二章 狐の見舞い ⑩

「先日はご心配をおかけしました。おかげさまで、こうして動けるようになりまして──本日はよろしくお願いいたします」


 たきりの本体と比して、こちらのヤナギは血色も良く生気にあふれている。


「ヤナギさん、こんにちは。あの……お医者さんに止められたりとかは……?」


 ナユタのねんに、ヤナギは困ったようなみを返した。


「はい、止められはしました。通常の仮想空間であればむしろ安静に過ごせて問題ないらしいのですが、ジャンルがホラーとなると、血圧やしんぱくすうに悪いえいきようねんされるとのことで……ただ、こちらの事情もんでいただき、もくにんに近い形でどうにか──まあ、老人のさいままですな。家内も味方になってくれました」

「なによりです。医師の説得については、私もさすがに口をはさめませんので」


 そもそもヤナギが来られなければ、クレーヴェルのもくすいほうに帰すところだった。

 たんていろうそうすすめ、じように三枚の書類を広げる。


「アルバイトのけいやくしよです。電子化して保存を……いや、最初から電子化されていますが、一応、形式上の署名をいただければと思います。お手数ですが、もちろんキャラクターネームではなく実名で」


 ナユタとコヨミも書類に手をばした。

 書かれている内容は通りいつぺんの注意と時給等についてで、特におかしな部分はない。


「今回のことで、お金を受け取る気はありませんが……」

「すまないが、けいやくしてくれないとテストプレイヤーとして登録できない。ていさいとしてはあくまで〝アルバイトのテスターをうちの会社が用意した〟という形になっている。ようけいやくしよがないと向こうも困るんだ」


 コヨミがうなる。


「うーん……うちの会社、割とゆるいからこれくらいならだいじようそうだけど……バレないよね?」

「君自身が口をすべらせない限りは問題ない」


 クレーヴェルの返しはじようだんのつもりだろうが、ナユタとしてはむしろ、一番有り得そうな事態だと感じてしまう。

 ヤナギがだつりよくするように笑った。


「私はたんてい殿どのほうしゆうと必要経費をはらい、経費の一部を時給として受け取るわけですな。なんともはや、みようけいやくになりました」

きようしゆくです。ヤナギさんほどの大物経営者をこの時給でやとう機会など、後にも先にもこれっきりでしょう」


 たんていしようを見せながら、ナユタが署名したけいやくしよを回収した。

 その視線が不意にぴたりと止まる。


「何か不備がありましたか?」


 たんていは書類から視線を外さないまま、へいたんな声をしぼした。


「……ナユタ……君の、この名字は……」


 署名は〝くしいな〟──

 ナユタにとっては、特にめずらしい反応ではない。


「ああ、〝くしいなだ〟って読むんです。めずらしいでしょう? 田んぼのいねくしみたいに連なって豊作になるように、っていう願いをめて、できた名字らしいんですけれど……神話の奇稲田くしなだひめみたいでちょっとおそおおいですよね。むしろおそおおいから、先祖のだれかが読みを一字変えたんじゃないかって、父が言ってました」


 たんていみようかたい表情のままうなずいた。


「……確かに、変わっているな。めずらしい名だ──」


 思い返せば、これまで名乗っていなかった。オンラインゲームではむしろキャラクターネームこそが本名のようなもので、実名などは話題のはしにすら上りにくい。


「ほい、たんていさん。私の分もよろしくぅー」


 コヨミが差し出した書類には、〝こよみはらしおり〟とある。

 こちらもそこそこめずらしい名字のように思えるが、たんていは特に何も言わなかった。

 そのままかれは、かべにかけてあったコートを羽織り、愛用のステッキを手に取る。

 やけにましたその態度に、ナユタはわずかなかんを覚えた。


(私の名字が気になったみたいだけど……)


