天井板の木目が示す矢印に沿いここまで来たが、狐面の童は少し顔を見せた程度で、特に会話もなく消えてしまった。
前を見れば、大広間の果てには美麗な絵の描かれた襖が連なっている。
ヤナギが足を止めたのは、クレーヴェルからの注意事項を思い出したためである。
扉や襖を開けた先では、敵が待ち伏せをしていることが多い──
それはホラーのお約束でもあるらしい。
立ち止まりついでに、ヤナギは襖の絵をじっと眺めた。ヒントは観察することで見つかると、先程学んだばかりである。
(はて……あの襖絵は、ずいぶんと大きなもののような……?)
十枚ほどで一つの絵となっているらしい。
和を思わせる墨絵のタッチは秀逸で、色はなくとも戦闘の光景がはっきりとわかる形で描かれている。
剣客に侍、忍者、神官──職業は概ねばらばらだが、彼らは一様に、中央に立つ巨大な竜へと立ち向かっていた。
左右から挟撃する構図は、見る者が見れば複数のスクリーンショットを墨絵のタッチで加工し組み合わせたものと察しがついただろうが、ヤナギにそこまでの眼はない。
そしてそこに描かれたうちの一人は、ヤナギのよく知る人物だった。
(……清文……?)
狐面の童は、清文が幼い頃の姿である。
一方、襖絵に描かれているのは、亡くなる直前──十代半ばの、やや大人びた少年の清文だった。
杖を片手に、彼は美しい少女剣士の援護をしている。
少女の剣士は反対側にももう一人おり、二人の姿は姉妹のようによく似ていた。
躍動感に満ちた襖絵が、ヤナギにはどうも引っかかる。
(あの絵は、もしや……清文と、友人達を描いたものか……?)
入院生活が長く、体も不自由だった清文は、医療用のVR空間で似た境遇の子供達と出会い、彼らと友人になっていた。
《セリーンガーデン》と名付けられた箱庭から飛び出し、《アスカ・エンパイア》に冒険の舞台を求めた彼らの通り名は、確か──
「……《スリーピング・ナイツ》──」
ヤナギは無意識のうちに、孫との会話で聞き慣れていたその単語を呟いた。
──変化は劇的だった。
正面に連なっていた襖絵が、まるでバネ仕掛けのように勢いよく左右へ引かれていく。
そして拓かれた光景に、彼は眼を疑った。
白い石柱が立ち並び、草花が咲き誇る緑の草原──
陽光は眩しく空は青く、流れてくる風は爽やかで心地いい。
明らかに城の中などではないが、そんな空間が暗い大広間と直接につながっている。
探偵からの注意も忘れ、ヤナギは誘い込まれるように歩を進めた。
踏みしめた草と土の感触に戸惑いながら、ヤナギは改めて周囲を見回す。
人の気配はない。当然、敵の気配もない。
彼方には山々の稜線が青く見え、近くには白いブランコやベンチ、石のテーブルなどが配置されている。
通路のように石畳も敷かれているが、地表のほとんどは芝生で、至るところに鮮やかな花々が群生している。
そして振り返れば、先程までの暗い大広間がそこにある。
場面の変わりように戸惑いつつ、ヤナギは編み笠を外した。
数歩も進まないうちに、彼は美しい庭園の片隅に巨大な石碑を見つけた。
シルエットはやや歪ながら、それこそ十連の襖絵にも匹敵するサイズで、よく磨かれた表面は美しい光沢を放っている。
ゆっくりと歩み寄ったヤナギは、その表面に彫り込まれたたくさんの文字を途中から読み進めた。
「……六月八日、オオナムチ討伐──六月十日、蓬萊樹を入手、六月十三日、キヨミハラでバーベキューパーティー……」
それは《スリーピング・ナイツ》の活動記録だった。
出来事の羅列が続く中に、いくつかの太字が目に留まる。
「……ランとユウキの誕生日パーティー、メリダの誕生日パーティー…………クロービスの誕生日パーティー……」
