ほうかごがかり 1
一話 ⑤
ノートの紙に子供の字。屋上で見たものと、ほぼ同じ張り紙。
どういうことなのか。何が『いる』というのか。もちろん気にはなったが、それを聞く雰囲気ではなく、並んで歩いている二人の間には重く張り詰めた沈黙があり、あれ以降、惺が話しかけてくることはなかった。
ノイズの他は静寂の廊下に、二人の足音だけ。
意味不明な状況の中で、緊張と動揺を帯びた浅い呼吸をしながら、啓は、二人は、黙々と歩き続けている。
緊張に、体温を奪われながら。
しかし、こんな状態でも、啓の中には、久しぶりに惺とまともに言葉を交わすことができたことへの、安堵のようなものがあった。
理不尽が、啓は嫌いだった。
一年間、惺から受けた理不尽。ここにその解答があるのなら、それはいま置かれている異常な理不尽の中にある、救いと言えた。
「啓」
やがて、前を歩いていた惺が、不意に意を決したように、重い口を開いた。
「僕は……君に、謝らなきゃいけない」
啓の方を見ることなく。しかし惺特有の、その少し堅苦しい話し方が、ほぼ一年ぶりに自分に向けられたのを聞いて、啓は懐かしさを覚えながら短く答えた。
「……聞くよ」
「急に説明なしに、君を遠ざけた。それが君を傷つけていることにも気づいてた」
「うん」
「悪かった。許してくれとは、とても言えない。一年前の僕は、もう二度と君とは話をすることもないと決めて、君を無視した。理由は君が僕とかかわることで、君を『ここ』に巻き込むかもしれないと考えたからだ」
惺は率直に言う。啓はそれに対しては何も言わず、逆に惺へと質問した。
「『ここ』っていうのは?」
「『ほうかご』」
惺の答え。
言葉の意味は分かる。だが絶対に、そのままの意味ではなかった。
「……ほうかご?」
「うん」
聞き返す。だがそれに惺は返事だけして答えず、廊下の曲がり角で立ち止まり、初めて啓の方を振り返った。その表情は、今のように疎遠になる前にはいつも見ていた、いかにも惺らしい、穏やかで冷静で意志の強そうな表情だった。
そして啓からは見えない、暗さだけが窺える、曲がり角の先を指さして、おもむろに口を開いた。
「着いた。ここだよ」
惺は言う。
「それから、僕が話をするのはここまでだ。後はここで、みんなと一緒に『顧問』から聞いて欲しい」
「顧問? みんな? どういうことだ?」
その問いに答えはなかった。
ただ惺が指さす先は、この学校の建物の中でも最も奥まった区画で。
さらに言えば最も古い区画で、昼間でさえ誰もいないような場所だった。
そこには――――『開かずの間』があるのだ。
一番古い校舎の、奥の奥。この小学校の端の建物。ここは本校舎と接続され廊下も地続きになっているが、統廃合の際の改築の時に取り壊されずに再利用された建物で、家庭科室や図工室などの特別教室が集中している場所だった。
その一階の突き当たり。曲がり角になっている先の、短い袋小路の廊下。
そこは昼でも薄暗く、電灯がつけられることもなく、ただ備品倉庫と、それと向かい合わせに何の表示もされていないドアが、両側にあるだけだった。
その何も書いていない方のドアが――――『開かずの間』と呼ばれているのだ。
増築と改築から取り残され、薄汚れた印象のある端の校舎の中でも、最も暗い場所にあるその部屋のドアは、黒い埃を塗りたくったようにひときわ薄汚れていて、見るからに不気味なドアだった。
小さな正方形のガラス窓がついているが、向こう側から布か紙で塞がれているようで、中を見ることはできない。外側に窓もない。そしてこの部屋は、中がどうなっているのか、先生たちですら知らない、正体不明の部屋なのだった。
職員室に鍵もない。開けられないのだ。