 その理由を問う間もなく、クレーヴェルはけいやくしよをまとめ、とびらに向かう。


「──よし。時間はまだ早いが、ひとまず移動しよう。先方の準備ができていなければ、またもどることになるが──」

「えー。ギリギリの方がいいんじゃない? どこ行くか知らないけど、わざわざ行ってもどるのめんどうでしょ?」

めんどうがるほどきよじゃない。すぐとなりだ」


 たんていかえりもしない。ナユタたちあわててその背を追う。


「あの、たんていさん……となりって、まさか……?」

「そのだ。守秘義務の中でも、これは特に守ってしい」


 たんてい事務所のエントランスには、ここ数日で見慣れてしまった黒いねこだいぶつが今日もちんしていた。

 金色にられたひとみくうえ、前足は左右ともピースサインを示している。

 明らかに昨日までとポーズがちがうが、それはさして問題ではない。

 クレーヴェルがねこだいぶつの前に立ち、像の首輪についた大きなすずをステッキの先でつついた。

 からん、からん、からんと、かわいた音が三回ひびく。

 ナユタの視界のはしで何かが光った。

 たんてい事務所の真向かい──

ねこがみしんこう研究会》のとびらかしりされたねこが、オレンジ色のかがやきを宿している。


「首輪のすずがスイッチになっていてね。これを鳴らさずにとびらを開けると、カモフラージュ用の部屋にしか行けない」


 片手間のように説明しつつ、クレーヴェルはとびらで光るねこのぞんだ。

 たちまちちようこくかんだかい声でしやべり出す。


《プレイヤーデータのもうまくパターンをにんしよう。続いてせいもんをチェックします》



くれです。予定より早くメンバーがそろいました。つかえなければ開けてください」


 スピーカーからねむたげな男の声が応じた。


『ん、りようかいした。ちょいと待ってくれ……』


 つうに開くかと見えたとびらが、まるでシャッターのように真上へまれた。

 その向こう側には、あやかし横丁にもよいやみ通りにも似つかわしくない、白いかべに囲まれたけんきゆうとうのような通路がある。

 まどうナユタたちをよそに、たんていはするするとその先へ進んだ。


「……この〝ねこがみしんこう研究会〟って、つまり……」


 たんていは事も無げにうなずく。


「表向きはあやしい宗教団体──その実態は、チートや非合法のこうかん、修正するために、運営側が設置した仮想空間のきよてんだ。もちろんメインのかんシステムは他にあるけれど、内部からの調査で見えてくるエラーや改善点もあるし、プレイヤー間に流れるうわさの収集等もここで行っている。なるべく存在をかくすように言われているから、うちのスタッフにしか明かせないが──君らも今日だけは私の部下だからね」


 コヨミがあつにとられつつ、ものめずらしげに通路を見回した。

 白いかべは強化プラスチックに近い材質らしく、こうたくもあり清潔な印象がただよう。


「……ほえー……なんか、宇宙船の中みたいな……?」

「そうですね。曲がり角からエイリアンやせんとうようアンドロイドとか出てきそうです」


 ナユタがそんな感想をらすと、たちまちコヨミがうでにしがみついてきた。

 おどしたつもりはない。あくまでなおな感想である。

 たんていがくすくすとわらった。


「君はここの管理者たちしゆが似ているのかな。しんしやが入ると起動するげいげきシステムが、まさにそんな方向性のクリーチャーと機械だ。どうあがいても勝てない設定になっているから、いつぱんプレイヤーはまずとつできない。まあ……事前に許可を得た人間が同行しなければ、そもそもこのとびらが開かないけれどね。セキュリティは二重三重が基本だ」


 後ろに続くヤナギも、半ばあきれ気味にかんたんの声をらす。


「ははあ……和風の世界観が売りのゲームとうかがっていましたが、これはまた……」

「ここは運営側のバーチャルオフィスですから、本来はいつぱんのプレイヤーが目にすることのない場所です。要するに……管理者の都合ですね」


 ナユタののうに、ちょっとした疑問がかぶ。

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ソードアート・オンライン オルタナティブ クローバーズ・リグレット3の書影
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