ほうかごがかり 2
五話 ②
日本に引っ越して、小学校に入学して、そこで見かけた、一つ上のお姉さん。
幼い頃から何度も来ている国だが、本格的に住むことになって、しかも初めての学校に通うことになって、期待と不安がないまぜだったイルマ。そんなイルマが、不安そうに周りを見回しているうちに見つけたのは、この学校で間違いなく一番の、いや、街の中学生でにも高校生にも見たことのないほどの――――それなのにテレビの画面も漫画の紙面も隔てずに、そうしようと思えばすぐにでも触れて言葉を交わせる、同じ空気を呼吸している、そんな間近の空間で見た初めての美少女だった。
イルマは真絢を知っていた。
ヒロインへの憧れからファッションに強い興味があったイルマは、ティーンズ向けのファッション誌やファッションカタログを読むのが好きで、真絢はそこに載っているモデルの『まあや』を見たことがあった。
周りから頭ひとつ抜けておしゃれな服。背が高くてすらっとしたスタイル。濡れたような色艶をしたまっすぐな黒髪。抜けるような白い肌と、大人びて整った綺麗な顔に、ミステリアスな雰囲気。
写真でも綺麗で印象に残っていたが、動き、話している真絢を見て、イルマは激しい衝撃を受けた。動く真絢は写真で見るよりもはるかに魅力的で、周囲の人間とは別次元に目立っていて、立ち振る舞いも、表情も、声も言葉も話し方も、垣間見える人格さえも、まさにイルマの理想のヒロインだったのだ。
本当にいるんだ……!
感動と共にそう思った。
自分は、アニメの世界に来たのだと、漫画の世界に来たのだと、そのとき確信した。
アニメと漫画はイルマの全てだった。幼少期を外国で過ごしていたイルマが、それにもかかわらず言葉に一切不自由しないのは、家で話していたこともあるが、それ以上にアニメをたくさん見ていたからだ。イルマが自分のことを『ボク』と言うのは、一番たくさん口ずさんでいた大好きな歌がアニメの主題歌で、その歌の一人称が『ボク』だったからだ。
そんなイルマにとって、理想のヒロインそのものである真絢は、まるで憧れの世界へとつながる扉のように見えた。漫画でよく見た表現だが、こんなヒロインと出会ったなら、確かにその瞬間、世界が変わるに違いないと思った。
だが、もちろん、自分から話しかける勇気はなくて。
イルマは正しく一介のファンとして、その実ずっと目で追いながら、四年間を過ごした。
初めて直接見た有名人を、初めて親を見たヒヨコのように見つめながら、イルマはずっと真絢に理想のヒロインを投影していた。そして真絢はその間、イルマの投影した理想のヒロインであり続け、決してイルマの理想を裏切ることはなかった。
だがその間――――イルマは逆に、自分には、失望し続けていた。
小学生として過ごすうちに、イルマは自分の普通さを――――いや、醜さと臆病さと卑怯さを、どんどん自覚してゆくばかりだったのだ。
道を歩いていて、目の前の人が落とし物をしたのに声もかけなかったこと。
拾った百円を黙ってポケットに入れたこと。
クラスメイトが意地悪されているのを止めなかったこと。
テストの答えが分からなかった時に、つい隣の席を見ようとしてしまったこと。
つい面倒で宿題をサボったこと。
宿題はもうやったと、ママに嘘をついたこと。
先生に、頭が痛くて宿題ができなかったと嘘をついたこと。
そしてそのことにずっと罪悪感を感じて、後悔していたのに、また別の時に、嘘をついてしまったこと。
……積み重ねて、理解せざるを得なかった。
イルマは、ヒロインにふさわしいような、正しさも優しさも勇気も持っていないと。
なんて醜いんだろう。こんな子が、友達になってほしいだなんて、ヒロインに向かって言えるわけがない。自分からはとても言えない。自分の中身の醜さと弱さを知っているから、とてもではないが平気な顔をして、彼女の前になんか立てなかった。
だから、ずっと、見るだけだった。
諦めて、見るだけ。けれども彼女を見ているイルマは、そうしながら、とある小さな希望を捨てられなかった。
それは――――
いつかヒロインが自分を見てくれて、手を差し伸べてくれるかもという希望。
ヒロインが、真絢が、こんな弱い自分を見つけてくれて、手を差し伸べてくれて、こんな自分を許してくれて救い上げて、そしてそれからは胸を張って生きていけるキラキラした自分に変われるのだという希望だった。
ボクを、見つけてほしい。
イルマはそう夢見ながら、真絢に視線を送って暮らしていた。
目にとまりやすい、可愛い服をまとって。自分でもそれが、ただの夢だと理解しながら。
だが――――そんなイルマに、〝それ〟は、突然もたらされた。
まるで漫画のような、奇跡のような、ヒロインとの接点。
そしてその奇跡は、やはり漫画のように。
望んでいない、現実とは思えない、奇跡のような地獄と、抱き合わせになっていた。
最初は怖いながらも興奮した。
それこそ、漫画みたいな展開だったから。
帰りの会で配られた連絡のプリントに二枚目があって、そこに『ほうかごがかり』という文字と一緒に自分の名前が書かれていて、その日の夜から『ほうかご』の学校に呼び出されることになって。
不思議な夜の学校に、不思議なおそろいの制服を着て、憧れのヒロインと一緒に呼び出される。自分の希望とは少し違うけれども、こんな漫画のような、夢見たような出来事が、本当にあったのだと、最初は胸が高鳴った。
だが――――
瀬戸イルマには、勇気がない。