フルダイブ技術自体が睡眠や麻酔に近い要素をはらんではいるが、それはあくまで脳の機械的制御によって起きている事象であり、たとえゲームの中でも睡眠は必須となる。
SAO事件の被害者達も日々、ゲームの中で睡眠をとっていたし、眠ること自体は特に珍しくもない。
ただし今のクレーヴェルは、そうした身体的な生理現象とは別に、強制的かつ瞬間的に眠らされ──そして〝夢〟を見せられた。
それこそが、矢凪清文の仕掛けた《幽霊》の正体である。
「データとしては存在しないはずの、個人の亡くなった友人知人を模した幽霊──その正体は、本人の記憶の中にある虚像です。プレイヤーを数秒単位で眠らせ、そのわずかな時間に脳へ刺激を与え、故人の幻影を見せる。我々が見ていた幽霊はゲーム内に反映されたデータなどではなく、〝自身の記憶そのもの〟だった──そういうことでしょう?」
クレーヴェルの推測通りだとすれば、これは特に目新しい技術ではない。幽体離脱や臨死体験といった心霊現象は、その多くが脳の見せる幻だと言われている。
VRMMOなど影も形もなかった時代にも、側頭葉のシルビウス溝に電気的な刺激を与えることで、人為的に臨死体験を引き起こす例は報告されていた。
無論、同じ刺激を与えたからといって万人に同じ現象が起きるわけではない。実験結果には個人差も大きく、テストプレイヤー達が何も見ていないという事実も、この推論を補強していた。
人間の脳には、《幻覚を見る機能》が最初から備わっている。
多くの人間は夢という形でそれを体感するが、VR技術もまた、そんな脳の機能を機械的に操る術に他ならない。
虎尾が浅く嘆息した。
『……検証はこれからだが、おそらくそれで正解だ。今の一瞬だけ、君はフルダイブシステムからの干渉によって短い夢を見せられた。夢の中だから当然、通信機能もアイテムも使えない。この技術の肝は、夢の背景をゲーム内の光景と一致させることだな。しかも時間が短いせいで夢と気づかず、ゲームの中で幽霊に出会ったと錯覚してしまう──タネがわかってみればなんのことはない。まさしく正体見たり枯れ尾花だ。個人の夢だから、何を見たのかはログにも残らないし、そもそもデータにも存在しない。とんだゴーストだ』
事情が明らかになったというのに、虎尾の声は苦々しい。
「……虎尾さん、何か言いたげですね?」
『わかっているくせに聞くんじゃないよ……こいつは規約違反じゃないが、倫理に反している。出てくる故人との関係性にもよるが、トラウマを抉られて平気な人間はそうそういない。うちのテストプレイヤー達にこの仕掛けが発動しなかったのは、仕掛けとの相性問題か、あるいはたまたま身内に故人がいなかったとか、そんな程度の理由だろう。逆にいえば──深い〝傷〟を抱えている人間ほど、この仕掛けから強い精神的ダメージを受ける。悪趣味だ』
クレーヴェルはつい吹き出した。
「ホラーが悪趣味なのは当然でしょう。いや……言いたいことはわかりますよ。清文という少年がどんなつもりでこんな仕掛けを作ったのか。そこは確かに気になります。他人の傷をえぐって喜ぶような人間だったとすれば、あまり誉められた話ではありませんが──」
探偵と違い、虎尾は笑わない。
『どのみち修正が必要だ。このまま再配信はできない。どこで入手した技術だかわからんが、子供がおもしろ半分で作ったにしては精巧な仕掛けだ。誰か……それこそ研究者か現役の開発者から、技術供与を受けたと見ていい』
この点に関して、クレーヴェルの見解は虎尾とは少し違う。
