「……な、なんかヤバい気配になってきてる……? これ、ぜったいなんか出るパターンだよね? 耳元に息とか吹きかけられてるんですけど……!」
「落ち着きなさい。このクエストは……まだ始まってすらいない」
クレーヴェルが囁くように告げる。
ナユタ達がこなしている一連の作業は、クエストの発動条件を満たすためのものである。
発動条件を満たさない限り、《百八の怪異》において敵は出てこない。そして発動の瞬間には、合図として低い鐘の音が響き渡る。警戒が必要になるのはその後だった。
クレーヴェルが《いそべ餅》と書いた紙を供える。
紙はすぐに消え、新たな紙が現れた。
そこに餅の要求はもうない。
《 瑠璃も玻璃も照らせば光る。提灯いらずの月夜といえど、たまには欲しき此明かり 》
これまでよりは達者な字で、そんな文章が振り仮名つきで記されていた。
コヨミが不安げに呟く。
「餅シリーズやっと終わった……瑠璃はなんか聞いたことあるけど、はりって何?」
「……コヨミさん……瑠璃は青い宝石で、玻璃は水晶のことです。大昔にはどちらもガラスを意味していました」
「仏教では七宝の一つとして珍重されていた。金、銀、瑠璃、玻璃、しゃこ、珊瑚、瑪瑙の七つ──宗派によって少し変わるらしいがね」
コヨミは数度、瞬きをした。ナユタ達が説明しても、今一つぴんと来ないらしい。
「しゃこ? エビみたいなアレ?」
「そっちじゃなくて、シャコ貝の貝殻です。コヨミさん……ちゃんと古文の授業とか受けてました?」
ナユタの腰にしがみついたまま、コヨミが唇を尖らせた。
「そ、そんなマイナーな知識がすらすら出てくるなゆさんと探偵さんのほうが変なんだもんっ! 私フツーだもんっ!」
「玻璃ぐらいは知っていてもいいと思うがね──これはことわざだ。《瑠璃も玻璃も照らせば光る》とは、優れた人材は光をあてれば目立つという意味だが、ここでは人材でなくこの祠そのもののことだろう。《此明かり》は、一部の地方においては盆の迎え火を意味する言葉だ。そして──天井に貼る《雲》の紙は、当たり前だが《その上に二階がある時》にのみ貼るもの。つまりこの祠にも見えない二階がある。すべてのヒントを合わせると──」
クレーヴェルが、アイテムリストからダンジョン攻略用のランタンを取り出した。
眩しい光に眼を細めつつ、祠の上へと設置する。
一同が息をひそめる中。
祭り囃子の太鼓が、体を震わすほどに大きく響き渡った。
思わず耳を塞ぐナユタ達の視界で、ランタンから伸びた光が稲穂を撫でる風となり、流れにそって金色の描線が巨大な立体を描きはじめる。
描線はあっという間に田の一面を埋め尽くし、わずかに遅れて全体に色が乗り始めた。
小さな祠の上と左右を囲むように現れたのは、あまりに巨大な金色の城である。
真正面には幅広の石段と巨大な城門、左右には見渡す限り急勾配の石垣が続き、その上の城に至ってはもはや最上部が闇に吞まれて見えない。
「ひ、ひいっ!?」
ナユタにしがみついたコヨミが、装束に顔を埋めた。
城から視線をおろせば、ナユタ達は祭り囃子の奏者達に囲まれていた。
狩衣をまとい烏帽子をかぶった奏者の群は、半透明に透けている。いずれの顔にも生気はなく、色彩は淡く存在感も薄い。
それでいてかき鳴らす音は歪なまでに激しく、まるで怨念を楽器にぶつけているようだった。
彼らは祠の左右にある石段を上り、ナユタ達を無視して城中へ踏み入っていく。
整然と行列が進む中、祭り囃子の軽快な音色に混ざり、除夜の鐘にも似た異質な低音が一回だけ響き渡った。
