コヨミと二人だけならば相手の出方を見てもいいが、背後に保護対象が二人いる。敵が広範囲攻撃を持っていた場合、距離を詰められれば問答無用でこの二人を溶かされかねない。
ナユタが城門から城内側へ飛び込むと同時に、左右の壁に連なる松明が点灯した。
その明かりによって、正面に立つ敵の姿が照らし出される。
そこにいたのは──白い狐の面をかぶった、小さな童だった。
鎧武者の群、巨大な蜘蛛、凶暴な鬼といったわかりやすい門番を想定していたナユタは、慌ててその場に立ち止まる。
狐面の童は着古した絣の着物姿だった。足元は裸足で、武器などは持っていない。
ぽつりと寂しげに立ち尽くすその姿は、まるで迷子のようだった。
(このクエストの分類は《道連れ》……内部でパーティー以外のプレイヤーに会うことはない。つまりこの子は、敵かNPCのどちらか……)
その見極めをつけるため、ナユタは慎重に声をかけた。
「……貴方は、何者ですか」
狐面の童は、声を出さずにナユタを手招きした。
どうしたものかと迷いつつ、ナユタは後続を振り返る。
「探偵さん。呼ばれているみたいですが……」
視界に同行者達の姿はなかった。
入ってきたはずの城門すらなく、石畳を敷き詰めた暗闇の道が延々と続いている。
(……ワープゾーン!?)
先行したナユタのみ、別の場所に飛ばされたらしい。
反射的にメニューウィンドウを出すが、案の定、通信機能もロックされていた。ギブアップやログアウトは可能だが、仮に全員がそのまま離脱した場合、ここまで立てたイベントフラグも消失してしまう。
ナユタは素早く肚を決めた。
動揺するほどのことではない。ここは結局、安全を約束された《お化け屋敷》のようなものである。
コヨミ達の動向も気にはなったが、初心者のヤナギはともかく、他二人はそこそこレベルも高い。
(……あ、探偵さんは無理か。あのステータスじゃ野莵にも負けそう──)
そんなことを考えつつ、ナユタはこの状況を楽観視してもいた。
城内で分断されたということは、バランス調整の観点からして、〝単独で戦えないほど極端に強い敵〟はしばらく出てこないという意味でもある。
逃げ惑うことが前提の「屛風の虎退治」
のようなクエストはまた別だが、少なくとも仲間と合流するまでは、ボスクラスの敵と遭遇する可能性は低い。
これが現実であれば孤立によって恐怖に駆られるところだが、いくらリアルでも所詮はバランス調整されたゲームに過ぎない。
──SAOと違って、〝死ぬ〟ことはない。
狐面の童が、いつの間にかナユタの袖を摑んでいた。
「……おねえちゃん。遊ぼう?」
面の向こうから、くぐもった幼い声が聞こえた。
ナユタは首を横に振る。
「ごめんね。仲間とはぐれちゃったの。はやく合流して、このクエストを攻略しないといけないから」
相手はNPCである。イベントフラグのために常識的な受け答えをする必要はあるが、過度に気を使う必要はない。
童がナユタを見上げた。
「……遊んでくれないの……?」
「……何をして遊びたいの?」
「かくれんぼ」
童が背を向けて駆けだした。
(……なるほど。このダンジョンで、あの子を探して捕まえろ、ってことかな──)
童の姿は通路の闇に消える。
ナユタは改めて周囲を観察した。
左右は石を積んだ壁に挟まれている。点在する松明によってぼんやりと明るいが、遥か先を見通すほどの光量はない。
足元は石畳で、ところどころに血の染みがある。
──耳を澄ますと、何処かで祭り囃子の太鼓がかすかに聞こえた。イベントが進めば、また音が大きくなっていくのかもしれない。
「──よし」
進む覚悟を決めて、ナユタは薄暗い通路に視線を据える。
眼を閉じ、一呼吸──
肺腑に大きく空気を取り込み、ゆっくりと吐く。
そして足取りは慎重に、それでいて迷いはなく、彼女は凜として闇に向かい歩き出した。
