コヨミがぶるりと肩を震わせ、探偵も呆れたように目元を押さえた。
「……いや。うん……そうじゃなくてさー……」
「……君、一人でそこを進んでいったわけだよね? 淡々と話しているが、よくギブアップせずに切り抜けたものだ。古井戸なんてそもそも入ろうという気にならないだろうに」
二人のこの反応が、ナユタにはもう一つぴんとこない。同行者を守る必要がない分、彼女にとってはむしろ気楽な散策だった。
「そんなに強い敵は出ませんでしたよ? 倒したのは鬼蜘蛛が二体と骸骨武者が五体。死霊兵や蝙蝠は数えてませんが、どっちもせいぜい十数体くらいだと思います。金色の鱗の蛇女も見かけましたけれど、特殊設定のレア敵だったみたいで逃げられました」
戦果としては悪くないが、自慢できるほどのものでもない。
コヨミがナユタの背中をそっと撫でた。
「……なゆさん、怖かったら無理しないでいいんだよ? お姉さんになんでも話してね? あと怖くなくても〝キャーコワーイ〟とか言っとけば世間の男くらいなら騙せるから……もうこの際、〝自分の美しさが怖い〟とか〝まんじゅう怖い〟とかそういうのでもいいから……」
子供に言い聞かせるような諭し方だったが、内容はいつも通り少々おかしい。
「いえ、だって、実際にケガしたりとか事故に遭ったりって可能性はないわけですし……いくら私だって本物の地下牢とか古井戸だったらそれなりに怖いです。コヨミさんのほうは、どんな状況でどんな幽霊を見たんですか?」
プリンを味わいながら、コヨミが泣きそうな顔に転じた。
「私はねー……なんかやたらでっかい露天風呂に飛ばされたの……で、潜んでいた半魚人の不意打ちでやられちゃったんだけど、その直前、湯気の向こうで……」
彼女はわずかに鼻をすすった。
「……二ヶ月前に死んだ、ブラインシュリンプのリンちゃんが……浴衣着て踊ってた」
「………………すまない。もう一度頼む」
聞き間違いと思ったのか、探偵が真顔で問いかけた。
コヨミは悲しげに俯く。
「ブラインシュリンプ……粉みたいな乾燥卵を塩水につけると孵化するヤツ。最初は見えないくらい小さいけど、うまく育てると一センチくらいまで大きくなるの……ミジンコと似たような扱いだけど、乾燥卵の状態だと数年単位で保存が利いて──」
探偵が目頭を押さえた。
「熱帯魚の餌になるアレか……? 知識としては知っている。スプーン一杯で数百匹にもなるそれを、単体で、しかも名前をつけて飼育していたのか……?」
コヨミはこくりと頷き、しんみりと遠い眼をした。
「人間サイズまで巨大化するとさすがにキモかったけど……でも、元気そうな姿を見られてちょっと嬉しかったかなあ……」
ナユタは反応に困った。どことなくいい話のように語っているが、あまりそうは思えない。
「あの……かわいいんですか? それ」
「や。別にかわいくはない。全然」
意外にドライだった。
よくわからない趣味だが、コヨミがおかしいのは今にはじまったことでもない。
気を取り直した探偵が姿勢を正した。
「ともあれ、これではっきりした。あのクエストに登場する《幽霊》は、プレイヤーそれぞれの、現実世界での亡くなった知人……あるいはペットというケースもありそうだが、いずれにしても、本来はゲームの中にデータとして存在しない、個人情報に由来するものだ。まさに《幽霊》だね。少なくとも──過去のクエストで、こんな事例は聞いたことがない」
「……だけど、本物の幽霊なんて有り得ません」
眉をひそめるナユタに、探偵がからかうような微笑を見せた。
「確かに。とはいえ、実体がないという点では、幽霊とVRMMO内のNPCには似通った部分がある。心霊現象と呼ばれる事例の中には、脳内の電気信号が見せる幻、ある種の誤作動が相当数含まれているという説もあるし……今回の《幽霊》も、そうした〝記憶から作られた幻〟を、脳を通じて見せられた可能性が高い」
