「君まで気落ちしてどうする。ヤナギさんが、我々にこのことを黙っていた理由についても……君ならもう気づいているはずだ」
ナユタは頷いた。
孫の作ったゲームで一緒に遊ぶナユタ達に、暗い気持ちなど共有して欲しくはない──あるいは、孫の作品で純粋に楽しむ他のプレイヤーの姿を、彼は実際に傍で見たかったのかもしれない。
背景にある重い事情を知れば、どうしても自然体ではいられなくなる。
もっとも──幽霊囃子が配信停止となった今、ヤナギがあのクエストをプレイできる機会は、おそらくもう来ない。
今のナユタには、その事実が殊更に重く感じられた。
そしてヤナギの妻たる寿々花も、このことを懸念しているらしい。
「……ねえ、探偵さん。私には、ゲームのことはよくわからないのですけれど……再配信というのはいつ頃……?」
彼女の不安げな声に、クレーヴェルは演技でない神妙な顔で応じた。
「正直に申し上げてわかりません。運営次第ですが、今までの例からすると、早くても一ヶ月程度はかかるかと思います」
「一ヶ月……」
寿々花の表情が目に見えて曇った。
ヤナギの体は、その頃までもたないらしい。攻略期限の一週間すら、今の彼にとって確実な猶予ではなさそうだった。
「……寿々花さん。探偵さんを困らせるものじゃないよ……」
いつの間にか目覚めていたヤナギが、病床からくぐもった声を寄越した。
ゲーム内の彼とは違い、声は聞き取るのが困難なほどに弱々しい。
「……ヤナギさん」
ナユタは無意識のうちに枕元へ近寄った。
「……わざわざ来ていただき、恐縮です。お嬢さんは……ナユタさんですな……?」
寝そべったまま微笑するヤナギへ、ナユタは頷いてみせた。
「はい。ナユタです。コヨミさんは関西にいるので、さすがに来られなかったんですが……ヤナギさんのことを、とても心配していました。クエストの再配信に備えて、はやく元気になってくださいね」
精一杯の思いでそう告げると、ヤナギは力なく頷き、眼を伏せた。
「……ちと、夢を見ていました。亡くなった孫が出てきまして……何か言いたげなのですが、声が聞こえませんで……どうしたものかと途方にくれていたところ、狐が出てきて眼が覚めました。そういえばあの狐、探偵殿に似ていましたな──」
水を向けられたクレーヴェルがかすかに笑った。
「よく狐顔とは言われます。稲荷神社へ行ったら、通りすがりの他人に拝まれたこともありますよ」
この冗談にヤナギも頰を緩める。
「……わざわざご足労いただき、申し訳ありませんでした。手付け金については後で振り込ませますが、事情が事情ですので、依頼のほうはもう……」
「そう。ご依頼の件です。今日はそれでうかがいました」
クレーヴェルが態度を改め、妙に澄んだ声を発した。
「昨日は契約に至りませんでしたが、もう月曜日まで待つ必要もないでしょう。今の段階で、私と契約されるか否かのご決断をお願いいたします。金額は昨日の条件と同じ──そしてご契約いただいた場合には、〝一週間以内のクリア〟に向けて、私が全力を尽くします。その手段については、こちらにお任せいただきますが──」
「ちょ、ちょっと、探偵さん……!?」
ナユタは思わず口を挟んだ。
クエスト、《幽霊囃子》は配信停止になっている。一週間以内のクリアどころか、今はそもそもプレイすらできない。そのことは彼も把握している。
クレーヴェルがナユタに片目を瞑ってみせた。
「今朝も言った通り──私はまだ諦めていない。ヤナギさん、貴方にまだゲームをプレイする気力があるのなら、私は全力でそれを支援します。貴方がフルダイブできる状況になり次第、可能なら明日にでも攻略再開といきましょう」
事も無げに言う探偵の姿に、ナユタは目眩がした。
