俺のHPがとうとう五割を下回り、イエローへと変色した。まだ麻痺からは回復しない。全身を徐々に冷たいものが包んでいく。死の可能性が、冷気の衣を身にまとって足元から這い登ってくる。
俺は今まで、SAO内で何人ものプレイヤーの死を目撃してきた。彼等は皆、無数のきらめく破片となって飛散するその瞬間、一様にある表情を浮かべていた。これで自分が死ぬというなどということが本当に有り得るのか? という素朴な疑問の表情。
そう、多分俺たちは皆心のどこかでは、このゲームの大前提となっているルール、ゲーム内での死が即ち実際の死であるというそれを信じていないのだ。
HPがゼロになって消滅すれば、実は何事も無く現実世界へと帰還できるのではないか──という希望に似た予測。その真偽を確認するには実際に死んでみるしかない。そう考えれば、ゲーム内での死というのもゲーム脱出に向かう道の一つなのかもしれない──。
「おいおい、なんとか言ってくれよぉ。ホントに死んじまうぞォ?」
クラディールの剣が脚から抜かれ、腹に突き立てられた。HPが大きく減少し、赤い危険域へと達したが、それもどこか遠い世界の出来事のように思えた。剣によって苛まれながら、俺の思考は光の射さぬ暗い小道へと迷い込もうとしていた。意識に厚く、重い紗がかかっていく。
だが──。突然俺の心臓を途方もない恐怖が鷲摑みにした。
アスナ。彼女を置いてこの世界から消える。アスナがクラディールの手に落ち、俺と同じ責め苦を受ける。その可能性は耐えがたい痛みとなって俺の意識を覚醒させた。
「くおっ!!」
俺は両目を見開き、自分の腹に突き刺さっていたクラディールの剣の刀身を左手で摑んだ。力を振り絞り、ゆっくりと体から抜き出す。HPは残り一割弱。クラディールが驚いたような声を上げる。
「お……お? なんだよ、やっぱり死ぬのは怖えェってかぁ?」
「そうだ……。まだ……死ねない……」
「カッ!! ヒャヒャッ!! そうかよ、そう来なくっちゃな!!」
クラディールは怪鳥じみた笑いを洩らしながら、剣に全体重をかけてきた。それを片手で必死に支える。俺の筋力パラメータと、クラディールのそれに複雑な補正がかけられ、演算が行われる。
その結果──剣先は徐々にだが、確実な速度で再び下降し始めた。俺を恐怖と絶望が包み込む。
ここまでなのか。
死ぬのか。アスナを一人、この狂った世界に残して。
近づいてくる剣尖と、胸中に忍び込む絶望の双方に、俺は必死に抗った。
「死ね────ッ!! 死ねェェェ─────ッ!!」
金切り声でクラディールが絶叫する。
一センチ、また一センチと、鈍色の金属に形を借りた殺意が降ってくる。切っ先が俺の体に触れ──わずかに潜り込み──……
その時、一陣の疾風が吹いた。
白と赤の色彩を持った風だった。
「な……ど……!?」
驚愕の叫びとともに顔を上げたその直後、殺人者は剣ごと空高く跳ね飛ばされた。俺は目の前に舞い降りた人影を声も無く見つめた。
「……間に合った……間に合ったよ……神様……間に合った……」
震えるその声は、天使の羽音にも優るほど美しく響いた。崩れるようにひざまずいたアスナは唇をわななかせ、目をいっぱいに開いて俺を見た。
「生きてる……生きてるよねキリト君……」
「……ああ……生きてるよ……」
俺の声は自分でも驚くほど弱々しく掠れていた。アスナは大きく頷くと、右手でポケットからピンク色の結晶を取り出し、左手を俺の胸に当てて「ヒール!」と叫んだ。結晶が砕け散り、俺のHPバーが一気に右端までフル回復する。それを確認すると、
「……待っててね。すぐ終わらせるから……」
