ナユタが城からの一時離脱を果たした時、メールボックスには既に三通のメッセージが届いていた。
【 なゆさんごめん! 頑張ったけどやられちゃった……また明日、探偵さんで! 】
【 すまない。私も負けた。ヤナギ氏もお疲れのようだし、君も今日のところはログアウトしてくれ 】
【 恐れ入ります。私もお役に立てませんで── 】
どうやら三人ともあっさりと撤退に追い込まれたらしい。無事にイベントフラグを引き継いで城から脱出できたのは、ナユタだけということになる。
《百八の怪異》においては、デスペナルティとして、HPが〇になったプレイヤーはその後の六時間にわたってログインができなくなる。
所持アイテムをランダムで一つ失う通常通りのペナルティもあるが、これは身代わりとして消失する《さるぼぼ》を持っている限り、あまり怖くはない。
この人形の由来は、猿の赤ん坊を模した飛驒地方の名産品で、災厄が「去る」と猿を掛けたお守りらしい。
百八の怪異では消失アイテムの代わりに「去る」という設定で、攻略組にとっては必須のアイテムとなっている。
そもそもホラーテイストという事情もあって、今回のイベントでは突発的なリタイアがそれなりに多い。
さるぼぼはそれに対する救済措置であり、アスカ・エンパイアの他のクエストでは効果を発揮しない、怪異イベント専用の特殊アイテムだった。
それを持っている限りリタイアによる被害は少ないだろうが、六時間のログイン制限についてはどうしようもない。
早期の合流は諦めて、ナユタもひとまずログアウトすることにした。
転送ポイントでイベントフラグをセーブし、ついでに消費したアイテムをよろず屋で買い直してから、彼女は自分の部屋へと戻る。
ベッドから頭をあげると、窓の外はもう暗かった。
部屋の外から母親の叱るような声が響く。
「優里菜ー、まだゲームやってるのー? 聞こえてたら、お風呂沸いてるから入っちゃいなさーい」
「……うん。いま入る」
ナユタは──櫛稲田優里菜は、返事をしながら自分の部屋を見回した。
古い和風の世界観からこの部屋へ戻ると、その違いに少しばかり戸惑うことがある。
ベッドの上には巨大でやや不細工な黒猫のぬいぐるみ。それがかろうじて女子高生らしい装飾品で、他は総じて地味な部屋だった。
壁の書棚には小説を中心に大量の本が詰め込まれ、机にはパソコンが一台、部屋の色使いは白系と黒系が多く、雑貨類はあまりない。よく片づいてはいるものの、男の部屋とでも思われそうな素っ気ない空間となっている。
移動した居間では、兄と父が将棋を指していた。
今日は兄の方が優勢らしく、いつも気弱げな父が珍しく眉間に皺を寄せ、盛大に唸っている。
「お兄ちゃん、今日は非番?」
「……非番じゃないのに親父と将棋なんか指してたらまずいだろ」
呆れた口調で返され、優里菜はくすりと笑った。
アイランドキッチンから、母親も顔を覗かせる。
「非番なのにデートの予定もなくお父さんと将棋を指しているのも、それなりにまずいんじゃないかしら? 優里菜が彼氏とか連れてきたらお父さんは卒倒しそうだけど、お兄ちゃんが彼女を連れてくる分には大歓迎よ?」
独り者の兄は、聞こえないふりをして肩をすくめた。
ようやく次の手を打った父が恐る恐る顔をあげる。
「……優里菜。念のために聞くけど、そういう相手はまだいない……よな?」
優里菜が答えるまでもなく、兄がからからと笑った。
「いたら貴重な土曜日の午後をゲームなんかに費やしてるわけないだろ。ほら、親父。王手」
「ああっ……お前、そこに桂馬はないだろ……うう、飛車と交換か……」
決着は近いらしい。
ソファに腰掛けた優里菜は、入浴の前にタブレットからいつも見ているサイトのチェックをはじめた。
MMOトゥデイ。
VRMMOの関連情報を扱うこの大手ニュースサイトは、情報の速さと精度に定評がある。攻略情報だけでなく、業界の動向や新規ゲームの宣伝まで網羅しているが、ここ数日の目玉記事は、管理人シンカーによるカナダ旅行記だった。
現地のソフトウェア会社を訪問し、新進気鋭のクリエイター達へ直接インタビューを行う──そんな内容だが、同行している新妻のユリエールも頻繁に写真の端に登場するため、内容はいたって真面目ながら「公開新婚旅行か」とごく一部でやっかまれている。
優里菜が今日の更新分を読み始めた直後、サイトのトップに速報が入った。
『 アスカ・エンパイア、《百八の怪異》新規クエストに不具合発生 』
(新規クエスト、って……まさか──)
今週配信された新規クエストは、《人狼の森》と《幽霊囃子》の二つしかない。
嫌な予感とともに、優里菜はすぐさま記事をクリックする。
読み進むうちに、この懸念は完全に裏付けられた。
「……今週配信されたばかりの《幽霊囃子》において、一部のユーザーから苦情が発生……? 内容を調査検証するため、配信を一時停止……再配信の時期は未定──って……」
彼女は呆然と、短い記事を幾度か読み返す。急ぎの第一報ゆえか、苦情の内容までは書かれていない。
(そんな……だってヤナギさん、一週間以内にどうしてもクリアしたいって……)
こうした一時的な配信停止は、過去にも幾度か例がある。そのまま削除されてしまったクエストもあるが、復活する場合でも修正に一ヶ月程度はかかるのが常だった。
一週間以内でのクリアとなると、もはや絶望的といっていい。
優里菜は追加の情報を求めて、ブックマークから《百八の怪異》の攻略コミュニティへ移動した。
案の定、そこには幽霊囃子の配信停止に関するスレッドが既に立っている。
真偽の怪しい推測や噂話が多いことは承知で、彼女はその内容を確認しはじめた。
急な配信停止に戸惑う声が多い中、いくつかの書き込みが彼女の眼を捉える。
『 ゲームの中に、本物の幽霊が出たらしい 』──
優里菜は──ナユタは、唇をきつく引き結ぶ。
この書き込みが馬鹿馬鹿しい与太話ではないことを、彼女は既に知っていた。
確かに彼女も、〝データとしては存在しないはずの幽霊〟を目撃している。
ただし、それが《本物》の霊魂だなどとは思っていない。ほぼ間違いなく、なんらかの種と仕掛けがある。
そして困ったことに──今回はその種と仕掛けが、運営側にとって看過できない類のものだった可能性が高い。
吞気に将棋を指す兄と父に背を向け、ナユタは独り、無意識のうちに華奢な拳を握り込んでいた。