「先日はご心配をおかけしました。おかげさまで、こうして動けるようになりまして──本日はよろしくお願いいたします」
寝たきりの本体と比して、こちらのヤナギは血色も良く生気に溢れている。
「ヤナギさん、こんにちは。あの……お医者さんに止められたりとかは……?」
ナユタの懸念に、ヤナギは困ったような笑みを返した。
「はい、止められはしました。通常の仮想空間であればむしろ安静に過ごせて問題ないらしいのですが、ジャンルがホラーとなると、血圧や心拍数に悪い影響が懸念されるとのことで……ただ、こちらの事情も酌んでいただき、黙認に近い形でどうにか──まあ、老人の最後の我が儘ですな。家内も味方になってくれました」
「なによりです。医師の説得については、私もさすがに口を挟めませんので」
そもそもヤナギが来られなければ、クレーヴェルの目論見も水泡に帰すところだった。
探偵は老僧に椅子を勧め、机上に三枚の書類を広げる。
「アルバイトの契約書です。電子化して保存を……いや、最初から電子化されていますが、一応、形式上の署名をいただければと思います。お手数ですが、もちろんキャラクターネームではなく実名で」
ナユタとコヨミも書類に手を伸ばした。
書かれている内容は通り一遍の注意と時給等についてで、特におかしな部分はない。
「今回のことで、お金を受け取る気はありませんが……」
「すまないが、契約してくれないとテストプレイヤーとして登録できない。体裁としてはあくまで〝アルバイトのテスターをうちの会社が用意した〟という形になっている。雇用契約書がないと向こうも困るんだ」
コヨミが唸る。
「うーん……うちの会社、割と緩いからこれくらいなら大丈夫そうだけど……バレないよね?」
「君自身が口を滑らせない限りは問題ない」
クレーヴェルの返しは冗談のつもりだろうが、ナユタとしてはむしろ、一番有り得そうな事態だと感じてしまう。
ヤナギが脱力するように笑った。
「私は探偵殿に報酬と必要経費を支払い、経費の一部を時給として受け取るわけですな。なんともはや、妙な契約になりました」
「恐縮です。ヤナギさんほどの大物経営者をこの時給で雇う機会など、後にも先にもこれっきりでしょう」
探偵も微笑を見せながら、ナユタが署名した契約書を回収した。
その視線が不意にぴたりと止まる。
「何か不備がありましたか?」
探偵は書類から視線を外さないまま、平坦な声を絞り出した。
「……ナユタ……君の、この名字は……」
署名は〝櫛稲田優里菜〟──
ナユタにとっては、特に珍しい反応ではない。
「ああ、〝くしいなだ〟って読むんです。珍しいでしょう? 田んぼの稲が櫛みたいに連なって豊作になるように、っていう願いを込めて、できた名字らしいんですけれど……神話の奇稲田姫みたいでちょっと恐れ多いですよね。むしろ恐れ多いから、先祖の誰かが読みを一字変えたんじゃないかって、父が言ってました」
探偵が妙に硬い表情のまま頷いた。
「……確かに、変わっているな。珍しい名だ──」
思い返せば、これまで名乗っていなかった。オンラインゲームではむしろキャラクターネームこそが本名のようなもので、実名などは話題の端にすら上りにくい。
「ほい、探偵さん。私の分もよろしくぅー」
コヨミが差し出した書類には、〝暦原栞〟とある。
こちらもそこそこ珍しい名字のように思えるが、探偵は特に何も言わなかった。
そのまま彼は、壁にかけてあったコートを羽織り、愛用のステッキを手に取る。
やけに取り澄ましたその態度に、ナユタはわずかな違和感を覚えた。
(私の名字が気になったみたいだけど……)
その理由を問う間もなく、クレーヴェルは契約書をまとめ、扉に向かう。
「──よし。時間はまだ早いが、ひとまず移動しよう。先方の準備ができていなければ、また戻ることになるが──」
「えー。ギリギリの方がいいんじゃない? どこ行くか知らないけど、わざわざ行って戻るの面倒でしょ?」
「面倒がる程の距離じゃない。すぐ隣だ」
探偵は振り返りもしない。ナユタ達は慌ててその背を追う。
「あの、探偵さん……隣って、まさか……?」
「そのまさかだ。守秘義務の中でも、これは特に守って欲しい」
探偵事務所のエントランスには、ここ数日で見慣れてしまった黒い猫大仏が今日も鎮座していた。
金色に塗られた眸は虚空を見据え、前足は左右ともピースサインを示している。
明らかに昨日までとポーズが違うが、それはさして問題ではない。
クレーヴェルが猫大仏の前に立ち、像の首輪についた大きな鈴をステッキの先でつついた。
からん、からん、からんと、乾いた音が三回鳴り響く。
ナユタの視界の端で何かが光った。
探偵事務所の真向かい──
《猫神信仰研究会》の扉に浮かし彫りされた猫の眼が、オレンジ色の輝きを宿している。
「首輪の鈴がスイッチになっていてね。これを鳴らさずに扉を開けると、カモフラージュ用の部屋にしか行けない」
片手間のように説明しつつ、クレーヴェルは扉で光る猫の眼を覗き込んだ。
たちまち彫刻が甲高い声で喋り出す。
《プレイヤーデータの網膜パターンを認証。続いて声紋をチェックします》
「暮居です。予定より早くメンバーが揃いました。差し支えなければ開けてください」
スピーカーから眠たげな男の声が応じた。
『ん、了解した。ちょいと待ってくれ……』
普通に開くかと見えた扉が、まるでシャッターのように真上へ吸い込まれた。
その向こう側には、あやかし横丁にも宵闇通りにも似つかわしくない、白い壁に囲まれた研究棟のような通路がある。
戸惑うナユタ達をよそに、探偵はするするとその先へ進んだ。
「……この〝猫神信仰研究会〟って、つまり……」
探偵は事も無げに頷く。
「表向きは怪しい宗教団体──その実態は、チートや非合法の行為を監視、修正するために、運営側が設置した仮想空間の拠点だ。もちろんメインの監視システムは他にあるけれど、内部からの調査で見えてくるエラーや改善点もあるし、プレイヤー間に流れる噂の収集等もここで行っている。なるべく存在を隠すように言われているから、うちのスタッフにしか明かせないが──君らも今日だけは私の部下だからね」
コヨミが呆気にとられつつ、物珍しげに通路を見回した。
白い壁は強化プラスチックに近い材質らしく、光沢もあり清潔な印象が漂う。
「……ほえー……なんか、宇宙船の中みたいな……?」
「そうですね。曲がり角からエイリアンや戦闘用アンドロイドとか出てきそうです」
ナユタがそんな感想を漏らすと、たちまちコヨミが腕にしがみついてきた。
脅したつもりはない。あくまで素直な感想である。
探偵がくすくすと嗤った。
「君はここの管理者達と趣味が似ているのかな。不審者が入ると起動する迎撃システムが、まさにそんな方向性のクリーチャーと機械だ。どうあがいても勝てない設定になっているから、一般プレイヤーはまず突破できない。まあ……事前に許可を得た人間が同行しなければ、そもそもこの扉が開かないけれどね。セキュリティは二重三重が基本だ」
後ろに続くヤナギも、半ば呆れ気味に感嘆の声を漏らす。
「ははあ……和風の世界観が売りのゲームとうかがっていましたが、これはまた……」
「ここは運営側のバーチャルオフィスですから、本来は一般のプレイヤーが目にすることのない場所です。要するに……管理者の都合ですね」
ナユタの脳裏に、ちょっとした疑問が浮かぶ。