窓の向こうには薄曇りの春空が広がっていたが、他に見えるのは付近の高層ビルや道路ばかりで、眺望もさほど良くはない。
特別室が埋まっていたのか、それともヤナギが質素な性分なだけなのか──おそらくは後者だろうと、ナユタは見当をつけた。
病室で彼女達を出迎えたのは、薬で眠るヤナギと、にこやかな老妻だった。
「あらあら、まあまあ……この人ったら、こんな年になってこんなお若くて綺麗なお友達ができるなんて……うらやましいわあ。はじめまして、矢凪の妻の寿々花と申します」
着物姿の老婆は、邪気のない柔らかな笑みで来客の二人を交互に見つめた。
「ええと……お二人は、お付き合いをされているのかしら?」
挨拶もそこそこに飛んできた爆弾を、探偵が冷静に処理する。
「いえ。彼女はヤナギさんの道案内をした縁で、ゲームの攻略を手伝ってくれている学生です。私とも昨日、初めて会ったばかりでして」
寿々花がまるで子供のように首を傾げる。
「あら、そうなの? とてもお似合いだからてっきり──失礼いたしました。まあ……条例とかあるものね? 対外的には、ね?」
誤解を改める気はないらしい。
客商売らしい愛想の良さで、寿々花はナユタににっこりと笑いかける。
「それにしてもお嬢さん、本当に綺麗ねえ……この人ったら、ゲームの中で若い子をナンパしてたの? この年まで浮気なんてしたことなかったのに、お婆ちゃん、ショックだわあ──」
あまりにおどけたその物言いに、ナユタは苦笑を返した。
「いえ、ヤナギさんが道に迷っていらしたので、私達から声をおかけしたんです。その後は私達が勝手に、何かお手伝いできればと思いまして……」
寿々花がくすりと笑った。
「この人、昔からそういうところがあるの。なんだか知らないけれど、いいタイミングでいろんな方に助けていただけて……妻の私が言うことでもないけれど、日頃の行いがいいのかしら? ま、この人の最大の幸運は、私みたいな素敵な奥さんと結婚できたことなんですけれどね?」
茶目っ気たっぷりにのろけるあたり、夫婦仲は極めて良好らしい。
寿々花はにこにこと笑い、世間話を続ける。
「お嬢さんも、結婚相手は慎重に選ぶのよ? あ、でも慎重すぎてもだめ。第一印象でぴんとくることなんてそうそうないし、完璧な相手なんていないんだから。とりあえず顔が好みだったらある程度のことは我慢できるはずだから、この探偵さんみたいな方は割と優良物件よ? 年が少しくらい離れていたって、六十、七十になれば大差ないの。私だって亭主より一回りも年下で……」
「──失礼、本当にそういう関係ではありませんので、ご容赦ください。私はまだ逮捕されたくありません」
顔合わせ早々に会話のペースを握られた探偵が、徒労に終わりそうな弁明を切り上げてどうにか本題に入る。
「さっそくですが、ヤナギさんのご容態はいかがでしょうか? 一緒にゲームをしていたもう一人の仲間も、とても心配していまして──」
コヨミを出しにして、彼は自然に会話をつないだ。
ベッドのヤナギは点滴を刺したまま眠っている。
その顔はゲームの中よりもかなりやつれ、体も一回り縮んで見えた。
寿々花が微笑み、ヤナギの骨張った手をそっと撫でた。
「大丈夫です。今はお薬で眠っているけれど、もうじき起きますわ。ごめんなさいね、急に来ていただいて……本当は私が出向くべきなんだけれど、この人の傍にいてあげたかったし、ゲームのこともちょっとよくわからなくて。ぶいあーる……えぬえぬおーでしたっけ……?」
探偵が小声で応じる。
「VRMMOです。バーチャル・リアリティ・マッシヴリィ・マルチプレイヤー・オンライン──要するに、現実と見紛うほどにリアルな空間を舞台にした、大規模で、なおかつ多人数が同時に遊ぶオンラインゲームのことです。私はそこで観光案内の真似事をしています」
SAO事件に絡むワイドショー等で散々に槍玉にあげられ、この略称もすっかり国内に定着したが、そういった番組を見ない層にまではさすがに浸透していない。