ささやいて、アスナはすっくと立ち上がった。優美な動作で腰から細剣を抜き、歩き出す。
その向かう先では、クラディールがようやく体を起こそうとしていた。近づいてくる人影を認め、両目を丸くする。
「あ、アスナ様……ど、どうしてここに……。い、いや、これは、訓練、そう、訓練でちょっと事故が……」
バネ仕掛けのように立ち上がり、裏返った声で言い募るその言葉は、最後まで続かなかった。アスナの右手が閃き、剣先がクラディールの口を切り裂いたからである。相手のカーソルがすでに犯罪者カラーになっているため、アスナに犯罪フラグが立つことはない。
「ぶぁっ!!」
クラディールが片手で口を押さえて仰け反る。一瞬動作を止めたあと、カクンと戻したその顔には見慣れた憎悪の色が浮かんでいた。
「このアマァ……調子に乗りやがって……。ケッ、ちょうどいいや、どうせオメェもすぐに殺ってやろうと……」
だがその台詞も中断を余儀なくされた。アスナが細剣を構えるや猛然と攻撃を開始したのだ。
「おっ……くぉぉっ……!」
両手剣で必死に応戦するが、それは戦いと呼べる物ではなかった。アスナの剣尖は宙に無数の光の帯を引きながら恐るべき速さで次々とクラディールの体を切り裂き、貫いていった。アスナより数レベルは高いはずの俺の目にもその軌道はまるで見えなかった。舞うように剣を操る白い天使の姿に、俺はただただ見とれた。
美しかった。栗色の長い髪を躍らせ、瞋恚の炎を全身に纏いながら無表情に敵を追い詰めていくアスナの姿は、途方も無く美しかった。
「ぬぁっ! くぁぁぁっ!!」
半ば恐慌を来し、無茶苦茶に振り回すクラディールの剣はかすりもしない。HPバーがみるみる減少していき、黄色からついに赤い危険域に突入したところで、とうとうクラディールは剣を投げ出すと両手を上げて喚いた。
「わ、解った!! わかったよ!! 俺が悪かった!!」
そのまま地面に這いつくばる。
「も、もうギルドは辞める! あんたらの前にも二度と現れねぇよ!! だから──」
甲高い叫び声を、アスナは黙って聞いていた。
ゆっくりと細剣が掲げられ、掌の中でかしゃりと逆手に持ち換えられた。
しなやかな右腕が強張り、さらに数センチ振り上げられ、土下座するクラディールの背の真ん中に一気に突き立てられようとした。瞬間、殺人者が一際甲高い悲鳴を発した。
「ひぃぃぃっ! 死に、死にたくねえ────っ!!」
がくっ、と見えない障壁にぶつかったかのように切っ先が停まった。細い体が、ぶるぶると激しく震えた。
アスナの葛藤、怒りと恐怖を、俺はまざまざと感じ取った。
彼女は、俺の知る限り、まだこの世界でプレイヤーの命を奪ったことがない。そして、この世界で誰かを殺せば、その相手は現実世界において本当に死ぬ。PKなどというネットゲーム用語で包んでみたところで、それは真に殺人行為なのだ。
──そうだ、やめろアスナ。君がやっちゃいけない。
内心でそう叫ぶと同時に、俺はまったく正反対のことも考えていた。
──だめだ、躊躇するな。奴は、それを狙っているんだ。
俺の予測は、コンマ一秒後に現実となった。
「ッヒャアアアアア!!」
土下座していたクラディールが、いつの間にか握りなおしていた大剣を、突如の奇声とともに振り上げた。
ぎゃりいいん、という金属音とともにアスナの右手からレイピアが弾かれた。
「あっ……!?」
短い悲鳴を漏らし、体勢を崩すアスナの頭上で、ぎらりと金属が輝いた。
「アアアア甘ぇ────んだよ副団長様アアアアアア!!」
狂気を滲ませる絶叫と、どす黒い赤のライトエフェクトを撒き散らしながら、クラディールは剣を何のためらいもなく振り下ろした。