ごく一部の優秀な人材を除き、九割九分の人間は人工知能に将棋やチェスで勝てない。
クイズのような知識問題ではもちろん太刀打ちできず、居眠りや飲酒の危険性がないために運転の安全性でも負け、性欲がないためにハニートラップにも引っかからず、物怖じしない上に節度を弁えているためコミュニケーション能力も高い。
さらには、設定次第で如何様にも性格や態度を変化させられる柔軟性まで併せ持つ。
クレーヴェルは、そんな彼らの存在を心底恐ろしく感じる。
ただし困ったことに──恐ろしいからといって嫌いではない。
熊や虎といった猛獣を恐ろしいとは感じつつ、その存在を特に嫌ってはいないのと同様に、クレーヴェルは人工知能の進化を恐れつつも興味深く観察していた。
「では虎尾さん、私はあの童の後を追います。他の面々にも何かあったら教えてください」
『うん。ヤナギさんは順調そうだ。女の子二人もちゃんと進行している。まあ……現状、リタイアに追い込まれる確率が一番高いのは君なんだよなあ……』
心配と諦観がない交ぜになったその声に、クレーヴェルはいつもの薄笑いを返した。
実際その通りで、この後の展開次第では、虎尾の懸念通りの結果になりかねない。
通信を切った後で、クレーヴェルは天守から下層へと続く階段に足を向けた。
前回は、ここで出てきた複数の女郎蜘蛛にやられた。
それが固定敵だったのかランダムエンカウントの結果だったのか、それすらまだわからないままだが、とりあえずの対策は持ってきた。
めくらましの煙玉、敵を驚かす閃光玉、体力を削る毒煙に、敵との遭遇率を下げる白蓮香、囮の幻影で惑わせる身代わりの札──いずれもダメージソースにはならないものの、雑魚から逃げるには充分といえる。
早速、クレーヴェルは階下に閃光玉を転がした。小型の花火玉を模した紙貼りの球体が、ことん、ことんと階段を弾みながら落ちていく。
直後に響いたわずかな破裂音と閃光の後に、複数の足音ががちゃがちゃと慌てて遠ざかった。
下に待ちかまえていた女郎蜘蛛を追い払い、クレーヴェルは悠々と階段を下り始める。
ステータスの都合上、不意打ちには弱いが、敵の出方さえわかっていれば、こうしてある程度までは対処できる。
天守閣の下は板敷きの廊下が前後に続いていた。
片側は外壁に面し、もう片側には板壁が連なっている。
実際の城では、天守閣の下は特に仕切りのない広間となっている例が多いが、この城はあくまでダンジョンとして設計されていた。
リアリティを重視するか、それともゲームとしての都合を優先するか──こんなところからも、制作者の性格や嗜好がうかがえる。
他のプレイヤーにとってはどうでもいいことだろうが、探偵たるクレーヴェルにとっては、こうした細かい要素も重要なヒントだった。
(さて、合流用の〝楽器〟を探さないといけないわけだが……特に敵を倒す必要はなく、葛籠や仕掛け扉の先に隠してあるという話だったな)
これは虎尾から聞いたヒントだが、そもそも仕様として単独行動を強いられた時点で、合流前に〝強い敵を倒す〟必要がないことは推して知れた。
単独戦闘に向かない職種の場合、下手をすればそこで進行不能に陥りかねない。たとえ制作者が意地悪くそうした状況を企図したとしても、配信時には運営側のバランス調整が入る。
油断はできないが、絶望するような事態には程遠い。
逃げた蜘蛛が戻ってくる前に足早に、それでも慎重さを失わず、クレーヴェルは暗い廊下を歩み始めた。
変化は五分と経たないうちに起きた。
闇に埋もれた正面に、ぼんやりと淡い人影が浮かぶ。
クレーヴェルはわずかな目眩と共に立ち止まった。
(……来たか)
この感覚は初めてではない。
