ほうかごがかり 1

一話 ②

         2


 啓の家は、築年数のかさんだ、古い公営団地にあった。

 母親と二人暮らし。以前は三階建ての大きな家に住んでいたのだが、両親が小一の時に離婚していて、その家からは追い出され、それからはずっとここで暮らしていた。

 当時の家とは比べ物にならないくらい狭い家で、玄関を入るとすぐキッチンがあって、四畳半、六畳間と、一直線になった細長い作りをしている。

 壁も薄い。啓は、その一番奥の一番広い部屋をもらっていて、母親は仕事から夜遅く帰ってきて寝るだけといった状態なので、その手前の居間を兼ねている四畳半で布団を敷いて寝ているのだった。

 啓の部屋は、雑然としていた。

 畳の部屋。一部に敷かれたカーペット。前の家から持ち出した数少ない家具である、あちこちにシールの痕がある学習机があって、上に図書館で借りた本が置いてある。

 それから――――この部屋をさらに雑然とさせているものは、端に寄せられたたくさんの本格的な画材と、描きかけの絵だ。油彩。水彩。パステル。イーゼル。加えて、あちこちの絵画コンテストで入選したことを示す、賞状や盾などが、学習机や棚や壁に、いくつもいくつも飾られていた。

 深夜。そんな部屋に、暗闇が落ちていた。

 床に敷かれた布団に、子供ひとりの膨らみがあった。

 寝息。それと体温。

 静寂。デジタル時計の、緑色の明かり。

 そして――――



 カァ――――――――ン、

 コ――――――――――――ン!



 突如。

 部屋の中に音割れした学校のチャイムが響き渡り、啓は布団から飛び起きて、そしてそのまま激しい眩暈に襲われて頭から畳に突っ伏した。



「………………っ!?」



 音に殴られたかのような衝撃。その大音量のチャイムは、突然、部屋の中に爆発的に鳴り響いて、布団で眠っていた啓を叩き起こし、そしてガリガリとした激しいノイズによって罅割れながら、飛び起きた啓の意識を打ち据えた。

 轟音で耳が塞がる。脳に衝撃が走る。

 耳の奥と脳が痛む。鼓膜とその奥に音の塊が突き刺さって、芯に差し込まれたような苦痛と共に、すぐには立ち上がれないくらい平衡感覚が歪んだ。


「う……!」


 涙を浮かべながら辛うじて顔を上げると、滲んだ視界に滲んだ光で、目覚まし時計のデジタル表示が見えた。


 


 真夜中。自分の部屋。そこに突如として鳴り響いたそれは、調律の壊れた、しかし間違いなくおとだった。

 こんな場所で鳴るはずのない異常なチャイムは、部屋の空気を歪ませながら、そして空気の中に歪んだ余韻を残しながら、最後までウェストミンスターの鐘を奏でる。そしてチャイムが終わり、おおん、と響く長い長い余韻が消えかけた時――――――そのせっかく凪ぎかけた空気は『ブツッ』という雑音によって断ち切られ、今度はガリガリという激しいノイズが鳴り出して、乱暴にかき乱された。

 そして。

 が始まった。



『――――ザーッ――――ガッ……ガリッ…………

 ……、の、連絡でス』



 は?

 啓は耳を疑う。聞こえたのは今しがたのチャイムと同じく、激しく音割れし、砂利のようなノイズが混ざった、スピーカー放送だった。

 男とも女とも判別しがたい、辛うじて子供の声と判る程度の、激しく劣化したスピーカーから発されている音声。そして、そんな理解できない現象に晒されて呆然とする啓に、異常な放送音声は、さらなる異常な言葉を告げた。



……は、ガっ……こウに、集ゴう、シて下さイ』



 は……? えっ!?

 放送が告げたのは、もはや忘れかけていた、あの意味不明の言葉だった。

 学校で、不可解な状況で、自分の名前と共に書き込まれたその言葉。放送の声は、その言葉によって、多分、いや明らかに、ここにいる自分のことを呼んでいた。

 異常な状況だった。何より異常なのは、その放送音声が聞こえている場所だった。

 おそらく部屋に大音量で鳴り響いているこの放送は、今しがた鳴ったチャイムも同じく、から、聞こえているのだった。



「………………!?」



 突っ伏した姿勢で顔を上げ、目を見開いて、啓は襖を見た。

 混乱した。もしも本当にこんな大きな音が居間から聞こえているのなら、いくら何でも、母親が起きないはずがなかった。

 どういうこと?

 何が起こってるんだ?

 混乱のまま、バラバラと考える。これは何だろう? 何が起こってる? というか『ほうかごがかり』って、何だ? それに、今まさに向こうの部屋に寝ているはずの母親は、一体どうしてしまっているんだろう?


「う……」


 啓は、鈍く痛む頭を押さえて、身を起こした。


「か…………母さん……?」


 呼びかけて、襖に向かう。



『――――ザッ、ガリッ……

 ……くり返シます』



 放送は続く。

 とにかく、確認しないと。啓は、そのノイズ混じりの無機質な音を頭から浴びながら、よろよろと立ち上がって、襖の向こうにいるはずの母親の様子を見るため、引き手の窪みへと手を伸ばした。


 だがその瞬間、指が引き手に触れる前に、すう、と襖が


 細い摩擦音。

 ぎょっ、と心臓が跳ね上がり、思わず動きが止まった。


「!」


 そして襖が開いた途端、啓の顔に向けて、そしてパジャマを着た全身に向けて、冷え切った空気が流れこんできた。明らかに我が家のものではない別の匂いの冷たい空気が、ざあ、と襖の向こうから大量に流入し、啓の体と部屋の空気を、瞬く間に完全に呑み込んだ。

 そしてこれまでよりも、はっきりと耳を穿つ放送の声



『……ほうかごガかリは、ガッコウに……集ゴウ、シて下さイ』



 その放送が流れるのは、明らかに風が混じる、屋外の空気。

 そして――――



 襖の向こうに、が広がっていた。

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