ナユタは頷いた。彼女の推論も探偵とほぼ近い。
幽霊が知り合いの姿をしている以上、合理的に考えれば、プレイヤーの《記憶》を、ゲーム内の素材としてリアルタイムに流用されたと見るのが妥当だった。
コヨミがプリンを貪りながら上目遣いになる。
「……ん? え? いや、それって……まずくない? あの、ほら……人権とかプライバシーのアレとか、そっち方向に……ヤバいよね?」
探偵が深々と嘆息する。
「そう。〝個人の記憶を盗み見る〟に等しい行為だ。法整備が遅れているせいでグレーゾーンではあるが、仮にそうした仕組みだった場合、アスカ・エンパイアの自主的な倫理規定にも違反している。即時配信停止に至った最大の理由がそれだろう。一方で、もっと根本的な疑問もある。個々の記憶の読み込みと、ゲームに対するほぼリアルタイムでの反映──〝そんなことが本当に可能なのか〟という疑問だ」
「……技術的に不可能?」
ナユタも趣味で《ザ・シード》を使っている。あくまで素人レベルながら、VRMMOの制作に関わる知識も多少は持ち合わせている。
去年は《百八の怪異》への応募も目指していたが、中盤で詰まってしまい完成させることができず、結局は断念した。
その彼女の知識に照らして、こうした技術の成功例はまだ聞いたことがない。
クレーヴェルが切れ長の眼を狐のように細めた。
「不可能とまでは言わない。茅場晶彦のような天才になら可能だろうし、ザ・シードの中に、もうそうした機能が隠れている可能性さえある。あのプログラムパッケージはまだ蓋の開ききっていないパンドラの箱だ。ただ……〝現時点で〟、〝不特定多数のプレイヤーそれぞれに対応する形で〟、〝記憶を読み込み、ゲーム内に即反映させる〟なんて技術が、こんな形であっさりと実現している可能性は極めて低い。しかも〝運営の審査をくぐり抜けて、それらを実行する〟というオマケつきだ。普通に考えれば無理がある。今回の仕掛けは、もっと単純で……なおかつ、トリッキーなものだと推測している」
探偵の話の途中から、コヨミの眼がぐるぐると回り、見開いたままで焦点を失い始めた。
彼女に難しい話は通じない。
隣から手を回してその耳を塞いでやりながら、ナユタは声をひそめる。
「……VRMMOを利用した記憶の盗み見って、要するに尋問用の技術ですよね? たとえばこのクエストがデータを集めるためのテストケースだったりとか、そういう可能性は……」
探偵が片目を瞑った。
「おもしろい発想だが、その可能性は排除していい。そんな危ない技術をこんな形で外へ流出させるメリットがないし、逆に注意喚起や問題提起が目的なら、もっと目立つ形でアピールする。詳しいことは、もう少し調べてみないとわからないが──それより今の問題はヤナギ氏だね。今は横浜港北総合病院に入院中らしい。ヤナギ氏の奥方も私から聞きたいことがあるようだし、見舞いがてら行ってくる。悪いが先にログアウトさせてもらおう」
クレーヴェルが残りの豆かんをかきこみ、席を立とうとした。
(横浜……港北総合病院?)
ナユタはその病院を知っていた。
呼び止めるより早く、反射的に探偵の腕を摑む。
そんな自分の行動に少し驚きながら、彼女は探偵をじっと見上げた。
「あの……私もお見舞いに行っていいですか? その病院、うちからもすぐ近くなんです。電車で三十分もかかりません」
地域屈指の──というよりは国内でも有数の大病院である。
メディキュボイドと呼ばれる医療用の大型フルダイブ機器をいち早く試験導入したことでも知られており、難病の患者も多く入院していた。
ナユタも以前、交通事故で怪我をした際にしばらく入院したことがある。
彼女がメディキュボイドを使用する機会はさすがになかったが、院内でアミュスフィアのレンタルがあり、多くの患者が暇潰しにそれらを使用していた。
あるいはヤナギも、そうした立場なのかもしれない。