寿々花は困ったように首を傾げた。
「難しいお話ねえ……ごめんなさい、やっぱり私にはよくわからなくて。でも、矢凪は皆さんにとても感謝していました。昨日の夜も、珍しく楽しそうで……今朝、そのゲームの配信停止の知らせを見るまでは、本当に元気だったの。改めて……ご心配とご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
穏和な顔に諦めと寂しさを漂わせ、老婆は深々と頭を下げた。
──彼女はもう、伴侶の死が近いことを知っている。そして相応の覚悟も決めている。
ナユタは眼を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
ここから先の話はおそらく重いものになる。
沈黙を破ったのは探偵の声だった。
「……一つ、うかがってもよろしいですか? ヤナギさんは、どうしてそこまで──あのクエストにこだわっているのでしょうか」
「くえすと……?」
寿々花が首を傾げる。ゲーム系の用語とは、やはり縁がないらしい。
「失礼、クエストというのは、件の《幽霊囃子》のことです。報酬の額といい、何かよほどの事情があるのではとお見受けしました」
寿々花が眼を伏せた。
「……矢凪からは、なんと?」
「何もうかがっていません。ただ……ある程度、想像はついています」
クレーヴェルはわずかな逡巡を見せた後、殊更に声をひそめた。
「プライバシーに立ち入るようで恐縮ですが……あの《幽霊囃子》は、あなた方のご家族──おそらくはお孫さんが制作されたものです。そしてその方は、残念ながらもうお亡くなりになっている……そうですね?」
探偵の静かな声は確信に満ちていた。
ナユタも彼と同じ推論を得ている。
今回の《アスカ・エンパイア》のイベント、《百八の怪異》は、ユーザーからの応募作によって成り立っていた。
当然ながら、それらの応募作には制作者がいて、その制作者には家族がいる。
孫が懸命に制作したゲームの顚末を、死ぬ前に見届けたい──死期の近いヤナギを初めてのVRMMOに駆り立てた動機は、そんな家族として当たり前の、ごく人間らしい感情だったのだろう。
そんなヤナギがゲームの攻略を見ず知らずの探偵などに依頼している時点で、その制作者が今、自らゲーム内を案内できない状態にあることも想像がつく。
何より──ゲームの中で会ったヤナギは、どこか哀しげな、放っておけない気配を漂わせていた。
寿々花が俯いたまま、そっとハンカチを口元へ添える。
「……お察しの通りです。昨年の十二月──私達の孫の清文が亡くなりました。まだ十代で……私達の半分どころか、四分の一も生きていないのに……ほとんど学校にも通えず、長い闘病の末、息を引き取りました──」
ナユタは何も言えない。孫を喪った老人にかけられる言葉など、若い彼女には思いつかない。
ナユタがうっすらと事情に感づいたのは、《幽霊囃子》に現れた城の門前で、コヨミが「小学校の修学旅行で日光へ行った」
ことに触れた時だった。
あの時、ヤナギは「修学旅行」という単語に動揺していた。その理由について、ナユタは彼女なりにいくつかの可能性を推測したが、うち一つがどうやら的中していたらしい。
事情が事情だけに、当たったところで嬉しくはない。
クレーヴェルが眉をひそめた。
「……つらいことを聞くようですが……お孫さんは自分の死期が近いことを、もうだいぶ前から理解されていたようですね?」
寿々花はゆっくりと頷く。
「ええ。《幽霊囃子》は、清文が制作した最初で最後の作品です。あの子は──死ぬ前にどうしても、自分の生きた証を遺したかったのね。運営の方から採用の連絡が届いた時は本当に嬉しそうで、みんなが遊べるようになる日を楽しみにしていたのですが……あの子の体は、もう限界だったんだと思います」
その声はかすれていた。
ナユタはつい、痛ましくなり俯いてしまう。
探偵がナユタの肩を軽く叩いた。