すかさずナユタに後ろから襟首を摑まれ、どうにか転ばずに踏みとどまる。
壁に擬態した回転扉の奥には、細い一本道の通路と、上層へ続く木造の階段が見えていた。
「あ、ありがとー、なゆさん……わお、大当たり?」
「ですね。ヤナギさんが上にいるといいんですが──」
薄暗い隠し通路を抜けて、二人は階段を上り始める。
祭り囃子の音色が近い。
奏者達と戦闘になる可能性も考慮しつつ、コヨミは背負った忍刀に手をかけた。
階段で見上げるナユタの背中は、いつものことながらどこか儚い。眼を離すとふらりと消えてしまいそうな印象さえ漂う。
それが怖くて、コヨミはつい彼女のことを構い過ぎてしまう。
幽霊よりも、ゾンビよりも、屛風の虎よりも──コヨミにとっては、「気づいていて何もできなかった」という類の後悔のほうがよほど怖い。
階上へと急ぐナユタから遅れぬよう、コヨミは彼女の背を追いかける。
段を踏む二人分の足音は、階上の囃子と混ざって打楽器のようにリズミカルに、それでいてどこか物悲しく響いていた。
階上へ上がると同時に、ナユタは背後のコヨミへ注意を促した。
「コヨミさん、ダークゾーンです。ランタンの用意をしますから、少し待ってください」
「りょーかい……うう。私、ダークゾーン苦手なんだよね……だいたいなんか怖い仕掛けがあるし……」
ナユタの袖を摑みながら、彼女は怯えた声を漏らした。
百八の怪異におけるダンジョンは概ね薄暗いものだが、光源らしい光源がなくとも、ある程度までは周囲を把握できるよう調整されている。
ただしダークゾーンに関しては完全に漆黒の闇となってしまい、ランタンを使っても数歩先までしか確認できない。
暗くて見えないその空間に、囃子の音色が盛大に響いている。
(包囲されていたら厄介だけれど……)
音の反響具合からして、ここは通路ではなくそこそこ広い空間のようだった。
ランタンの明かりに照らされて、数歩先まで板敷きの床が浮かび上がる。
同時にナユタは、天井の異常さに気づいた。
「……コヨミさん。びっくりしないように言っておきますが、天井がとてもグロテスクなことになっています。なるべく見ないでくださいね」
「え? 天井って……ぎゃああっ!?」
コヨミの悲鳴は女子らしからぬ荒いものだった。
天井を埋め尽くしていたのは、大蛇の群──を模した彫刻である。
本物の蛇ではないが、精巧に鱗の模様を刻まれた太い胴体が幾重にも連なり、ところどころに鎌首が生えていた。
ランタンの照らす範囲が狭いせいで、見えているのはごく一部だが、おそらくはかなり広範囲に続いているものと予想できる。
「……しゅ、趣味悪ぅ……」
「雰囲気作りだけが目的ならいいんですが……本物の蛇が紛れていて、奇襲を仕掛けてきそうな気がします。充分に警戒して進みましょう」
コヨミがこくこくと頷き、ナユタの左腕にがっちりとしがみついた。動きにくいのは困るが、はぐれる心配がないのはありがたい。
祭り囃子の音がどの方向から来ているのか、ナユタは耳を澄ませて慎重に探った。
反響はさほどでもなく、耳を向ける方向によって明確に大きさの違いがわかる。
同じ階層にいるのは間違いないらしい。
見当をつけた方向に歩き出した途端、ナユタの眼前に蛇が降ってきた。
「フギャ───ッ!」
猫のような悲鳴をあげて、コヨミが忍刀を振りあげる。
蛇は地に落ちきる前に胴を両断され、あまりの早業にナユタは改めて感服した。
「さすがです、コヨミさん。その反射神経は私にも真似できません」
「なんで平気なの!? なんで平気なの!? 大事なことだから何回でも聞くけど、なんで平気なの、なゆさん!?」
半狂乱のコヨミを間近で見ているせいで、逆に冷静になっている──とはさすがに言いにくい。
「私、蛇はそんなに苦手でもないので……もちろん触ったりはしませんけれど、足が多い虫とかのほうが苦手ですし」
