病床の少年にとって、祖父から買ってもらったパソコンは新しい世界へとつながる窓だった。
それまでほぼ病室の中だけで閉じていた彼の世界は、開いた窓を通じて、より大きな世界との接点を得た。
窓の向こう側には顔の見えない大勢の人間がいた。
手を伸ばそうとしても届かず、自らの足で窓の外へ出ることも叶わなかったが、外の世界をただ眺められるだけでも、少年にとっては大きな変化だった。
そして、数年後──
唐突に起きたVR技術の飛躍的な進化が、少年の〝窓〟を〝扉〟に変えた。
渇望しても届かないと思っていた世界が、五感を伴って彼の前に拓けた。
それまで視覚と聴覚での認識しかできなかった仮想空間が、脳への微弱電流という形で嗅覚と触覚と味覚を伴いはじめ、四肢を存分に動かす感覚さえも得られるようになった。
そして彼は──
同じ境遇にいる、《仲間達》と出会った。
祭り囃子が遠くに聞こえる。
笛が甲高く、鼓が軽妙に、琴が雅やかに、音をつなげて浮かれ騒いでいる。
一期は夢よただ狂えとでも言わんばかりに、やけくそのような勢いで、寂しげに囃し立てている。
音の出所はもう知れている。
囃子方の姿は見えずとも──彼らの魂は今、目の前にある巨大な城に囚われていた。
少なくともシナリオの上ではそういうことになっているらしい。
城の真正面に立つ戦巫女のナユタは、腰にしがみついた小動物のような相棒へ困惑の視線を送った。
「……コヨミさん、大丈夫ですか? 膝はガクガク、顔は真っ青、目線はうつろで、たぶん本体は冷や汗もかいていそうですけれど──」
忍のコヨミは震え声で応じる。
「……大丈夫じゃない……あのおっさん、何も突入前に、あんな怖いネタぶっこまなくてもいいじゃん……知らなくても知ってるふりして〝あー、あの狐面の子ね! わかるわかる〟的な気遣いをすべきでしょ、いい大人なら……!」
八つ当たり気味にそんな無茶まで言う。恐怖に震える彼女の姿は、見た目の幼さも影響してそこそこ痛ましい。
このテストプレイの開始直前、検証の責任者たる虎尾は、ナユタ達一行にこう告げた。
『この《幽霊囃子》に、プレイヤーの道案内をするようなNPCは登場しない』──
──では、ナユタ達が最初に突入した時、それを出迎えるように現れた《狐面の童》はなんだったのか。
恐がりのコヨミは、すっかりこれが怪談話の類だと思い込んでしまっている。
テストプレイなど諦めて外部で待っていれば良さそうなものだが、それでもあえて突入してきた勇気については褒めてやりたい。
狐顔の探偵、クレーヴェルが呆れたように嘆息した。
「そこまで怖がるようなことかな……? 運営側があの〝狐面の子供〟を認識していないのは意外だったが、〝だから幽霊だ〟と決めつけるのはあまりに早計だ。常識的に考えれば、我々は運営も知らない《隠しキャラ》に出会ったと見るのが妥当だろう。細部の仕様がわからない投稿作品では有り得る話だ」
コヨミが子犬のように唸る。
「うう……へ、下手な気休めはよしてっ! なゆさんが〝まーた探偵さんが噓八百並べてる……〟って呆れた顔してるもんっ!」
これは完全に誤解で、むしろ今はコヨミに呆れている。
彼女の頭を子供扱いに撫でつつ、ナユタは努めて優しい声を紡いだ。
「そんな顔していません。私の意見も探偵さんとほぼ同じです。隠しキャラとの遭遇条件はわかりませんが、低確率での偶然か、あるいは探偵さんの無駄に高い幸運値が影響したのか──もしくは出現の条件を知らないうちに満たしていたのかもしれませんが、いずれにせよ、単なる運営側の見落としだと思います」
この点、ナユタの感覚はあくまで常識的かつ理性的だった。むしろ本物の幽霊だったほうが話題性の面ではおもしろいかもしれないが、その確率はあまりに低い。
探偵がステッキの先端で地面を軽く突いた。
「もう少し詳しい推論を述べれば──彼は単なるNPCではなく、独立したAIの類かもしれない。つまり運営側から身を隠し、自分が会いたいと思ったプレイヤーの前にだけ姿を見せる、そういった判断能力を持つ人工知能という線だ。これが一番、有り得そうな仕掛けだと私は考えている」
コヨミが胡散臭げに探偵を見上げた。
「……ほんとに? 噓ついてない……? 家に帰って鏡を見たらあの子が後ろに立ってたりしない……?」
「……君、そもそも《百八の怪異》に向いてないんじゃないか? いや、逆に向きすぎているのかもしれないが……」
お化け屋敷をここまで素直に怖がれるのは、ある意味で羨ましい。運営側の期待以上にイベントを楽しんでいる証拠ともいえる。
ヤナギまでもが心配そうに声を寄越した。
「あの、コヨミさん……孫の清文は、心の優しい子でして──人様にご迷惑をおかけするような性格ではありませんでしたし、ましてや女性のお部屋へ勝手についていくような不作法な真似は決してしないものと思いますので──」
──このクエスト内にもし本物の《幽霊》が存在するとすれば、その一番の候補は制作者たる故人、矢凪清文だった。
生真面目ながらもどこかずれたこの説得に、コヨミがぐっと言葉に詰まる。
「…………そ、そういう返しは予想外……っ……不審者扱いしてごめんなさい……」
頭を下げつつも、彼女はナユタの腰から離れない。
一連の会話をきっかけに、クレーヴェルが聞きにくい部分へと触れる。
「ヤナギさん。こんなことをうかがうのは失礼かもしれませんが……貴方は、我々が出会ったあの狐面の少年を、お孫さんの幽霊だと思いますか?」
ヤナギは答えるまでに数瞬の間をおいた。
「……違うとは、思っております。ただ、〝もしかしたら〟という思いがまったくないかと問われると……いずれにしても、このクエストそのものも含めて、清文が〝最期に遺したもの〟であることは事実です。たとえ幽霊ではないにせよ、あの子の分身というか、遺言というか……何か、特別な意味のある存在だろうとは思っております」
言葉と理性ではそう言いつつ、彼が割り切れない感情を抱えていることは容易に察せられた。
死んだ孫の幽霊など、どう転んでも聞こえのいい話にはならない。偽物であれば空しいだけだし、万が一、本物であれば成仏できずにさまよっているという話になる。
「それに清文は、十代半ばで亡くなりましたので……あの狐面の童は確かに幼い頃の清文にそっくりなのですが、まだ七、八歳に見えます。おそらくは……清文が、自分の幼い頃をモデルにして作った存在なのではと」
探偵が神妙に頷いた。
「……ええ。その解釈で、ほぼ間違いないと思います」
残念ながら、と付け加えそうに聞こえたのは、ナユタの勝手な思いこみである。
一行は城の入り口に足を向ける。
短めの石段の中央には、城が現れるきっかけとなった小さな祠が埋もれていた。
祀られた童の石像は不気味な程に無表情で、見方によっては幽霊よりも気味が悪い。
祠の脇を通り過ぎて、一行は陽明門を模した巨大な入り口の真正面に立つ。
奥は漆黒の闇だが、踏み込めば強制的に城の何処かへそれぞれ転送されるはずだった。
仮に前回の突入時と同じならば、ナユタは城の地下通路に、コヨミは半魚人の住む露天風呂に、ヤナギは無限の大広間に、そして探偵クレーヴェルは最上部の天守閣に出ることになる。