「……探偵さんは胡散臭すぎて、なんか存在感がNPCっぽいかな、って」
「初対面の時といい、君は本当に言いたい放題だな」
説得を諦めた探偵が、執務机の上にノートパソコンを広げた。
たちまちコヨミが眼を見開く。
「……何その世界観ブチ壊し、かつレトロなパソコン……本物?」
「作業用のシステムをノートパソコンの形にリファインしただけだ。バーチャルオフィス機能の流用だよ。おそらく──《幽霊囃子》を制作した矢凪清文という少年も、同じように仮想空間から《ザ・シード》を扱い、作業を進めていたんだろう」
探偵はパソコンを操作しながら話し続ける。
「仮に現実では体が不自由であっても、この空間ではそんなハンデは影響しない。片腕を失った者でもこの世界なら両手を使えるし、眼精疲労や肩こり、腰痛といった肉体的な疲労の蓄積もほとんどなくなる。脳の疲労と運動不足という問題点は残るが……寝たきりの人間でも心おきなく作業できる環境を実現させたという意味では、VR技術は単なるゲームや医療の垣根を飛び越え、労働環境の革新をももたらしつつある」
コヨミがかっくんと首を傾げた。
「ふーん……あんまりそういう話聞かないけど?」
「かなり業種が限られるからね。あくまでデスクワークだけの話だし、肉体的なハンデさえなければ、まだ旧態依然とした労働環境のほうが都合がいいという職種が大半だ。ただ──将来的には拡大するだろう。職場の家賃も安くあがるし、自宅にいながらアミュスフィアをつけるだけで出勤完了となれば、交通費も通勤時間も不要になる。自宅のパソコンをネットワークにつなぐだけの、旧世代のバーチャルオフィスとはわけが違う。これらのメリットは学校にも応用できるな」
「……つまり、満員電車に乗らなくてもいいってことだよね? うわぁ……いいなあ……それいいなぁ……」
恍惚と呟くコヨミに、クレーヴェルが嘆息を向けた。
「必ずしもいいことばかりじゃないけれどね。流れが加速すれば、オフィス用物件の賃貸価格、並びに不動産としての評価も暴落するだろうし、交通機関も需要減で赤字に陥る。サラリーマンや学生の飲食をあてにしている店も客足が遠のくし、通勤・通学の必要がなくなれば、化粧品や婦人服、紳士服、制服関係もダメージを受ける。波及する分野は他にも多種多様……」
コヨミが呆けた顔に転じた。
探偵はパソコンを操作しながら、淡々と持論を話し続ける。
「会社や学校ばかりじゃない。経済の役割は人間の欲望を満たすこと。本物で欲望を満たす必要がなくなり、実体がなく低コストなデータだけでそれを満たせる時代がくれば、多くの製造業やサービス業が大打撃を受ける。時代の流れといえばそれまでだが……なかなかどうして、将来を悲観し頭を抱えている企業も多いはずだ」
彼の呟きは、まるっきり他人事のようだった。実際に他人事なのだろうが、極論でナユタやコヨミの反応を試しているような気配もある。
コヨミがナユタの膝を袴越しに撫で回した。
「うーん……? でも《百八の怪異》でも、いろんな企業とタイアップしてるじゃん。悲観どころか、割と盛り上がってると思うけど?」
「それらの企業は、なんとかして今のうちにVRの市場へ食い込もうとしている。たとえば本物の衣服でなくデータの衣服を売る、あるいはゲーム内の商品を本物にする──そういった様々な商売にどの程度のニーズがあるのか、検証して活路を見出したいんだろう。イベントを盛り上げプレイヤーを増やしたい《アスカ・エンパイア》運営と、市場調査をしつつ新しい商売のノウハウを探りたい各種企業、その双方の思惑が合わさって、《百八の怪異》は生まれた。だからこそ──まだ始まったばかりの今の時期に、余計な問題が起きては困る。これも《幽霊囃子》が早い段階で配信停止に至った理由の一つだろうね」
ナユタは考え込む。
本物とデータ。
現実世界と仮想世界──
