猫は神である。
神とは人知を超えて畏怖される存在であり、信仰の対象である。
鰯の頭も信心から、などと言う通り、信仰する者さえいれば鰯の頭でさえ神になる。
「……いわんや猫をや、というのが連中の主張だ」
狐顔の探偵クレーヴェルはどこかうんざりとした表情で、壁を越して向かいにある隣室を指さした。
戦巫女のナユタと忍のコヨミは、揃ってその方向に視線を向ける。
三ツ葉探偵社の隣の部屋を借りているのは、〝猫神信仰研究会〟なる怪しい組織だった。
得体は知れないが、さしあたって実害があるようにも思えない。
ボットの猫又を膝に載せたコヨミが、顎下を撫でながら力なく笑った。
「まあ、神様と猫様って字面も似てるしねー……あと人間に無関心なとことか、人間を下僕と思ってそうなとことか、貢いでも見返りがないとことか、共通点も割と多そうだし──」
彼女らしい言い草に、ナユタは嘆息を向ける。
「コヨミさんってたまに言うことが黒いですよね。信心深い人に怒られますよ」
「……その信心深い人らがよってたかってうちのおじいちゃんから土地とその他資産をひっぺがしていった結果、私はつまんないOLやってるの……あの遺産があったら一生ニートできたのにっ!」
それはそれでどうなのかと思わないでもない。
半分は同情し、半分は呆れて、ナユタはコヨミの頭を適当に撫で回した。
「残念でしたね、コヨミさん。それより……隣の猫神信仰の人達って、冗談で活動してるわけじゃないんですか? 信仰してるっていうなら、教義とかは……」
執務机に肘をついたクレーヴェルが、微笑とともに肩をすくめた。
「あるにはある。〝猫は聖なる獣である〟〝猫を崇めよ〟〝おやつをあげすぎるな〟〝爪とぎボードを用意せよ〟〝栄養のバランスに気をつけよ〟〝予防接種は確実に〟〝トイレはきちんと掃除せよ〟……だったかな?」
「……三つ目以降、ただの猫の飼い方ですよね?」
探偵事務所に集った三人は、日曜の早朝から益体もない会話を重ねていた。
狐のような銀髪の青年探偵、クレーヴェル。
幼く見えるが歴とした社会人の忍者、コヨミ。
そして身軽さを重視した徒手空拳の戦巫女、ナユタ──
三人ともにその顔色は冴えない。
早朝とはいえ、窓の外は今日も暗い。あやかし横丁は常に夜の街であり、空に朝日が昇ることは決してない。
そしてナユタ達の精神状態も、現状、夜明けからは程遠かった。
クエスト《幽霊囃子》の突然の配信停止により、彼女達は今、その動きを封じられている。
とりあえずとばかりに事務所には集まったものの、依頼主たるヤナギもまだ来ていない。
ボットの猫又とコヨミが、同時に欠伸を漏らした。
「ふあ……ねー、なゆさん。なんか甘いもの食べたい……化け猫茶屋行こっか? ヤナギさんにもメールして、待ち合わせそっちにしてさー」
甘いものでも食べれば、妙案が──浮かぶとは思えないが、当面のストレスは軽減されそうだった。
「わかりました。探偵さんも行きますよね?」
「……化け猫茶屋か……ああ、ヤナギ氏には私からメールを送っておこう」
メニューウィンドウを操作しながら、探偵が立ち上がった。
ナユタとコヨミは一足先に事務所を出る。
昨日までと同じく、そこには高さ三メートルに及ぶ黒猫大仏が鎮座していた。
──気のせいか、前足の角度が昨日とは微妙に違っているように見える。
気づかぬふりをして通り過ぎ、三人は宵闇通りを抜けて、あやかし横丁の表通りへと戻った。
ゲームの中は常に夜でも、実際の時間は休日の朝とあって、そこそこ人通りは多い。
夜空を見上げれば曇天から大量の長い手が生え、まるでクラゲの触手のように蠢いていた。
