ほうかごがかり 1
一話 ①
1
『ほうかごがかり』
教室で顔を上げた
それを見た啓は、目を疑い、そして数秒のあと、思わず声を漏らした。
「……は?」
金曜日の放課後。最前列の、左寄りの席の啓が、ごく短い帰り支度から顔を上げた時、目と鼻の先にある黒板に、たった今までは存在していなかった、自分の名前の書き込みがされていたのだ。
『ほうかごがかり 二森啓』
と。
中央に大きく、白いチョークで。
そして書き込みの文字列の頭に、少しだけ勢いのある筆跡で、ひとつの丸。
同じような書かれ方をしたものは、これまでの小学校生活で何度も見たことがあった。それはいわゆる『係決め』の時に、誰が係をするか決まった時の書き込みだったが、しかし『係決め』など今はしていなかったし、『放課後係』などという係は、このクラスには存在していないのだった。
それに何よりこの書き込みは、啓が帰り支度をするためにたった数十秒顔を伏せていた、その間に出現したのだ。
それまでは、こんな書き込みはなかった。あまりにも不可解な状況だったので、啓の思考は数秒ほど停止したのだ。
「…………は?」
もう一度、疑問の声を出して、啓は思わず周りを見回す。
クラスで一番低い背。頭に被った前後を逆にしたキャップに押さえつけられながらも、そこからはみ出るように主張する跳ね癖のある髪と、色合いこそ奇抜ではないものの若干ヤンチャ寄りな古着屋で買った上着が、見回す動作に振られて揺れた。
だが、黒板の前には、誰もいない。
古くはないが新しくもない、校舎と共に相応の傷みを刻んだ黒板の前にも、それどころかその近くにも、この文字を書いた人間は誰も立っていなかった。
このいたずら書きをした人間が、それどころか可能な人間さえ、教室には見当たらなかったのだ。逆に教室にいる他の子も、まだ気づいていないか、書き込みに気づいた少数の子が、ポカンとした様子で黒板にある文字を不思議そうに眺めているという状況だった。
元から書いてあったという可能性は、ほぼない。
このクラスの担任は、ネチネチと説教が多いことから代々『ネチ太郎』という渾名で呼ばれる人望のない先生で、授業や帰りの会などが終わると誰かが写している途中でもお構いなしに黒板を消してしまう神経質さなので、帰りの段階で板書が残っていることはまずあり得ない事態なのだ。
今日も丁寧に、執拗に、念入りに黒板を消していた姿を、はっきりと憶えている。
なので啓が自分の黒いランドセルを机の上に置いて帰り支度を始めた、それ以前に書かれたものである可能性は、間違いなく『ない』のだった。
「……なんだこれ」
なので啓は、眉を寄せるしかなかった。
キャップからはみ出した前髪の奥で、着ている服と、少し世を拗ねたような本人の雰囲気に比して、妙に育ちの良さそうな顔が困惑していた。
今は四月末。啓たちは六年生になったばかりだ。
このクラスになって、まだそれほど経っていないので、まだいじめに遭うような理由は思いつかない。そんな筋違いなことを、説明のつかない現象について思考を停止させてしまった頭が、何となく考える。
教室から、明らかに啓に向けた、ざわめきと視線を感じ始めた。
黒板に気づいた子が増えたのだ。とにかくこのままでは居づらいと感じた啓は、黒板の前に進み出て、黒板消しで、自分の名前と『ほうかごがかり』の文字を消した。
「なあなあ、二森くん、それ何?」
「知らないよ。僕も」
わざわざ駆け寄って訊ねて来た、普段から少し空気の読めないところのあるクラスの男子に答えながら、啓はそれとなく、教室の中にいる全員の様子を観察する。啓は見た目がヤンチャ寄りで、態度もやや斜に構えているのに反して、行動は至って大人しいのだが、やや家庭環境に問題があり、内心の警戒心は強かった。
「じゃあ誰が書いたの?」
「知らないよ。僕、イタズラされるのは嫌いなんだけど」
そう答えながら、啓は考えた。本当に、いじめじゃなければいいけど、と。
心配だった。だが、それは恐れているわけではなかった。孤独なのも孤立するのも、啓は別に怖くはない。こう見えて啓は絵を描くのが趣味で、それ以外のことには興味がないので、ただ周りから無視されて放っておかれるだけならば、完全に平気だった。そういうものを苦にしない人間だった。