人間が生き物である以上、現実世界は必須のものではある。電力やハードウェアをはじめ、そもそものインフラがなければ仮想世界も維持できない。
肉体が必要とする栄養素もデータでは摂取できないため、農業や漁業、畜産業、それらの産品を流通させる仕組みもあわせて必要となる。
だが、そうした必須の産業を除いた多くの事柄において──仮想世界のメリットは、現実世界のデメリットを軽々と凌駕しかねない。
仮想世界では身体的なハンデを大きく軽減できる。
無人のハイウェイを高速でドライブできる。
鳥のように空を飛び、魚のように深海を泳ぎ、猫のように自由に振る舞える。
行列に並ばず、予約なしで人気店のディナーを好きな時に安価で味わえ、美しい異性と一夜の逢瀬を後腐れなく体験でき、胸躍る冒険や迫り来る恐怖に死の危険なく立ち向かえる。
たとえそれらが偽物であったとしても──現実のダメな自分と、無縁でいられる。
VR技術によって五感がリアルに近づけば近づくほど、これらの魅力に現実は太刀打ちできなくなっていく。
もしかしたら今後数百年で、現実は一部の人間にとって必須のものではなくなるのかもしれない。
古いSFにも、そうした世界を題材にしたものがいくつか存在する。
完全管理されたそれらの社会において、単純労働はすべて機械化され、故障した機械の修理すらも機械が行い、人は夢の中で享楽の時間を過ごし続け、子供すら人工授精によって培養基の中で生まれる。
生まれた時から死ぬまで夢の中をたゆたい続け、どこかのタイミングで何か大きな天変地異が起きたら、その瞬間にすべてが滅ぶ──いずれそんな時代が来たとしても、ナユタは驚かない。
無論それは、彼女の寿命が尽きた後の、さらに何世代も歳月を重ねた末の、遠い未来の極端な可能性だろうが、もしかしたら〝今〟は、その転換点といえる時期なのかもしれなかった。
そんな未来を「羨ましい」ととるか「おぞましい」ととるかは、個人の価値観に拠る。
極端な例をいえば、もしも人類を壊滅させるほどの疫病が蔓延し、生存者をシェルターに隔離して、人という種子をつなぐことだけを考えた場合──こうした《仮想世界》は、そのための快適な箱船になるのだろう。
ぼんやりと思案するナユタの前に、事務所の奥から現れた黒猫が紅茶のおかわりを置いていった。
ふくよかな香りで我に返り、彼女は探偵に視線を送る。
気づいたクレーヴェルがわざとらしい微笑を返した。
「どうした、ナユタ? 寝不足かな」
「……いえ。少しぼうっとしてました。あの……探偵さんって、VR技術の進歩についてはどう思っているんですか? こんな仕事をしている割には、なんとなく冷めているというか、懐疑的というか、少なくとも楽観的に見ているわけではなさそうですけれど──」
クレーヴェルが眼を細めた。笑ったわけではなく、彼は思案のためにしばらく沈黙する。
「君の口からそんな質問が出てくるとは予想外だけれど……そうだね。肯定的か否定的かと問われれば、幾分か肯定的だ。ただし盲信する気はないし、危惧している要素もそれなりに多い。そして、これが大事なことだが──個人レベルで肯定しようが拒絶しようが、世界はもうこの果実の味を知ってしまった。もしそこに毒が混ざっていようと、今更、手放す気にはならないだろう。なにせこの果実は魅惑的すぎる。だったら、我々は──未来の悲劇を回避するために、あらゆる危険性を考え、対処し続けなければならない。好むと好まざるとに拘わらず、ね」
探偵の口調は、まるで自身に言い聞かせるようだった。
彼の回答に興味を引かれつつ、ナユタは関連する質問を重ねる。
「……もう一つ、聞いてもいいですか? SAO事件の犯人で、VR技術を飛躍的に発展させた茅場晶彦という研究者について──探偵さんは、どう思いますか?」
クレーヴェルの微笑が固まった。
それはナユタにとって思いがけない劇的な変化だった。