そうして、しばしば先生たちですら『開かずの間』と呼んで話の種にしている、この謎の部屋は、特に低学年の子たちの恐怖の対象になっていた。
ドアに触ると呪われるとか、閉じ込められて餓死した子供の死体が部屋の中にそのまま残されているとか、そんな噂まであったのを啓も聞いたことがある。真偽は不明で、実際に呪われた子の話も聞いたことがないが、ふざけてこの暗い袋小路に入っているのが見つかると先生には怒られるので、あえて近づこうという子はほぼいない。
惺は、その袋小路を指さしていた。
そして、戸惑う啓を導くように、黙って曲がり角の向こうへと歩き出す。
「あ……」
啓は慌てて追いかけ、自分も。
角を曲がると、ひときわ暗い影が落ちている袋小路の――――その突き当たりの両側にあるドアの片方に、煌々と明かりが灯っているのが目に入った。
「!」
開いていた。
その『開かずの間』のドアが開いて、暗い廊下に、光を落としていた。
惺が、部屋の前に立っている。状況のあまりの判らなさに、少しの躊躇があったが、啓はすぐに覚悟を決めると、自分も暗い袋小路に、そして袋小路の暗闇に漏れ出す光の中へと、足を踏み入れた。
「……っ」
明かりの眩しさに、思わず目を庇いはしたものの。
覚悟をした割には、『開かずの間』は、普通の部屋だった。
教室ほどには広くない、倉庫か、あるいは準備室ほどの大きさをした部屋だ。幽霊も怪物も怪しい物体も見当たらず、一方の壁を大きな木製の棚が埋め、もう一方は黒板。やはり印象としては準備室に近かった。
そしてそんな部屋に、所在なさそうに立つ、数人の子供たちがいた。
四人。
全員女の子かと思ったが、一人は女の子っぽい顔立ちをした男の子だった。
みんな、啓と同じ制服を着ている。そのせいで奇妙に時代がかった一団だ。何も持っていない子が大半だったが、そのうちの一人の女の子だけが、どういうわけか惺がスコップを持っているのと似た感じで、一本の竹箒を携えていた。
箒を持った女の子に、女の子っぽい容姿をした男の子。
肌の少し浅黒い女の子に、ひときわ背が高くて容姿の整ったモデルのような女の子。
そこに惺と啓。全員が、似たような年の頃だった。というよりも、何となく憶えのある顔ばかりな気がする。たぶん全員が、この小学校に通っている啓の同級生か、そうでなくても高学年の子ばかりなのだ。
「…………」
部屋の入口に立った啓に、みんな一斉に、目を向けていた。
だがその表情は、それぞれ不安であったり緊張であったり、あるいは警戒であったり確認であったりと、啓に対して友好的な表情は、少なくとも明るい表情は、その中には一つたりともなかった。
そして――――そんな少年少女たちの向こう。部屋の奥に、もう一人。
奥の壁際に置かれた机に向かい、背中を向けた、一目見て目を引く人物が、部屋の主のように座っていた。
その人物は、真っ白な髪をしていた。
一目見て目立つ、肩よりも長い白髪。小柄で、古めかしい半纏を羽織っていた。
この人物にだけは見覚えがなかった。一見して老人かと思った。だが啓がそう思った直後、その人物から発された声は、その口調と内容はともかく、声質は間違いなく年若い少年のものだった。
「…………はあ。やれやれ、これで全員そろったかな?」
立ち上がらず、椅子も動かさず、上半身だけ動かして、その少年は啓たちを横目に見た。
そこに垣間見えた横顔は、伸びた白い前髪が顔にかかっていたが、やはり啓たちと変わらない、同じような年頃の少年の顔だった。
彼はいかにも面倒くさそうな目で一度だけ全員を見回すと、また机の方に顔を戻した。
そして、後は啓たちの方を見ることなく、
「じゃあ、まあ、よろしくね。今年の『ほうかごがかり』のみなさん」
と言葉だけ。
ぞんざいな労いを、啓たちに投げかけた。