《クロービス》とは、清文のプレイヤーとしての名である。
それぞれの文字列をクリックすると、中空に記念写真のスクリーンショットが飛び出てきた。
そこではゲームの中の清文──クロービスと、彼の仲間達が楽しげに笑っている。
しばらく石碑を凝視した末、ヤナギはつい目頭を押さえた。
悲しくて涙が出たわけではない。
──大半を病床で過ごした孫の一生は、人よりも短く、何も楽しいことのない人生だとばかり思っていた。
ゲームなど所詮、人生の代替物であり、気休め程度のものでしかないと思っていた。
──そうではなかった。
清文は、確かに、ここで。
友人達と共に、《生きていた》。
その事実を、ヤナギは今、初めて実感する。
孫がここで確かに生きていたことが、今はただ無性に嬉しい。そして同時に、勘違いから孫を「不幸」
だと決めつけていた自分を恥ずかしく思う。
嗚咽と共に黙禱を捧げていたヤナギは、ふと背後に人の足音を聞いた。
涙目のまま振り返ると、そこには狐面の童がいる。
一人ではない。
稲荷の使いを思わせる白い狐を二匹、左右に従わせている。
ちょこんと前足を揃えて座り込み、さながら石像の風情だが、毛並みは美しく清らかだった。
「……清文……か?」
震える声で問いかけると、童は不思議そうに首を傾げた。
「清文は、もう死んじゃったよ?」
童は事も無げに断言した。
ヤナギは絶句する。
当たり前のことではある。だが、心の奥では別の答えを期待していた。本人ではないにせよ、その分身、あるいは記憶を受け継いだ存在──そういった、幽霊以外であっても何か関係のある答えが来るものと思いこんでいた。
しかし童の声は、一切の誤解を許さない明朗闊達なものだった。
「死んだ人は生き返らないし、幽霊になって出てきたりもしない。清文もそういうの、まったく信じてなかったよ。だからむしろ残念がってた。幻でもいいから、死んだ人にもまた会えたらいいのに、って──だから、みんなの記憶の中にいる〝幽霊〟と会える仕掛けを実装したんだ。ちょっと時間が足りなくて、誰がどんな姿で出てくるかとかは本人次第になっちゃったけど……お爺ちゃんはどう思う?」
清文とほぼ同じ声で、童が問う。
心を乱しつつ、ヤナギは頷いた。
「……そう……ですな。たとえ幻と承知でも……会いたいと思ってしまうのが、人の弱さやもしれません──」
童がまた首を傾げる。
「弱さじゃないよ。別に悪いことじゃないし、会いたいなら会えばいい。それを本物だと思いこんじゃうと良くないけれど、動いて話せるただの〝アルバム〟だと思えば、別に何もおかしくないでしょ? 技術の進歩って、そういうものだと思う。これは〝清文〟からの受け売りだけど」
童の返答を受けて、ヤナギは思案を巡らせる。
「……君は、つまり……清文に作られた人工知能、ということかな?」
「うん。本当は秘密なんだけど、清文を知っている人には誤解されないように、話しちゃっていいんだ。あと──ここを見つけられた人も特別」
童は狐達をその場に残し、近くのブランコに腰掛け、きぃこきぃこと漕ぎ始めた。
「それにしても、ここは一体……城内とは、あまりに雰囲気が違いますが──」
ヤナギは目元を拭い、改めて周囲を見回す。
童は淡々と応じた。
「ここはスリーピング・ナイツの《記録室》。メンバー以外の人が見つけちゃったのは想定外だけど……あの襖絵を見て《スリーピング・ナイツ》ってキーワードを呟くと、この空間につながるんだ。清文のちょっとした悪戯……っていうより、思い出のアルバムかな。クエストの制作中も、清文と僕はよくここで一緒に作業したんだよ」