仮に会計処理をせずに店を出てもデポジットから自動的に引かれるだけなのだが、気分的な問題もある。何より、レジで会計をするとアイテムの飴玉を一つ貰える。キャンペーン中なら福引き券が手に入ることもあり、運が良ければ景品のレア装備に手が届く。
「あ、そうだ……店員さん、《ぼた餅》の持ち帰りってできますか?」
レジを操作する丸い黒猫の艶やかな毛並みを見ているうちに、ナユタは先程の祠での出来事を思い出した。
あれはおそらく、お供え物の要求である。
ぼた餅のように丸い黒猫が頷き、カウンター脇にある猫の口を模した怪しい取り出し口から、笹の葉にくるんだぼた餅を取り出した。
受け取ったそれを、ナユタはメニューウィンドウ経由で道具袋へと移す。
「なに? 三時のおやつ?」
「いえ、お供え用です。クエストで使うかもしれないので」
法被姿の猫又から肉球を振って見送られ、一行は店の外へと出た。
歩き出しながら老僧が頭を垂れる。
「申し訳ありません、せっかくお話し中のところを、邪魔してしまいまして──」
「なんのなんの、苦しゅうないっスー。ちょっと初めての人にはわかりにくい場所だしね!」
コヨミの応対は底抜けに明るい。
彼女のような話術を持たないナユタは、あくまで楚々と話しかける。
「《宵闇通り》の探索は、百八の怪異のチュートリアルクエストだったんです。解放後、ユーザーが借りられる貸店舗の区画になって──お探しの事務所も、たぶんその中に紛れ込んでいるんだと思います」
「ははあ、なるほど……紹介者の方に、〝わかりにくい場所かもしれないから、明日で良ければ知り合いに案内させる〟とは言われたのですが、とにかく行けばなんとかなるかとも思いまして──しかし、見通しが甘かったようです。親切な方にお会いでき、助かりました」
コヨミがからからと笑う。
「ねー。なゆさん親切だよねー。私が男だったらぜったい嫁にしてるわー。むしろ私が嫁に行きたいわー……てゆーかもうホントに結婚して。その甲斐性で私を養って……月曜から会社行きたくない……この身長で満員電車に埋もれるのもうやだ……」
いかにもわざとらしく、コヨミの声がだんだんと小さくなっていった。
扱いに慣れているナユタは、眼下にある彼女の頭を子供扱いに撫でる。
「学生相手に何を言ってるんですか。いい子ですから、ちゃんと真面目に社会人してください」
「だってさあ……うちの会社、既婚のおっさんとお爺ちゃんばっかで可愛い女の子も男の子もいないんだもん……とりあえず一年頑張ってみたけど、潤いがなさすぎて……年度末でアホみたいに忙しいし、なんかもう最近はなゆさんだけが唯一の癒し……ね、もう結婚しよ? なゆさん、ウェディングドレスとか超似合いそう」
繰り返される妄言を、ナユタは淡々と受け流す。
「そうですね。年収一千万超えたら考えてあげます」
「マジで!? 完全に噓だってわかりきってるけどその一言で来週ぐらいはなんとか頑張れそうな気がする! やっぱ人生、夢とか希望とかないとダメだよね! たとえそれが可能性0%の単なる幻想であっても!」
「……コヨミさんのそういうとこ、割と好きですよ? たまに見ていて切なくなりますけど」
「あー。それ恋。恋だわ、間違いない。しかも初恋」
二人の珍妙なやりとりに、老僧が吹き出した。
「……いや、これは失礼。オンラインゲームというのは初めてなもので、よくわからなかったのですが……なるほど、孫がおもしろがっていた理由に、得心がいきました。やはり、こうした人間関係を自由に作れるのは魅力なのでしょうな」
コヨミが子犬のように振り返る。
「ああ、じゃ、おじーちゃんもお孫さんと遊ぼうと思って始めたの?」
「さて、そういうわけでも……いや、そうかもしれませんな。少々、込み入った事情がありまして──これからうかがう先の探偵氏に、お願いしたい仕事があるのです」
老僧が微笑みつつ口ごもった。
初対面からあまり踏み込むのも良くないと思い、ナユタも口を閉ざす。話したいことならいずれ話すはずで、無理に詮索する気はない。
ヤナギは恐縮したように軽く会釈を寄越した。
老僧を先導して、ナユタ達は路地裏を抜け、化け猫茶屋の裏手に回った。
夜空は暗いが、街の中は光源がない場所もぼんやりと明るく、歩くのに支障はない。
あやかし横丁は江戸の城下町をモチーフにしていると言われる。
「横丁」とは本来、表通りから外れた細い通りを指す言葉だが、あやかし横丁は〝現世から外れた街〟の意味を込めて命名されたらしい。
横丁などという言葉が空々しくなるほどに街は広大で、首吊りの桜やら河童の堀やら黄泉の地下道やら、怪しげな名所がそこかしこに点在している。
アスカ・エンパイアの首都たるキヨミハラは、飛鳥浄御原宮、及び時代の近い平城京、平安京をモチーフとし、仏教建築や雅やかな貴族の建造物を多く擁するのに対し、こちらはもっと庶民的で、なおかつ不気味さの演出に主眼がおかれていた。
現実の時間を問わず、このあやかし横丁は常に夜のままで日が昇らない。現在は土曜日の昼過ぎだが、空は暗闇に閉ざされている。
板塀に浮かぶ染みは人の顔に見え、時にそれは表情を変える。
足下のぬかるみから白い手が生えていることなど珍しくもないし、遥かに見える巨大な城には何故かどうしても近づけず、空には時折、巨大な鬼の顔が浮かぶ。
怪異の仕掛けが多すぎて、もしもまかり間違って〝本物〟の怪奇現象が起きたとしても、おそらくは誰も気づかない。
すれ違ったのっぺら坊に会釈をしつつ、三人は古びた屋敷と屋敷の狭間にある、小さな社の前で立ち止まった。
鳥居の左右には、狛犬や狐の代わりに招き猫が座っている。
通称・猫稲荷──そこには「卦霊魄寝子御魂神」なる由緒の怪しい猫神が奉られており、賽銭箱の隣には鯛焼きが供えられていた。
「はて、寄り道でしょうか……」
「うんにゃ、ここが目的地だよー」
戸惑うヤナギに、コヨミが悪戯っぽく笑いかける。
鳥居の内側に入り、祠に向けて礼を二回、柏手を二回、更に礼を二回──
そのまま振り返ると、鳥居の向こう側には、それまでなかった広い道がまっすぐに延びていた。
幾重にも連なった橙色の提灯、きらびやかに彩られたぎやまんの鈴、おでんにたこ焼き、綿あめ、ラーメン、ヨーヨー釣りと統一感のない屋台の群れ──
左右に立ち並ぶそうした雑多な店の間を、数多の客達が陽炎のように行き来している。
屋台ばかりでなく、道の左右には一階を店舗とした小規模な商店もある。昭和の商店街を思わせるそれらの佇まいは、不気味さと活気が混在し、混沌たる魅力を漂わせていた。
一瞬を境に起きたこの不可思議な変化に、ヤナギが眼を丸くした。
「なんと、これは……?」
ナユタは小声で応じる。
「鳥居の内側が転送ポイントになっているんです。二礼二拍手二礼がスイッチになっていますから、帰る時も同じ手順で」
一般に拝礼の作法は二礼二拍手一礼と言われる。猫稲荷の場合、対象が猫神だけに「にゃーにゃーにゃー」で二礼二拍手二礼らしい。
まるで縁日にも似た活気の中、三人は宵闇通りを歩き出す。