「探偵さん、ですから、肝心のクエストが……!」
この指摘には答えず、クレーヴェルがナユタをちらりと見た。
「君、明日は学校かな? 春休みにはまだ早いか」
「……午前中で終わりです。試験の返却と補講だけなので、お昼前には家に帰れます。私は部活もやっていませんし」
探偵が軽く手を叩いた。
「結構。それなら十三時に事務所で待ち合わせよう。ヤナギさんも可能ならぜひおいでください。それから──お二人にはその時点で、我が社と《アルバイト》としての雇用契約を結んでいただきます」
「……え? あの……いや、何言ってるんですか?」
わけがわからないまま、ナユタは病床のヤナギと顔を見合わせる。
そんな二人をにこやかに眺めるクレーヴェルの姿は、どこからどう見ても、人を化かす性悪の狐そのものだった。
猫は神である。
古代エジプトにはバステトという猫の女神がいた。
狐も神である。
全国津々浦々に広がる稲荷神社は、五穀を司る倉稲魂神を祭っており、狐はその使いとされている。
「……つまりね。ここの二階って、猫神様とお稲荷さんが隣り合って存在している、神仏習合ならぬ猫狐習合の祭殿なんじゃないかとゆーケモナー大歓喜の説が……!」
「……コヨミさんって、たまに私の知らない専門用語を駆使しますよね。ケモナーってなんですか?」
「……えっと……愛情の幅が通常より広い人たち?」
ヤナギの見舞いから一夜が明けて、月曜日の三ツ葉探偵社──
事務所のソファに居座るナユタとコヨミのとりとめもない会話に、出社したばかりの探偵から苦情が入った。
「私は顔が狐に似ているというだけで、稲荷神社とは関係ない……それより〝十三時に集合〟と伝えたはずだが……今、何時かな?」
「あ、探偵さん、ちーっす。壁に立派な柱時計があるよ? えーと……十一時だね」
ナユタの膝枕を堪能しつつ、コヨミが面倒そうに応じた。
探偵が目元を押さえる。
「パーティーメンバーなら鍵を開けられる設定にしていたのが間違いの元か……ナユタ、学校は?」
「午前中だけ、って昨日言いましたよね? 私、学校まで徒歩五分のところに住んでいるので、往復にはほとんど時間がかからないんです」
「……コヨミ、会社は?」
「何? 探偵さんとこには〝有給休暇〟って概念が存在しないの? うわぁ、ブラック……労基に眼ぇつけられないようにね?」
執務机に座りながら、探偵が深々と嘆息した。
「確かに、年度末が近い週の月曜日にその権利を行使できるような職場と比べれば、多少は黒いかもしれないが──こんな急なタイミングでよく申請が通ったね」
探偵の皮肉を受けて、コヨミの眼がうつろに転じた。
「……ねんどまつ……げつよーび……なゆさん……探偵さんがいぢめる……」
「はいはい。私はコヨミさんの味方ですから。忙しい時期にお休みとってまで攻略を手伝っていただいて、感謝しています」
コヨミの頭を撫でてあやしながら、ナユタは探偵を軽く睨んだ。
クレーヴェルが咳払いでごまかす。
「……いや、私も別に感謝していないわけじゃないんだが──ここで寝ていても退屈だろうから、余所へ行ってきたらどうかな? ヤナギ氏が来るまでまだ二時間もある」
コヨミがナユタの袴に頰をすりよせ、猫のように喉を鳴らした。
「あ、お構いなくー。なんかここ、意外に居心地いいんだよねえ……ほのかな紅茶の匂いとか、喫茶店みたいだし。他人の目がないから、なゆさんも恥ずかしがらずに膝枕してくれるし」
思うところがないわけではないが、有給休暇を消費してまで来てくれたコヨミに対し、ナユタとしても多少の譲歩はやむを得ない。そもそもお互い、仮想空間における偽物の体である。
探偵が指先で机を叩いた。
「なるほど。ところで、私という他人の存在を忘れていないか?」
コヨミがしばし考え込む。