ほうかごがかり 1
一話 ③
居間がなかった。そこには真っ暗な夜の空の下、夜の学校の屋上があって――――自宅の襖の向こうにあってはならない光景を見て、啓はその場に、思わず立ちすくんだ。
何だ!?
何だこれ!?
錯乱したような疑問が頭の中を反響した。
ただ目を見開いて、奇妙な夢のようなその光景を見つめたまま、何も理解できないまま、啓は思わず後ずさろうとした。
だがその瞬間、その背中を何者かが強く突き飛ばした。
どん!
背中に強い衝撃。
「うわ!」
つんのめり、たまらず転倒し、掌に、肘に、膝に、床に打ちつけられる痛みが走った。
そしてそんな掌に触れたのは、家の床の畳ではなく、硬くざらざらとした、冷たいコンクリートの感触。
学校の屋上の、打ちっぱなしの床の感触。
夢とは思えない、そのリアルな感触の床に手を突いて、慌てて後ろを振り返った。
自分を突き飛ばした、自分の部屋の中にいる何者かを見ようとして。しかしそのまま息を呑んだ。そこに、自分の部屋はなかった。たったいま自分が通り抜けてしまった、自分の部屋の襖がどこにもなかった。そこにはかつて体験授業で出た時に何度か見たことのある、学校の屋上の鉄のドアが、その上部に鈍い蛍光灯の灯りを光らせながら、冷え冷えと立っているだけだったのだ。
自分の通り抜けたはずの襖が、消えていた。
そして深夜の学校の屋上に、ぽつん、と自分は放り出されていた。
月も星もない完全な真っ暗闇の、広大な空間が、周囲を囲んで広がっていた。
そんな無限に思える空間のただ中で、ひゅうう、と冷たい風が吹き抜けている、入口の蛍光灯に弱々しく照らされているだけの屋上は、まるで闇夜の大洋に頼りなく浮かぶ、船の甲板のようだった。
「………………は?」
そこに呆然と座り込む、啓。
あり得ない。これは夢だ。現実のことではない。そうとしか思えなかった。
あまりにも唐突で、あまりにもおかしい。だがあまりにも、そこに身体が感じている感覚は現実で――――手に触れているコンクリートの感触も、鼻腔に充ちている空気の匂いも、肌がパジャマ一枚越しに感じている空気の温度も――――と、そこで不意に気がついた。いま自分が、パジャマではなく全く身に覚えのない服を着ていて、帽子に靴まで身につけているということにだ。
「え……なんだこれ……?」
啓は、呆然と立ち上がった。
自分の体を見た。たった今まで家にいて、パジャマを着ていたはずの自分は、いまレトロなデザインの制服のようなものを身につけていて、頭には学帽まで乗っていた。
古い時代の小学生が着ているような制服だった。少なくともそんなふうに見える。頭の帽子を取って、そのデザインや形を何度もためつすがめつし、それでもまだ目が覚める気配さえない啓は、帽子を手に持ったまま、呆然としたおぼつかない足取りで、屋上を囲む柵に向けて歩き出した。
自分だけではなく、周りの様子を確認するためにだ。
そうして啓が、屋上を囲んでいる背の高い緑色のフェンスのそばに立つと、視野がフェンス越しに大きく下方へと拓けて、学校の周りの光景が一望に目に入った。
「――――っ!?」
それは確かに啓の通う小学校。だが啓が知る学校の光景ではなかった。
そこにあるのは〝墓場〟だった。敷地と周辺に点在する街灯に照らされて、辛うじて闇に浮かび上がっている本来ならば平らなはずの学校のグラウンドは、今どういうわけか痘痕のような無数の盛り土に覆われていて、その上に突き刺さった無数の棒切れや板切れの林立によって、まるで荒れ果てた粗末な墓場のようになっていたのだ。
そしてそれだけではない。そんな学校の周囲を、〝亡霊〟が取り囲んでいる。
互いに手を繋いだ、おぼろげな姿の子供がいる。何人いるのかは判らない。ただ啓とそれほど変わらないだろう歳の、性別も容姿も服装もバラバラな子供たちが、何人も何人も生気もなく身動きもせず、夜の落としている影に半ば沈みながら、血の気のない白い肌ばかりをおぼろげに浮き上がらせて、人の鎖となって、学校の敷地の外周を、輪になって不気味に取り巻いているのだった。
学校が、亡霊に囲まれた墓地と化していた。
そんな学校の外に延々とあるはずの町は、周囲の街灯に照らされている場所だけが辛うじて見えている以外は、異様なことに一切の明かりが存在せず、まるでその存在自体が失われているかのような完全な闇と化している。
学校が、完全な暗黒に囲まれている。
街に一つたりとも明かりがないなどという事態は、現実的にあるわけがない。しかしいま見えている学校は、まるで、広大な『無』の中に浮かんでいるかのようで、それはやはり屋上に放り出された啓が最初に抱いた印象のように、この学校が真っ暗な限りない夜の大海の中にぽつんと浮かんでいる、ただ一隻の船であるかのようだった。
「なんだよこれ……」
言葉が漏れた。あまりにも異常な光景だった。
そんな光景を見つめながら、何度でも思う。こんなことが、現実であるはずがないと。
だがやはり、これを見ている啓の意識と五感は、あまりにもはっきりしていて。
さらに今もって目が覚めず、目覚める方法さえ判らない今の自分の存在そのものが、この光景と状況が限りなく現実であるらしいことを、自分に対して否応なしに証拠として突きつけてくるのだった。
「…………」
冷え冷えとした、屋上の風を感じながら。
フェンスの外に見える、異常な夜の学校と、その外に広がる無限の暗闇をその目に収めながら、啓は立ち尽くした。
この異常な状況に、どうしていいか分からず、ただこの光景を眺め続けていた。しかしそのうちに、耳に届く風の音に混じって、微かに紙がはためくような音がするのと、視界の端に小さく白いものが動いていることに、不意に気がついた。
「ん?」
目を向けた。見ると、フェンスに紙が貼ってあった。
緑のフェンスに、白い紙が。おそらくは破いたノートの紙が。
張り紙は屋上を吹いている風が当たって、はためいていた。
啓は張り紙に近づく。この状況に少しでも説明が、情報が欲しかったのだ。
張り紙の前に立って、張り紙を見た。
『いる』
ただ一言、そう書いてあった。
明らかな子供の字。
見た瞬間、凍りついた。背中に、さーっ、と冷たいものが駆け上がった。明らかに、空気が変わった。その書かれている文字が意味するところを完全に理解しきらずとも、その不吉さだけは瞬時に理解できた。
いる?
何が?
どこに?
頭の中に、そんな疑問が一瞬で走り抜ける。
だが、その結論は出なかった。
結論が出るよりも先に、
かしゃん。
と音がして。
そしてフェンスの張り紙を見ている、その視界の端で、暗闇の中から伸びた真っ赤に汚れた子供の指が、フェンスをつかんでいた。
フェンスの向こう側から。