二章 狐の見舞い ⑧

「……たんていさんはさんくさすぎて、なんか存在感がNPCっぽいかな、って」

「初対面の時といい、君は本当に言いたい放題だな」


 説得をあきらめたたんていが、しつづくえの上にノートパソコンを広げた。

 たちまちコヨミがを見開く。


「……何その世界観ブチこわし、かつレトロなパソコン……本物?」

「作業用のシステムをノートパソコンの形にリファインしただけだ。バーチャルオフィス機能の流用だよ。おそらく──《ゆうれいばや》を制作したなぎきよふみという少年も、同じように仮想空間から《ザ・シード》をあつかい、作業を進めていたんだろう」


 たんていはパソコンを操作しながら話し続ける。


「仮に現実では体が不自由であっても、この空間ではそんなハンデはえいきようしない。かたうでを失った者でもこの世界なら両手を使えるし、がんせいろうかたこり、ようつうといった肉体的なろうちくせきもほとんどなくなる。脳のろうと運動不足という問題点は残るが……たきりの人間でも心おきなく作業できるかんきようを実現させたという意味では、VR技術は単なるゲームやりようかきえ、労働かんきようの革新をももたらしつつある」


 コヨミがかっくんと首をかしげた。


「ふーん……あんまりそういう話聞かないけど?」

「かなり業種が限られるからね。あくまでデスクワークだけの話だし、肉体的なハンデさえなければ、まだ旧態ぜんとした労働かんきようのほうが都合がいいという職種が大半だ。ただ──将来的には拡大するだろう。職場の家賃も安くあがるし、自宅にいながらアミュスフィアをつけるだけで出勤かんりようとなれば、交通費も通勤時間も不要になる。自宅のパソコンをネットワークにつなぐだけの、旧世代のバーチャルオフィスとはわけがちがう。これらのメリットは学校にも応用できるな」

「……つまり、満員電車に乗らなくてもいいってことだよね? うわぁ……いいなあ……それいいなぁ……」


 こうこつつぶやくコヨミに、クレーヴェルがたんそくを向けた。


「必ずしもいいことばかりじゃないけれどね。流れが加速すれば、オフィス用物件のちんたい価格、並びに不動産としての評価も暴落するだろうし、交通機関もじゆようげんで赤字におちいる。サラリーマンや学生の飲食をあてにしている店も客足が遠のくし、通勤・通学の必要がなくなれば、しようひんや婦人ふくしん服、制服関係もダメージを受ける。きゆうする分野は他にも多種多様……」


 コヨミがほうけた顔に転じた。

 たんていはパソコンを操作しながら、たんたんと持論を話し続ける。


「会社や学校ばかりじゃない。経済の役割は人間の欲望を満たすこと。本物で欲望を満たす必要がなくなり、実体がなく低コストなデータだけでそれを満たせる時代がくれば、多くの製造業やサービス業がだいげきを受ける。時代の流れといえばそれまでだが……なかなかどうして、将来を悲観し頭をかかえているぎようも多いはずだ」


 かれつぶやきは、まるっきり他人ひとごとのようだった。実際に他人ひとごとなのだろうが、極論でナユタやコヨミの反応をためしているような気配もある。

 コヨミがナユタのひざはかましにまわした。


「うーん……? でも《百八のかい》でも、いろんなぎようとタイアップしてるじゃん。悲観どころか、割と盛り上がってると思うけど?」

「それらのぎようは、なんとかして今のうちにVRの市場へもうとしている。たとえば本物の衣服でなくデータの衣服を売る、あるいはゲーム内の商品を本物にする──そういった様々な商売にどの程度のニーズがあるのか、検証して活路をいだしたいんだろう。イベントを盛り上げプレイヤーを増やしたい《アスカ・エンパイア》運営と、市場調査をしつつ新しい商売のノウハウをさぐりたい各種ぎよう、そのそうほうおもわくが合わさって、《百八のかい》は生まれた。だからこそ──まだ始まったばかりの今の時期に、余計な問題が起きては困る。これも《ゆうれいばや》が早い段階で配信停止に至った理由の一つだろうね」


