の部屋で、壁は全面透明のガラス張りだった。そこから差し込む灰色の光が、部屋をモノトーンに染め上げている。
中央には半円形の巨大な机が置かれ、その向こうに並んだ五脚の椅子に、それぞれ男が腰掛けていた。左右の四人には見覚えがなかったが、中央に座る人物だけは見間違えようがなかった。聖騎士ヒースクリフだ。
外見にはまるで威圧的な所はない。二十代半ばだろうか、学者然とした、削いだように尖った顔立ち。秀でた額の上に、鉄灰色の前髪が流れている。長身だが瘦せ気味の体をゆったりした真紅のローブに包んだその姿は、剣士というよりは、この世界には存在しないはずの魔術師のようだ。
だが、特徴的なのはその目だった。不思議な真鍮色の瞳からは、対峙したものを圧倒する強烈な磁力が放出されている。会うのは初めてではないが、正直気圧される。
アスナはブーツを鳴らして机の前まで行くと、軽く一礼した。
「お別れの挨拶に来ました」
その言葉にヒースクリフはかすかに苦笑し、
「そう結論を急がなくてもいいだろう。彼と話させてくれないか」
そう言ってこちらを見据えた。俺もフードをはずしてアスナの隣まで進み出る。
「君とボス攻略戦以外の場で会うのは初めてだったかな、キリト君」
「いえ……前に、六十七層の対策会議で、少し話しました」
自然と敬語になってしまいつつ答える。
ヒースクリフは軽く頷くと、机の上で骨ばった両手を組み合わせた。
「あれは辛い戦いだったな。我々も危うく死者を出すところだった。トップギルドなどと言われても戦力は常にギリギリだよ。──なのに君は、我がギルドの貴重な主力プレイヤーを引き抜こうとしているわけだ」
「貴重なら護衛の人選に気を使ったほうがいいですよ」
ぶっきらぼうな俺の台詞に、机の右端に座っていたいかつい男が血相変えて立ち上がろうとした。それを軽く手で制し、
「クラディールは自宅で謹慎させている。迷惑をかけてしまったことは謝罪しよう。だが、我々としてもサブリーダーを引き抜かれて、はいそうですかという訳にはいかない。キリト君──」
ヒースクリフはひたとこちらを見据えた。金属の光沢をもつ両眼から、強烈な意思力が噴き上げてくる。
「欲しければ、剣で──《二刀流》で奪い給え。私と戦い、勝てばアスナ君を連れていくがいい。だが、負けたら君が血盟騎士団に入るのだ」
「…………」
俺はこの謎めいた男が少しだけ理解できたような気がしていた。
結局この男も、剣での戦闘に魅入られた人間なのだ。その上、自分の技に絶対の自信を持っている。脱出不可能のデスゲームに囚われてなお、ゲーマーとしてのエゴを捨てきれない救い難い人種。つまり、俺と似ている。
ヒースクリフの言葉を聞いて、今まで黙っていたアスナが我慢しきれないというように口を開いた。
「団長、わたしは別にギルドを辞めたいと言ってるわけじゃありません。ただ、少しだけ離れて、色々考えてみたいんです」
なおも言い募ろうとするアスナの肩に手を置き、俺は一歩前に進み出た。正面からヒースクリフの視線を受け止める。半ば勝手に口が開く。
「いいでしょう、剣で語れと言うなら望むところです。デュエルで決着をつけましょう」
「も──!! ばかばかばか!!」
再びアルゲード、エギルの店の二階。様子を見ようと顔を出した店主を一階に蹴り落としておいて、俺は必死にアスナをなだめていた。
「わたしががんばって説得しようとしたのに、なんであんなこと言うのよ!!」
俺の座る揺り椅子の肘掛にちょこんと腰を乗せ、小さな拳でぽかぽか叩いてくる。
「悪かった、悪かったってば! つい売り言葉に買い言葉で……」
拳をつかまえ、軽く握ってやるとようやくおとなしくなったが、かわりにぷくっと頰を膨らませる。ギルドでの様子とギャップがありすぎて、笑いがこみあげてくるのを苦労して吞み込む。
「大丈夫だよ、一撃終了ルールでやるから危険はないさ。それに、まだ負けると決まったわけじゃなし……」
「う~~~……」
肘掛の上ですらりと長い脚を組み、アスナが唸る。
「……こないだキリト君の《二刀流》を見た時は、別次元の強さだって思った。でもそれは団長の《神聖剣》も一緒なのよね……。あの人の無敵っぷりはもうゲームバランスを超えてるよ。正直どっちが勝つか判んない……。でも、どうするの? 負けたらわたしがお休みするどころか、キリト君がKoBに入らなきゃならないんだよ?」
「考えようによっちゃ、目的は達するとも言える」
「え、なんで?」
少しの努力で強張る口を動かし、俺は答えた。
「その、俺は、あ……アスナといられれば、それでいいんだ」
以前なら逆さに振っても出てこないような言葉だ。アスナは一瞬きょとんと目を丸くしたが、やがてぼっと音がしそうなほどに頰を赤くし、なぜかそこを再び膨らませると椅子から降りて窓際に歩いていってしまった。
背を向けて立つアスナの肩越しに、夕暮れのアルゲードの活気に満ちたざわめきがわずかに流れ込んでくる。
言ったことは正直な気持ちだったが、ギルドに所属するのはやはり抵抗がある。以前一度だけ所属した、今は存在しないギルドの名を思い出して、胸の奥に鋭い痛みを覚える。
まあ、簡単に負ける気はないさ……と俺は胸の中で呟き、椅子から離れてアスナの隣に立った。しばらくして、右肩に、ぽすっと軽く頭が預けられた。