それはクエストの発動を告げる合図に他ならない。百八の怪異は、百八つの鐘の音によって始まる。
目の前の光景に呆然とするナユタ達へ、クレーヴェルが向き直った。
「──さあ、クエストが発動した。我々も城内にお邪魔するとしよう」
友人の家にでも招かれたような調子で宣い、彼はその狐顔に気味悪いほどの優雅な微笑を浮かべる。
ナユタは俯き、しばし瞑目した後──ゆっくりと頷く。
かくして、クエスト《幽霊囃子》は、ひとまずその幕を開けた。
周囲を囲んでいた祭り囃子の幽霊達は、あっという間に城の奥へと吸い込まれていった。
あたりは一転して静寂に包まれたものの、目の前にある巨大な城の存在感によって、先程まで漂っていた田舎の情緒は完膚なきまでに吹き飛んでいる。
元からあった小さな祠は、左右を石段に、頭上を城に塞がれて窮屈極まりないが、無表情に転じた童の石像はどこか不遜で、むしろこの城の主のようにさえ見えた。
ナユタの腰にしがみついたまま、コヨミが震える声で呟く。
「……な、なんだったのかな? 今の幽霊の団体さん……お城の中に入っていったけど……」
これだけ怖い物が苦手な彼女が、どうして百八の怪異を必死になってプレイしているのか、ナユタにはもう一つよくわからない。ただの怖いもの見たさにしては無謀に思える。
探偵が一足先に石段を上り始めた。
「先に進めばわかる。なかなかどうして……私好みのクエストであることは間違いない。このクエストの制作者は趣味がいい」
「えー……探偵さんの好みって?」
訝しげなコヨミの問いに、クレーヴェルはいかにもわざとらしい社交的な作り笑顔を見せた。
「力押しでは解けないこと。それから、少し頭を使えば解けること──この年になるとね、強い敵を倒すなんていう面倒くさい達成感よりも、ちょっと気の利いた謎を解く程度の、軽い頭の体操のほうが心地よくなる」
探偵の後に続きながら、ナユタは首を傾げた。
「そんなに老け込むような年ではなさそうですが……それって単純に、戦闘用のステータスが低すぎて楽しみ方の幅が狭くなっているだけなんじゃないですか?」
クレーヴェルが肩を揺らして笑った。これは作り笑いではない。
「なかなか容赦のないご指摘だ。確かにそういった理由もある。何分にも──ゲームの正しい楽しみ方を、忘れてしまったみたいでね」
嘯いた探偵は、飄々たる足取りで階段を上りきる。
真正面の巨大な城門を見上げたヤナギが、ほうっと吐息を漏らした。
「これはまた……立派なものです。一般の城門というよりは、東照宮の陽明門に似ていますかな?」
門の向こうが屋内であるという大きな違いはあるが、シルエットや大きさはほぼ同じといって差し支えない。
コヨミが門の傍へ駆け寄った。
「あ、なるほど、なんか懐かしいと思った! 小学校の修学旅行で行ったなあ、日光……見ざる言わざる聞かざるだよね?」
「……修学旅行……ああ」
編み笠の下で、ヤナギの顔がわずかに強ばった。
ナユタ以外の者に気づかれる前に、すぐに彼は俯き、その表情を隠してしまう。
一方でクレーヴェルは、油断なく周囲に気を配っていた。
「さて、このあたりで門番でも出てくるかと思ったが──」
ナユタはふと、頰に生温い風を感じた。
百八の怪異において、この風は多くの場合、敵が出現する前触れとなっている。
コヨミも忍刀を抜き放ち、クレーヴェルはヤナギの前へ移動した。とりあえず依頼人の盾になるつもりはあるらしい。
「なゆさん! 奥から何か来る!」
「はい!」
距離を詰められる前に、ナユタは衣をなびかせて突っ込んだ。