探偵、クレーヴェルは城の天守閣にいた。
持ち前の強運はこんな時にも発揮されたらしく、眼下には月明かりを受けて銀色に輝く稲穂の波、彼方には雪化粧を残した山々の稜線、夜空には満天の星に冴えた月の輝きと、見事な絶景が一面に広がっている。
ホラーテイストのクエストには似合わぬ清冽なその美しさには、制作者のこだわりが感じられた。
(……突入前の地上から見えた景色とは、地形からして別物のようだが──)
この天守から見える景色は、おそらくは特別に設定されたものである。仮にここから鉤縄などを用いて外へ下りたとして、向かった先が先程のフィールドにつながっているとは限らない。
もっとも、目的が脱出ではなくあくまで〝探索〟である以上、あえてそれを試す必要もない。ついでに鉤縄なども持っていない。
強制的に仲間と分散させられたことは予想外だったが、たとえ全滅してもこのクエストはやり直しがきく。SAOとは違い、ゲームオーバーが死に直結しない。
──ゲームオーバーが、死に直結しない。
クレーヴェルは深々と息を吸う。
このことを意識するたびに、彼は鬱々たる重苦しさに潰されそうになる。
クレーヴェルもかつて、そのゲームに囚われていた。
当時のことは思い出したくもないが、同時に決して忘れたくもない。
およそ一万人がVRMMOの世界からログアウトできなくなり、そのうちの四千人あまりが死亡した。
犠牲者の親族も含めれば、数万、数十万に及ぶ人々の人生を歪めた、悪夢のような犯罪だった。
クレーヴェルが今、ここでこうして〝探偵〟などに興じている理由にも、この事件が関係している。
(あんな事件は、もう二度と──)
──今、考えるべきことでもない。
澱みかけた思考を切り替え、探偵は改めて天守閣を見渡した。
やや薄暗いが、足下に迷うほどではない。
天井から吊された複数の提灯に照らされ、板敷きの床が飴色の光沢を放っている。
注意深くあたりを観察しつつ、耳を澄ますと──
何処からともなく、不意に祭り囃子の音色が聞こえた。
探偵はふと目眩を覚える。くらりと視界が一瞬揺れ、体から不自然に力が抜けた。
(なんだ……? 状態異常ではなさそうだが……)
毒や麻痺ならすぐにわかるが、これといって不快感はない。
頭を軽く振った拍子に、部屋の隅を黒い人影がかすめた。
クレーヴェルは立ち止まり、眼を凝らす。
数瞬前まで誰もいなかったはずの場所に、《誰か》が立っている。
ホラーではありがちな演出でもあり、その意味では予測範囲内の現象といって差し支えない。
ただ──闇に埋もれた後ろ姿に、奇妙な点がある。
彼のシルエットは、クレーヴェルの知る〝ある人物〟にそっくりだった。
和風の《アスカ・エンパイア》内では珍しい、西洋風の分厚いプレートメイルを身につけ、彼はまるで行き先に迷うように、ぼんやりとそこに立ち尽くしている。
歩み寄ることすらできず、クレーヴェルはその場に硬直した。
──プレートメイルの男が、ゆっくりと横を向く。
表情こそ闇の中でややぼやけていたが、他人の空似という可能性を完全に排除できる程度には、面影が瓜二つだった。
(何故……何故、〝彼〟がここにいる……?)
そこにいたのは、この場に決しているはずのない人間だった。
驚きつつも、クレーヴェルは取り乱さない。彼はあくまで平静を保っている。
ただしその平静さは、「事態を把握できない」
がゆえの、麻痺にも近しい代物ではあった。
自分がゲームをプレイしているのか、それとも眠って夢を見ているだけなのか──それすら怪しく感じられる。
青年の口から、塊のような黒い血がごぽりと溢れた。
鎧の首筋、肩、胴回りなどの隙間からも、闇が侵食するような印象を伴って、大量の血が溢れていく。
クレーヴェルは取り乱さない。
決して──取り乱さない。
彼は幽霊など信じない。それらしきものがもし見えたとしたら、それは誰かの作った紛い物か、あるいは脳が見せる幻覚の類だと弁えている。
(そう、幻覚……あるいは気のせいだ。あれが奴であるはずはない。しかし……)
──青年の姿はあまりに忘れ難く、見間違えなどは断じて有り得ない。
重ねて、クレーヴェルは取り乱さない。
だから彼は考えることができる。
仮に事態を把握できず、感覚が麻痺していたとしても、パニックにはならず、いくつかの〝推測〟をたてることができる。
そうして彼が導き出した可能性の一つは、あまり質のいい解答ではなかった。
(まさか、このクエストは……まずい。運営に気づかれたら……!)
歯嚙みするクレーヴェルの視界で、青年の足下に血が溜まり、黒く真円を描いて広がり始めた。
血溜まりはそのまま底なしの沼と化し、彼の身を床下へと吞み込んでいく。
咄嗟に駆け寄ろうとしたクレーヴェルの裾を、後ろから誰かが摑んだ。
振り返ると──絣の着物を着た《狐面の童》と、視線が交錯した。
城への突入前に一瞬だけ見えたあの幼い童が、今、間近でクレーヴェルのコートを摘んでいる。
意識を逸らされたのは一瞬のことで、クレーヴェルはすぐさま、沈みゆく青年に視線を戻した。
(……いない……?)
そこにもう、〝彼〟はいなかった。
沈んだにしては早すぎる。血溜まりもない。視線をずらした一瞬の隙に消えたと見るのが正しい。
そもそも仮想空間だけに、この程度の消失は不思議でもなんでもない。
青年の消えた床面を凝視しつつ、クレーヴェルは狐面の童に声をかけた。
「──君。私は早急に、ヤナギ氏と共にこのクエストをクリアしなければならない。分散した仲間のところへ案内してくれ。君は──このクエストの中において、《敵》ではないんだろう?」
仮に敵であるならば、クレーヴェルはとっくに不意打ちを受けている。
狐面の童が不思議そうに首を傾げた。
この童は、もちろん幽霊などではない。ただのAI──それもおそらくは、このクエストの内部において案内人の役割を受け持つ存在だった。
童は無言でクレーヴェルの裾を離し、滑るような足取りで天守閣の端へと向かった。
その先には階下へ下りるための階段がある。
梯子に近い急な角度だが、童は踏板を無視し、階下へ音もなく飛び降りた。
クレーヴェルも後に続く。
このまま罠へと導かれる可能性ももちろんあるが、その罠を乗り越えることがクリアの条件であるならば、この童は紛れもなくクエストの案内人だった。
(……この段階で雑魚に絡まれようものなら、私は脱落だろうが……)
運以外のステータスが尋常でなく低いクレーヴェルにとって、そこが一つの悩み所ではある。
彼の懸念を裏付けるように、階下の天井でがさごそと何かが蠢いた。
急階段を下りきって見上げた視界に、蜘蛛の半身を持つ花魁姿の女が現れる。
逆さまに天井へ張り付き、彼女は裂けた口元から牙を覗かせ、にたりと笑った。
「……女郎蜘蛛……か」
クレーヴェルはステッキの先で、コツコツと軽く床を叩く。これは思案する時の癖である。
熟達したプレイヤーにとっては、さほど怖い相手ではない。
──が、少なくともクレーヴェルのステータスで敵う相手でもない。
倒さなければ狐面の童の後を追えないが、倒すのはおそらく難しい。退路は逃げ場のない天守閣のみである。
──つまりは、どうしようもない。
探偵は軽く額を叩き──
やり直しのきく仮想の《死》に向けて、後ろ向きかつ破れかぶれの一歩を踏み出した。