城内において、ヤナギは一人、途方に暮れていた。
何が起きたのかはよくわかっていない。
先行した戦巫女のナユタが唐突に消え、駆け寄ろうとしたコヨミが次に消え、探偵が舌打ちを漏らした直後、気づいた時には一人になっていた。
〝怖い〟とまでは思わないが、さてどうしたものかと考えあぐねてしまう。
道中、クレーヴェルからはいくつか助言を受けていた。
もしはぐれてしまったらメニューから通信機能を使うこと。
ただしイベント中は通信が使えなくなる可能性もあるため、その時は探索を続けるか、あるいはギブアップして街に戻るか、自身で判断すること──
今、通信機能はロックされている。
しかし敵の気配はなく、すぐに脱出すべき状況とも思えない。
ヤナギは周囲を見回した。
そこは大広間である。それも尋常な広さではない。
足元こそ畳敷きだが、壁どころか柱の一本さえ見えず、板張りの天井が延々とどこまでも続いている。
暗闇ではなくぼんやりと明るいものの、光源らしい光源はない。
目印になるものが何もなく、全方向にただただ無闇に広い。
現実には有り得ない空間に、ぽつんと一人──
ヤナギは改めて途方に暮れた。
「……じっとしていても仕方ない。歩くかの……」
溜息混じりに独りごち、彼は脚絆のままで畳の上を歩き始めた。
ゲームの中だけに、老眼の影響もなく視界はよく見える。動き回っても足腰も痛まない。疲労はあるが、それとて若い頃に感じていたものと同程度で、つまり老体ゆえのハンデは感じられなかった。
反射神経だけは若者達のようにはいかないが、若い頃のようにこうして普通に歩けるだけで、周囲の不気味な様子とは裏腹に、なにやら楽しい心持ちにさえなってしまう。
「……フルダイブ可能なVRMMOとは……なるほど、こうしたものか──」
淡々と歩きながら、ヤナギは眼を伏せる。
体力の落ちた老人はもちろん、現実世界ではまともに体を動かせない者さえも、この世界では容易に健康体を得られる。
所詮はゲーム、疑似体験に過ぎないといってしまえばそれまでだが、人並みの暮らしを送ることすら困難な人々にとって、肉体の枷を意識せずに済むこうした仮想空間の登場は、まさに福音だった。
好きな場所へ行き、好きなものを食べ、好きなことをする──それがどれだけ幸福なことか、健康な人間にはなかなか自覚できない。
果ての見えない大広間を、ヤナギはただあてもなく歩き続ける。
畳の縁に沿って真っ直ぐに進むうち、その正面へ、不意に小さな人影が現れた。
闇から溶け出すようにして、白い狐の面をかぶった童が一人──
ヤナギは思わず立ちすくんだ。
しばし呼吸が止まったものの、それは驚きのためではない。こうした事態が起きることを、心のどこかで期待していた。
「……お……おお……」
漏れた呻きは、涙こそ伴わないものの泣き声に近い。
童が血色の失せた白い手でヤナギを招く。
ふらつくようにして歩み寄り、ヤナギは童の肩を摑もうとした。
伸ばした手は震え、整ったはずの呼吸がまた乱れる。
狐面の童は、その手が届く寸前に背を向けて走り出した。
「あ……待っておくれ!」
ヤナギは慌てて追いすがる。
その耳に、どこからともなくかすかな祭り囃子の音が響き始めた。
足から力が抜け、視界がぐらりと歪む。
「……う……?」
立ち眩みにも似た違和感の後、立ち止まってしまったヤナギは、錫杖を頼りにどうにか膝を落とさず踏みとどまった。
少し離れた暗がりで、振り返った少年が狐の面を外す。
──仮面の下にあったのは、ヤナギの見知った顔だった。
距離が遠く、はっきりと見えたわけではない。だが、ヤナギに見違える理由はなかった。
「……清文……?」
童の名を呼びながら、ヤナギはふらふらと後を追う。
狐面の童は無限の大広間を駆けていく。
暗闇にその姿が消えてもなお、ヤナギはただひたすらに、見えない彼を追いかけ続けた。