眼を凝らすまでもなく、クレーヴェルの目前には〝彼〟が現れつつあった。
和風の城には不似合いなプレートメイルに身を固めた、肩幅の広い体育会系の青年──
手にした剣は半ばで折れ、無惨に切り裂かれた腹部からは黒い血が溢れている。
顔は見えないが、苦悶の表情であることは容易に察せられた。
探偵は低く唸る。
(やはり〝出た〟か──狐面の人工知能よりも、こちらのほうがより大きな問題だが──)
この《幽霊》に驚いたプレイヤーが入院する騒ぎを起こしたことで、クエスト《幽霊囃子》は配信停止に追い込まれた。
彼が何を見たのか、具体的にはわからないが、親兄弟や恋人、友人知人等、近しい〝誰か〟であったことは間違いない。
今、クレーヴェルの前にいるプレートメイルの青年も、クレーヴェルにとっては身近な存在だった。
相手を睨むように眉根を寄せつつ、探偵はループタイの通信を開く。
「……虎尾さん、見えてますか? 続けて出ましたよ。狐面ではなくて、問題を起こした本物の〝幽霊〟のほうです」
──返答はない。
クレーヴェルは思わず舌打ちを漏らした。
(通信が……途絶したか)
有り得ない──とまでは言い切れない。
むしろ、〝幽霊〟の仕様が彼の想像通りのものであるならば、この事態は当然とも言えた。
コンソールも表示されない。
アイテム欄も出てこない。
ちょっとした目眩に加え、四肢には金縛りにも似た違和感がある。決して体が動かないわけではないが、どうにも脱力気味で五感のすべてに薄い膜がかかっている。
──それはまるで、〝夢〟の中だった。
クレーヴェルの亡き親友は、プレートメイルの金属音を伴い、よろめきながら近づいてくる。
その痛ましい姿に目元を歪めつつ、探偵はつい、アインクラッドにおける彼の名を口にした。
「相変わらずのろまだな、《ヤクモ》……死んだ後までアジリティ軽視か。そこまで頑丈さを重視しておいて、どうして一撃死なんて状況に陥るかね──」
皮肉交じりに告げつつも、声音は何故か震えた。
かつての親友はふらふらと歩き続けている。だが、足は動いているのにクレーヴェルの傍へ近づいては来ない。
動く歩道の上を逆走しているかのように、その身は一定の位置から進んでいなかった。
そんな幽霊の姿が見えたのはほんの一分足らずのことで、あっという間に彼は闇の中へ埋もれてしまう。
再び軽い目眩がした後に、クレーヴェルを呼ぶ耳慣れた声が聞こえた。
『……居君……暮居君! どうした? 返事をしなさい!』
虎尾にしては珍しく、慌てた様子だった。
探偵は深呼吸の間に辛うじて言葉を選ぶ。
「……虎尾さん。失礼しました。ちょっと、ぼうっとしていまして──」
ループタイの通信機越しに、安堵の様子が明確に伝わってきた。
『ぼうっと、って……君、いま寝てたぞ? いや、寝ていたというか、脳波がレム睡眠に近い状態だったというか──』
自宅から接続している他の面々と違い、クレーヴェルは運営の用意した医療施設からログインしている。
これは安全策などではなく、テストプレイに際して脳波や精神状態をチェックするための、いわば被験体的な役割を期待されての措置だった。
「……そうですか。寝ていましたか」
『ほんの少しの間だから、センサーの誤作動かとも思ったがね。魔法やアイテムで強制的に眠らされたような変化だった。今、スタッフが詳しい解析を試みている。データがもう少し欲しいんだが、続けられるかね?』
クレーヴェルはつい苦笑を漏らした。
「当たり前でしょう、虎尾さん。ちょうど今、件の《幽霊》と遭遇していました。結局、あれは脳が見せるただの虚像──〝夢〟の産物です。危険はないと証明されたようなものですよ」
クレーヴェルは今、確かに〝眠って〟いた。