 ナユタはかんがむ。

 本物とデータ。

 現実世界と仮想世界──

 人間が生き物である以上、現実世界はひつのものではある。電力やハードウェアをはじめ、そもそものインフラがなければ仮想世界もできない。

 肉体が必要とする栄養素もデータではせつしゆできないため、農業や漁業、ちくさんぎよう、それらの産品を流通させる仕組みもあわせて必要となる。

 だが、そうしたひつの産業を除いた多くのことがらにおいて──仮想世界のメリットは、現実世界のデメリットを軽々とりようしかねない。

 仮想世界では身体的なハンデを大きく軽減できる。

 無人のハイウェイを高速でドライブできる。

 鳥のように空を飛び、魚のように深海を泳ぎ、ねこのように自由にえる。

 行列に並ばず、予約なしで人気店のディナーを好きな時に安価で味わえ、美しい異性と一夜のおうあとくされなく体験でき、胸おどぼうけんせまり来るきように死の危険なく立ち向かえる。

 たとえそれらがにせものであったとしても──現実のダメな自分と、えんでいられる。

 VR技術によって五感がリアルに近づけば近づくほど、これらのりよくに現実は太刀たちちできなくなっていく。

 もしかしたら今後数百年で、現実は一部の人間にとってひつのものではなくなるのかもしれない。

 古いSFにも、そうした世界を題材にしたものがいくつか存在する。

 完全管理されたそれらの社会において、単純労働はすべて機械化され、故障した機械の修理すらも機械が行い、人は夢の中できようらくの時間を過ごし続け、子供すら人工授精によってばいようの中で生まれる。

 生まれた時から死ぬまで夢の中をたゆたい続け、どこかのタイミングで何か大きな天変地異が起きたら、そのしゆんかんにすべてがほろぶ──いずれそんな時代が来たとしても、ナユタはおどろかない。

 無論それは、かのじよ寿じゆみようきた後の、さらに何世代もさいげつを重ねた末の、遠い未来のきよくたんな可能性だろうが、もしかしたら〝今〟は、そのてんかんてんといえる時期なのかもしれなかった。

 そんな未来を「うらやましい」ととるか「おぞましい」ととるかは、個人の価値観にる。

 きよくたんな例をいえば、もしも人類をかいめつさせるほどのえきびようまんえんし、生存者をシェルターにかくして、人という種子をつなぐことだけを考えた場合──こうした《仮想世界》は、そのための快適な箱船になるのだろう。

 ぼんやりと思案するナユタの前に、事務所のおくから現れたくろねこが紅茶のおかわりを置いていった。

 ふくよかなかおりで我に返り、かのじよたんていに視線を送る。

 気づいたクレーヴェルがわざとらしいしようを返した。


「どうした、ナユタ? そくかな」

「……いえ。少しぼうっとしてました。あの……たんていさんって、VR技術の進歩についてはどう思っているんですか? こんな仕事をしている割には、なんとなく冷めているというか、かいてきというか、少なくとも楽観的に見ているわけではなさそうですけれど──」


 クレーヴェルがを細めた。笑ったわけではなく、かれは思案のためにしばらくちんもくする。


「君の口からそんな質問が出てくるとは予想外だけれど……そうだね。こうていてきか否定的かと問われれば、いくぶんこうていてきだ。ただしもうしんする気はないし、している要素もそれなりに多い。そして、これが大事なことだが──個人レベルでこうていしようがきよぜつしようが、世界はもうこの果実の味を知ってしまった。もしそこに毒が混ざっていようと、いまさら、手放す気にはならないだろう。なにせこの果実はわくてきすぎる。だったら、我々は──未来の悲劇をかいするために、あらゆる危険性を考え、対処し続けなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、ね」


 たんていの口調は、まるで自身に言い聞かせるようだった。

 かれの回答に興味を引かれつつ、ナユタは関連する質問を重ねる。


「……もう一つ、聞いてもいいですか? SAO事件の犯人で、VR技術をやくてきに発展させたかやあきひこという研究者について──たんていさんは、どう思いますか?」


 クレーヴェルのしようが固まった。

 それはナユタにとって思いがけない劇的な変化だった。

刊行シリーズ

ソードアート・オンライン オルタナティブ クローバーズ・リグレット3の書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ クローバーズ・リグレット2の書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ クローバーズ・リグレットの書影