「私も虫は苦手だけど、そうじゃなくて! この暗い中で天井から蛇がボタボタ降ってきてるんだよ!? もうちょっとびびるでしょ、ふつー!」
「ボタボタって、まだ最初の一匹ですが……それが落ちきる前に、反射的にクリティカルヒットを決めるコヨミさんのほうが、割と常識外れな気もします」
こればかりはステータスが云々ではなく、本人の資質である。
前回の突入時、コヨミは露天風呂で半魚人の不意打ちに負けたと言っていたが、ナユタにしてみれば、彼女の不意を打てた敵のほうを褒めたい。大方、濡れた石で足でも滑らせたのだろうが、こと反射神経でコヨミを上回るのは至難の業だった。
その後も蛇が落ちてくるたびにコヨミの刀が閃く様を見物しながら、ナユタは淡々と祭り囃子の音に近づいていく。
相手も移動しているらしく、距離はなかなか縮まらないが、それはそれで「ゴールに近づいている」と判断することもできる。
そして仮にゴールが近いとなると──気になるのは、ヤナギのことだった。
「……ヤナギさん、無事だといいですね。一回二回のリタイアは仕方ないにせよ、慣れていない初心者の方ですし、ちゃんとお一人でここまで来られるかどうか……」
コヨミが首を傾げた。
「……そういや、あの狐面の子が、なんか変なこと言ってたんだけど……さっきさ、〝お姉ちゃんは別にいいや〟って言われたって、なゆさんにも話したよね?」
「ああ、合流直後にそんな話をしてましたね。あとお歯黒べったりから痴漢扱いされたとか」
コヨミが頭を抱え込む。
「触ってないっつーのに! なゆさんみたいな美少女相手ならともかく、何が悲しくてあんな文字通りのバケモノの乳なんか! そもそも同性だから痴漢じゃなくて痴女だし! ……じゃなくて、そっちはどーでもいいの! 狐面の子の話!」
喚きながら、コヨミはまた降ってきた蛇を一刀の下に切り捨てた。
コヨミが恐がりなのは周囲の状況が見えすぎるせいかもしれないと、ナユタはしみじみ思う。
「で、〝お姉ちゃんは別にいい〟ってどういう意味か、問い詰めようとしたらさ。〝普通に頑張ってね〟って言われちゃって……もしかしてだけど、あのAIって、プレイヤーにあわせた難易度調整とか担当してない?」
ナユタは思わず眼をしばたたかせた。
「なるほど……コヨミさん、よく気づきましたね。確かにそういう仕掛けは有り得ると思います。むしろ……いろいろと腑に落ちました」
つまるところ、あの狐面の童はこのクエストの《管理者》なのかもしれない。
「AIにクエストの調整を任せるって、百八の怪異ではちょっと珍しいですよね。推奨レベルに足りなければレベルを上げて挑戦する、簡単なクエストならそのまま楽々クリア、っていうのが普通だと思ってました」
ナユタの指摘を受けて、コヨミが声をひそめた。
「そりゃ、だって……このゲームを、自分の死後におじいちゃんが一人でプレイするかもしれない、って思ったら──必要でしょ、難度調整。低レベルで簡単にクリアできる仕様にしたら、他のプレイヤーには簡単すぎるし、かといって新参のお爺ちゃんが絶対にクリアできない難度だとかわいそうだし……」
──ヤナギには、あまり時間がない。
そのことはおそらく、制作者の清文もわかっていたのだろう。
「でもそうなると……運営側が、テスト用にヤナギさんのレベルを引き上げたのって余計なお世話だったのかもしれませんね」
コヨミが首を横に振る。
「そうでもないと思うよ。虎尾っちが言ってたでしょ? 〝レベル1じゃ絶対にクリアできない〟って……あれって、配信前に運営側で難度調整をしたからこそ言える言葉だよね?」
あ、とナユタは思わず声をあげた。
虎尾の話は運営側として当然の内容だっただけに聞き流してしまったが、コヨミの推測が正しいとすれば、その調整こそがAIの仕事を一つ奪ったことになる。
清文は「誰でもクリアできる難度」を目指し、難度調整用のAIを用意した。
しかし運営はそれをよしとせず、「ある程度以上のレベルでなければクリアできない」方向へと調整し直した。