だが、煩わしいのは御免だ。
そしてさらに言えば、悪戯とか、人を試す行為とか、そういった他人からの理不尽な行いを向けられるのは、啓が最も嫌う行為だった。
怒鳴ったり暴れたり、そんな明らかな怒りとして表に出すわけではないが、嫌いだし、許さない。それは五歳の時に、父親に夜遅くドライブに連れ出され、山の上の真っ暗な駐車場に笑いながら置き去りにされた時に自覚した、基本的に人に無関心で鷹揚な性格をしている啓の心に刻まれている、数少ない明確な嫌悪だった。
しかし――――そうやって啓が観察した教室には、怪しい様子の人間はいない。
啓の方へと視線を向けている子も少なくはなかったが、それと分かるほど怪しいと思える子は、一人も見て取れなかった。
多分? 本当に? 不信と、少しの安堵。だがその時、視線を巡らせていた啓は、その先で思いがけず、別のものと目が合ってしまった。
「…………あ」
観察のために巡らせた視線が、開いていた教室の出入り口越しに、ちょうど前の廊下を通りがかった、ある一人の視線とぶつかったのだ。
よく知った相手だった。それは同じ年の六年生だった。
背が高くスマートで、眼鏡をかけた、知的で整った風貌をした男子だった。
見る人が見れば、彼は明らかに特別な子供だった。周囲から浮きすぎない程度に収めているが、髪がそれとなくセットされていて、着ている服もさりげなくブランド物。さらに同年代の男子からは頭ひとつ抜けて言動が落ち着いていて、勉強も運動もでき、性格も快活で品行方正で知られていた。
リーダーシップもあり、男子にも、もちろん女子にも、さらには先生からも人気と人望がある。啓は彼の家が非常に裕福であることを知っていた。それから、眼鏡が近視用ではなく、生来の視覚過敏を抑えるための、わずかに色のついた偏光グラスであることも。
彼は、啓の親友だった。
二人は入り口越しに目が合った。だが間違いなく目が合ったのに、惺はまるでそんなことはなかったかのように、視線を素通りさせると、啓の存在を空気のように無視して、廊下を歩いて行ってしまった。
「…………なんだよ」
呟く啓。
二人は親友だった。過去形の、『だった』だが。
啓と惺は、二年生の時に出会った。最初は特に仲良くなる要素などなかったのだが、あるとき啓が、絵で大きな賞をもらった時に、惺に妙に気に入られた。
「君はすごいんだね。好きな画家とかいる?」
啓に話しかけてきた、最初の言葉を憶えている。
そして惺からあれこれと関わりをもってくるようになり、そのうち互いの少し変わり者の部分が噛み合って、いくつかの出来事を経て、親友と言っていい関係を構築した。
そしてその関係が三年ほど続いていたのだが、しかし五年生になってすぐに、急に前触れもなく惺が啓のことを遠ざけるようになった。理由は分からない。ただ惺からの説明は一切なしに関係を断ち切られた形で、さすがに啓はショックを受けたが、どうしようもなく、惺の姿を学校で見かけるたびにモヤモヤとしたものを胸に感じながら過ごすしかなかった。
啓は知っている。
啓と惺は、お互いに、どちらにとっても、たった一人の親友同士だった。
だから、啓は知っている。
惺が周りに見せている、品行方正な少年は、あくまでも惺の一面でしかなく、それだけの人間ではないことを。
「ん……」
胸にまた重いモヤを感じて、啓はわずかに視線を落とし、それを追い払った。
そして小さな溜息のあと、手に持ったままだった黒板消しを置いて、自分の席に戻り、家に帰るために重いランドセルを背負った。
いま消したばかりの――――黒板の文字については、忘れて。
思い煩わなければいけないことは、啓には他に、いくらでもあった。例えば、たったいま感じていた、この胸の中のモヤモヤのこととか。
「……」
啓は学校を後にした。
そして、帰宅の途についた。
そんな啓が、
『ほうかごがかり』
この言葉を思い出して。
その意味を知ることになるのは、遠い先の話ではなく――――まさにその日の夜、啓が眠りについた、その後のことだった。