「それは……どうでしょう? この仕掛けは彼が独自に作ったものかもしれませんよ。こんなクエストを個人で、それも短期間のうちに制作できた時点で、彼の才能は間違いなく本物です。もちろん、専門家の研究成果等を参考にはしているでしょうが……発想はともかく、技術的にはさほど無茶なことをやっているわけでもありません。〝プレイヤーに、ゲーム内の背景を流用した故人の夢を数秒間だけ見せる〟──私の場合はたまたま、亡くなった親友が出てきましたが、コヨミ嬢なんて以前に飼っていた微生物が出てきたそうですよ。大多数の人間にとっては、〝ちょっと驚いた〟程度の効果しかもたらさないように思います」
この擁護に虎尾が唸った。
『大多数はそれでいい。さっきも言った通り、問題は〝少数〟の本当に傷を抱えている人々のケースだ。さっき、君に〝このまま続けられるか?〟と聞いたね? 君は演技が上手くて冷静沈着だ。だがそんな君でも、バイタルは噓をつかない──心拍、血圧、脳波、いずれも今の瞬間に、極めて大きな変動を示した。今はもう落ち着いているが──今回の配信停止の発端となった大学生も、強い衝撃を受けて気絶し、病院へ担ぎ込まれたわけだ。危険がないとはとても言えない』
探偵は鹿撃ち帽を目深に被り直す。
「……そんなに動揺してましたか。実の所、偽物とはいえ……ほんの少し、会えて嬉しかったんですけれどね」
強がりではない。
痛ましい姿を見せられたことはつらいが、ヤクモはクレーヴェルにとって、紛うことなき親友であり戦友だった。
同じ大学で知り合い、警察学校でも同期となり、共に警察官となってからは上司の愚痴をこぼしあう間柄だった。
肉体的にも頭脳的にも、あらゆる面で警官としての平均点をほんの少しずつ上回る文字通りの器用貧乏で、特段、優れた特技がない代わりに弱点も見あたらない──そんな青年だった。
クレーヴェルは薄笑いとともに、通信機越しの虎尾へ和やかに話しかける。
「ともあれ、判断は最後まで進んでからでいいでしょう。そもそも心拍や血圧の変化まで云々というなら、ホラーというジャンル自体が危険という見方もできます。《屛風の虎退治》とか……あれ、訴えられたらいい勝負になりそうですよ? こっちの仕掛けなんてかわいいものです」
『あれはなあ……正直、私もどうかと思ったんだが。いや、しかしあれは全員に対して公平な怖さだ。今回のように、個人のトラウマをえぐるような代物じゃない』
探偵は眼を細めた。
「虎尾さん。トラウマっていうのは──放置しておくと、傷口が腐ることもあるんです。そうなる前に、えぐってでも瘡蓋にして、痛みに慣れるのも一つの対処法かと思います」
『ふむ……えぐったせいでより酷く化膿した場合は?』
「……ま、おいおい考えましょう」
舌先三寸で言いくるめられる相手でもなかった。
探偵は廊下に歩を進める。
──〝ヤナギにこのクエストをプレイさせる〟という本来の目的を果たしつつある以上、あえて虎尾を翻意させる必要はない。このクエストが配信停止のままになろうと再配信されようと、それは依頼と関係のない事柄である。
だが、クレーヴェルは既に《矢凪清文》からのメッセージを受け取ってしまった。
コヨミもヤナギも気づいていない。ナユタは気づいているかもしれないが、彼女は思考を心に仕舞い込む癖がある。
清文という少年の最期の意志が《ここ》にある以上──クエストの配信停止をこのまま座視するのは、少々後味が悪い。
(さて……いったいどんな屁理屈をつけて、この〝守護者〟を心変わりさせたものか──)
エラー検証室、室長の虎尾は、味方としては頼りになる反面、説得すべき相手としてはなかなか手強い。
逆の見方をすれば、この難物さえ説得できれば、同じ論法で上層部の理解を得られる。
虎の威を借る狐よろしく、クレーヴェルは彼を化かさなければならない。
薄い唇をぺろりと舌で湿し、探偵は愛用のステッキをくるりと一回転させた。
果てがないと思えた大広間に終わりが見えてきた時、ヤナギは立ち止まって小休止をいれた。