「……あれって、〝なんとなく不気味〟以上の意味はあるんでしょうか?」
「さて。〝雲を摑む〟ような話だね」
探偵が鼻で笑う。
冗談のようなその答えに、ナユタは妙に納得してしまった。
この街は結局、〝よくわからないもの〟が意味もなく適当に蠢いている場所だった。
よく言えば懐が深く、悪くいえば節操がない。
無意味なものも、無意味なままで存在を許される──そういう意味では、多くの人々にとってここは存外に居心地がいい。ホラー的な空間のはずなのに、全体として妙な活気がある。
やがて到着した化け猫茶屋は、ひっきりなしに客が出入りしていた。
出入りの数瞬、彼らの姿は幽霊のように不安定になる。
店の入り口を境に、入店する時は体が朧に消え、退店する時は逆に浮かび上がって実体化する。
この出入り口は転送ゲートのような仕様で、客はコピーされた複数の店舗へ飛ばされるため、いつ来ても混雑とは無縁だった。
ナユタ達一行も、他に誰もいないがら空きの店内へと飛ばされた。
適当なテーブル席に案内されながら、接客する猫又の顎下をコヨミがわしわしと撫でる。
「まだ朝だし、さっぱりしたのがいいかなあ。今日は私も豆かんにする! なゆさんはいつも通り?」
「はい。豆かんで」
コヨミは気分次第で注文をよく変えるが、ナユタは七割程度の確率で豆かんを頼むことが多い。
えんどう豆と寒天だけのシンプルな甘味だが、寒天の歯応えがよく、蜜の甘みがちょうどいい。えんどう豆も特別仕様で、よその店舗のそれとは物が違う。
一嚙みでぷちんと小気味よく弾け、バニラビーンズにも似たほのかに甘い香りが口一杯に広がるその豆は、現実には存在しない代物だった。
純粋な豆かんを求めて来る客はさておき、こうした和洋折衷の不可思議な味わいが、この店の人気にもつながっている。
並んで座るナユタとコヨミの向かいに、探偵も腰をおろした。
「私も同じものでいい。豆かん三つで頼む」
法被を着たマンチカンが小さく頷き、注文票に筆記をしながら、とてとてと奥の厨房へ歩いていった。
「探偵さんもここ、よく来るの?」
コヨミが問うと、クレーヴェルは曖昧に頷いた。
「観光案内では定番のスポットになっている。海外の客にも評判がいい。ただ──豆かんは食べたことがないな。注文したことは何度かあるんだが」
妙なことを言い出した。
「ああ、もしかして取り違えですか? 私とコヨミさんが知り合ったのも、お互いの豆かんとわらび餅を間違って配膳されたのがきっかけで──」
「……いや、取り違えというか……」
クレーヴェルが言い掛けた矢先、早くも猫又が盆を運んできた。
豆かんを盛った陶磁器の碗が二つ。
それともう一つ、あまり見覚えのない舟形のガラス容器に、黄色い円柱と大量の生クリーム、色とりどりのフルーツを豪勢に盛り合わせ、カラメルソースとチョコレートをトッピングした明らかに和菓子感のない逸品が一皿──
「……え。何それ。え?」
混乱するコヨミをよそに、猫又はそれぞれの前に器を置いていく。
クレーヴェルの前に置かれたのは、豪勢な《プリン・ア・ラ・モード》だった。
注文は豆かん三つである。何をどう間違えたらこうなるのか、ナユタにはさっぱりわからない。
「……頼んだの、豆かん三つですよね?」
配膳の猫又に問いかけると、マンチカンは不思議そうに首を傾げ、そのまま近くのキャットタワーへよじ登り、最上段で丸くなってしまった。
交換はしてくれないらしい。
クレーヴェルが眉間に指を添える。
「……高すぎる幸運値の影響で、私がここに来るといつもメニューにない特殊な品が出て来る。どうも生クリーム系は苦手なんだが……このプリンも三度目だ。もしよければ君達で分けるといい」