囁くように声をかけて一礼する。
端末から顔をあげたクレーヴェルは、挨拶も返さないうちに眉をひそめた。
「……驚いた。君、ゲーム内と容姿が変わらないのか」
「……いえ。探偵さんほどではないと思いますが。もう目印とか要らないですよね?」
戦巫女のナユタは、少なくとも衣装がまるで違う。スーツ姿の彼のほうがよりゲーム内の印象とも近い。
探偵はまじまじと無遠慮な視線をナユタに向けた。
「──君はもしかして、いい所のお嬢さんなのか?」
「いいえ。ただの一般家庭です。どうしてですか」
「姿勢がいい。言葉遣いもしっかりしているし、浮ついたところがない。世間一般の高校生とは雰囲気が違う」
誉められたのか怪しまれたのか、微妙なところではある。
「関係あるかどうかわかりませんが、母が元婦警で、父と兄が揃って警察官です」
「……納得した。そういうご家庭か」
若干の牽制も込めて、ナユタは正直に話した。
探偵は病院に向けてそそくさと歩き出す。
ガードレールで区切られた歩道は狭く、向かいからも歩行者が来るために並んでは歩きにくい。必然的に、ナユタは探偵の数歩後ろへと続いた。
「親兄弟揃ってということは、君もそっちの道へ進むのかな?」
「いえ。私は普通に大学へ行って、一般の企業に就職するつもりです。警察は大変そうですし、体を動かすのも苦手なので」
身も蓋もない言い方をすれば、単純に胸が重い。走り込みは大の苦手で、最近は体育の授業すら苦戦している。彼女がゲームの中で殊更に身軽さを求めるのは、現実世界における不満の裏返しでもあった。
そんな事情を知らないクレーヴェルは、ピントのずれた訳知り顔で頷く。
「賢明だ。あの界隈は向き不向きが大きい。上下関係の厳しい体育会系に慣れていればともかく、君みたいに物静かなタイプは苦労するだろう」
「……詳しそうですね? 警察にお知り合いでも?」
「そこそこ多い。商売柄、ね──ああ、探偵業のことじゃないよ」
背広の内ポケットから名刺が出てきた。
受け取ったナユタは、ここで初めてクレーヴェルの本名を知る。
「……クローバーズ・ネットワークセキュリティ・コーポレーション……代表取締役社長・暮居海世……社長?」
この若さで社長となると、探偵以上に胡散臭い。
ナユタの冷たい眼差しに気づいたのか、クレーヴェルは肩をすくめ言い訳を始めた。
「肩書きだけだ。仲間と立ち上げたセキュリティ関係のベンチャー企業なんだが、私が一番、口が上手いものだから、流れでそういうことになった」
「はあ……社長さんがゲームで遊んでいて、会社は大丈夫なんですか……?」
余計なこととは知りつつ、つい口にしてしまう。当初の予定では明日以降、クレーヴェルはヤナギのためにほぼ二十四時間態勢で攻略にあたると明言していた。
「その点は問題ない。探偵業、観光業での収入も会社の利益として計上しているし、要するにこれも業務の一環だ。ゲームを通じて知り合った顧客もそれなりに多い。むしろやめると新規顧客の獲得に支障がでる。口コミというのは案外、馬鹿にできないから」
どうやら彼の観光案内には、将来の顧客を獲得するための営業活動という側面もあるらしい。
「つまり、私にとってはヤナギ氏とそのご家族も重要な顧客候補なんだが──君は彼の素性について、もう何か気づいているのかな?」
ナユタは首を横に振った。
「あの報酬が本気なら、〝お金持ちなんだろうな〟くらいです。後は……お餅関係の知識からして、料理人とか研究者、先生とかの可能性は考えましたが、たぶん違うとも思っています」
振り返ったクレーヴェルが眼を細めた。
ちょうどいいタイミングで赤信号に捕まり、二人は立ち止まる。
「そう判断した理由は?」
「そもそも私の勘なんてあてになりませんから。強いて言えば話し方です。腰が低いのに気品があって、育ちも良さそうで──商売人の話し方、って印象でした。それも自己主張が強い創業者タイプじゃなくて、周囲に配慮しながら伝統を守る二代目、三代目……時代劇なら、大きな商家のご隠居とか似合いそうですよね」
探偵が呆れたように息を吐いた。
「──あてにならないどころか、君の勘と分析はかなり精度が高い。確かに彼は、ある老舗のご隠居──あの《矢凪屋竜禅堂》の現会長だよ」
ナユタは耳を疑った。
クレーヴェルが差し出した携帯端末には、矢凪屋のホームページが表示されていた。
会長挨拶に掲載された写真の顔立ちは、確かにゲーム内で見たヤナギとよく似ている。
日本各地のデパートに売場を確保している矢凪屋竜禅堂は、和菓子業界の大手老舗だった。
定番商品の〝やなぎ餅〟は、生地に果物の風味を練り込んだ餅菓子で、その種類は林檎、柚子、桃、蜜柑、葡萄、更に季節限定のさくらんぼや西瓜、柿、栗など多岐にわたる。
一箱に八種の味が詰め合わされており、価格も手頃とあって、長くファンに愛されている逸品だった。
手土産の定番商品だけに、当然、ナユタも一度や二度でなく食べたことがある。
信号が青に変わり、二人は横断歩道を歩き出す。
まわりに他の通行人はいないが、探偵は心持ち声をひそめた。
「矢凪屋竜禅堂の五代目にして現会長、矢凪貞一──それがヤナギ氏の現実での姿だ。若い頃には菓子職人としても腕を振るったらしいし、数年前までは製菓系専門学校の理事も務めていた。厳密には料理人でも教師でもないが、それに近いという点まで含めて、君の勘は恐ろしい精度で的中している。警察官の血筋かな?」
「ただの偶然です。それより……ヤナギさんの正体を、探偵さんはいつ知ったんですか」
目的地の病院を遠くに認めつつ、ナユタはクレーヴェルの横顔をうかがった。
探偵は素知らぬ顔で微笑む。
「私は最初から知っていた。仲介者から〝くれぐれも失礼がないように〟と念を押された時点で、依頼人の素性を確認したからね。ただ……彼がどうして《幽霊囃子》にこだわっているかについては、まだ聞いていない。それをこれから確認しにいく」
「……あらかた、予想はついていますよね?」
クレーヴェルが嘆息を返した。
「ああ。君も感づいていそうだが、言わなくていい。おそらく、今日……これから説明を受けることになるだろう」
ナユタは無言で頷いた。
探偵がついでのように付け足す。
「そういえば、ヤナギ氏の容態が悪化したのは、ログアウトの直後ではなく……《配信停止》の一報を見た直後だったそうだよ。よほどショックだったんだろうね」
その瞬間のヤナギの落胆を思うと、どうにもやりきれない。
やがて二人は横浜港北総合病院の正面に着いた。
日曜日だけに外来の患者はいないが、見舞い客がちらほらと正面玄関から入っていく。
彼らの後に続きながら、ナユタはまた、そっとクレーヴェルの横顔を見上げた。
いかに印象が化け狐のようだとはいえ、まさか本物の狐狸妖怪ではない。
ただその点を差し引いても──彼の涼やかな眼は何故か空虚で、どことなく抜け殻のようにも見えていた。
ヤナギの病室は、ごく狭い個室だった。
シングルサイズの電動ベッドが一つと、見舞い客が座るための積み重ね可能な丸椅子が三つ。他にはこれといった家具もなく、隣室との壁も間仕切り程度の薄さしかない。
道中の情報からVIP用の特別室を想像していたナユタは、つい拍子抜けしてしまう。