ほうかごがかり 1
一話 ④
「!!」
息が止まった。
目を見開いて、がばっ、とそちらに目を向けた。
だがそこには何もなく、ただフェンスがあるだけだった。息を吐く。目の錯覚。そう思った瞬間だった。やはり視界の端に、フェンスの向こう側に、赤い人影のようなものが、ふっ、とよぎって、視界の外に消えた。
「っ!!」
目を向けた。
何もなかった。
その先を目で追った。
やはり何もなかった。
ただその先は、屋上の唯一の明かりである入口の蛍光灯がほぼ届かず、暗がりになっている状態だった。そして今まで気がつかなかったのだが、その暗がりの向こうに伸びているフェンスをよく見ると、そこに大きな――――人間一人が簡単に外に出てしまえるほどの――――大きな破れ目があるのを、啓は見つけてしまったのだ。
「え……?」
鉄のフェンスが破れ、外の虚空へと向けて、黒々と口を開けていた。
もちろん、本当の学校の屋上には、こんな破れ目など存在していなかった。
「…………っ」
啓は息を呑み、そして。
少しの逡巡の後に――――破れ目へと向かって、歩き出した。
破れ目を、確認するために。だがその時、そうしている啓の頭の中には、なぜか確認しようとしている何かではなく、その破れ目の虚空へと身を乗り出している自分の姿が、妙にはっきりしたイメージとして浮かんでいた。
「……」
歩み寄る。
近づく。
「……」
手をかける。
覗き込む。
「……」
そして、身を乗り出して。
その時。
「――――啓!! 止まれ!!」
突然。
背中から大声で制止の声をかけられて、はっ、と我に返った啓は、その瞬間、フェンスの破れ目に向けて歩き、破れ目を覗き込んだ自分の意思が、自分の意思ではなかったことに気がついた。
「…………………………っ!!」
一体どこからだったのだろうか。
最初はあれだけはっきりとしていた自分の意識と感覚に、薄い膜がかかっていて、まるで引き寄せられるようにして、自分から破れ目へと向かっていたことに、啓はたったいま気づかされた。
頭の中を包んでいた、シャボン玉が割れた感覚。
鳥肌。そんな突然クリアになった感覚と共に、自分を正気に返した声のした方向を驚きながら振り返ると、そこには今の啓が着ているのと同じ制服を着た一人の少年がいて、屋上の入口のドアを開けた姿で、肩で息をしながら立っていた。
「!」
その顔を見て、啓は目を見開く。
そして自然と、彼の名前を口にしていた。
「惺……」
「啓」
屋上の入口に立っていた緒方惺は、疎遠になる以前には見たことのない厳しい表情で啓を見つめ、啓の名前を呼んだ。
そして一度、口の端を、やりきれないといった様子で引き結ぶと、
「君には、君にだけは……!!」
そう戸惑う啓に向けて、叫んだ。
「君にだけは、『ここ』に来て欲しくなかった……!!」
それは今まで惺からは聞いたことのない、押し殺した叫びのような、あるいは血を吐くような、苦しげな声だった。
3
そこは確かに、見慣れた小学校の廊下で。
しかし決して、見慣れた小学校の廊下ではなかった。
しゃ――――――っ、
と耳の中を満たす、空気に混じる微かなノイズ。
廊下の灰色の天井に、等間隔に埋め込まれている校内放送のスピーカーから、絶えずノイズが流れ出していて、廊下の空気へと拡げ続けているのだ。
酷く、薄暗い。
夜の小学校に入った事など一度もないが、本当に、こんなに照明が暗いのだろうか?
思わず、そんな疑問が浮かぶ。それくらい、天井の明かりは灯ってはいるものの、劣化して光が弱く、濁って、翳っていて、その真下さえ照らしきれずに、長い通路全体にざらついた影を沈殿させていた。
てん、
てん、
と続く蛍光灯には、明滅しているものや、消えているものも混じっている。
弱々しい明かりを、ぽつ、ぽつ、と繋いで――――一部は途切れて――――暗く、あるいは薄明るく、無機質に、有機的に――――様々な表情を入り混じらせながら廊下は、茫、と彼方へと伸びている。
廊下の左右に並ぶ、それぞれ外と教室に通じるガラス窓は暗闇で、墨を満たしたかのように黒く、向こう側を見通せない。まるでトンネルに入った電車の窓のようで、そんな黒で塗り潰したガラスの表面には、廊下と自分ともう一人の姿が、掠れた光沢に滲むようにして、どこかぼんやりと映っていた。
ずし、と見える影が、重い。
空気が虚ろで、うそ寒い。
そんな廊下を、啓は歩いている。冷たく硬く、砂埃でうっすらとざらついている床の感触を靴の裏に感じながら、先導者の後をついて、ひたひたと歩いていた。
先導するのは、緒方惺だ。
レトロな制服を着た惺。それは啓が着ているものと同じものだったが、他人が着ているのを見て、初めて啓は、その制服のデザインに見覚えがあることに気がついた。
啓の通う小学校は創立から十年ほどになるが、それは他の小学校との統廃合によって新しくなってからのことだ。その元になった、神名小という名前の小学校は、それよりも百年くらい昔からあったらしく、その歴史を記念する展示が、校長室の近くにある廊下のガラスケースの中にあるのを啓は見たことがあったのだ。
啓は絵描きとして優れた素養を持っていた。
見たもののディテールを、かなりよく覚えているのだ。
だから憶えていた。その展示されているものの中に、あったのだ。
写真だ。白黒の古い写真。その集合写真の中の子供たちが着ていた制服が、いま惺が着ている服に、とてもよく似ていた。
昔の制服姿で、啓と惺は歩いていた。
啓は手ぶらだ。だが惺の手には、一本のスコップが携えられていた。
学校の中で持ち歩く光景はやや異様に見える、その若干小ぶりな、総ステンレス製の剣型スコップ。それは使い込まれて、傷と汚れに覆われているのにもかかわらず、剣先が明らかに鋭く研がれているのが、妙に印象的だった。
「惺、これって何だ!? 何か知ってるのか!?」
「……説明はする。でも、まずは来て欲しい。ここにいると危険だ」
屋上で顔を合わせたとき、思わず詰め寄った啓に、惺は気まずそうにそう言うと、まずは学校の中へと啓を誘導した。そして惺は、こんな状態の学校の中を、全て知っているかのように先行して、啓をどこかへと案内しようとしていた。
階段を一階まで延々と降り、そこから廊下を延々と行く。
啓はその道中を見回す。道中である校内の様子も、屋上と同じく、いや、それ以上に、異常な状態を呈していた。
夜であることを割り引いてもなお暗く、影が濃く、そして空気には延々とスピーカーから砂のようなノイズが流されている。途中で一つだけ、明かりのついている教室を見かけたが、その教室は窓の内側が異常なパズルのように積み上げられた机と椅子で塞がれていて、室内の様子を見ることができなくなっていた。
そして、その入り口に張り紙があった。
『いる』